闇に抱かれ ムスタファ
——ぽちゃん、と。深く、静かな水音が耳の奥で反響した。
目を開けたとき、ムスタファは見覚えのある石造りの回廊に立っていた。
足元から這い上がるような、大理石の冷気。壁際に等間隔で並ぶ金の燭台には、微かな火が揺れている。風などないはずなのに、遥か高くに張られた豪奢な天井の薄布が、生き物のように蠢いていた。
それは、彼が幼い頃に過ごした王宮の——孤独と沈黙に支配された、深く閉ざされた記憶の景色だった。
「……来たか」
低く、威厳に満ちた声。足音もなく現れたその人影に、ムスタファはわずかに息を呑んだ。
豪奢な外套を纏うその男——父だ。
記憶の中の父は、いつも冷たい背中を向けているか、路傍の石を見るような無関心な目を向けるかのどちらかだった。だが今の父は違った。真っ直ぐにムスタファへと歩み寄り、決して交わることのなかったはずの視線で、しっかりと己の息子を捉えている。
「講師たちから報告を受けた。学業に剣術、精霊術に至るまで、目覚ましい成長を遂げているそうだな」
父は数歩の距離で立ち止まり、深く、満足げに頷いた。
「よくやった。お前は私の誇りだ」
その言葉は柔らかく、確かな愛情と期待を帯びていた。
——あり得ない。
己に一切の関心を示さず、ただの一度たりとも見向きすらしなかったあの父が、そんな温かな目と声で語りかけるはずがない。
幼い頃、泥にまみれ、血を吐くような鍛錬の末にその足元へ跪いても、投げ与えられたのは底知れぬ冷酷さだけだったはずだ。
視線をずらすと、甘い香木のような匂いとともに別の気配があった。
振り向けば、そこに立っているのは、亡くなったはずの母だった。
「よく頑張っているわね」
穏やかに微笑み、彼女は両手を差し伸べてくる。
記憶にあるのは、氷のように冷たく厳しい眼差しだけだ。異常なほどの厳格さで己を縛りつけ、少しでも期待に沿えなければ容赦なく罵られた。そこに、温かな愛情の欠片すら向けられたことなど一度もなかった。
だが目の前の母は、愛おしげに目を細めている。
「今まで、厳しくしてごめんなさい。でも、それも全てあなたを深く愛しているからなの。さあ、こちらへ」
その言葉は、あまりにも優しく、あまりにも甘い。
——これも、あり得ない。
もし。ほんの少しでも違う人生だったなら。
心が、ぐらりと揺れそうになる。
幼い頃の自分が、どれほど泣き叫び、喉から血が出るほど欲求しても、決して手に入らなかったものが、今、目の前にある。
彼らの手を取れば、この心地よい幻の中で、永遠に“愛される子”でいられるのだろう。過去の古傷を舐め合い、満たされたふりをして、微睡み続けることができるのだろう。
だが。
「……気色が悪い」
吐き捨てるように、ムスタファは言った。
差し伸べられた手に触れることなく、明確な拒絶の意志を持って一歩退く。
欲しかった。狂おしいほどに。だからこそ——こんな安っぽいつぎ接ぎの幻影で、己の渇きが満たされるなどと舐められていることが、たまらなく許せなかった。
胸の奥に広がるのは、反吐が出そうなほどの嫌悪だ。
「こんな紛い物の温もりで、俺が懐柔されるとでも思ったのか」
声は静かだった。だが、その奥にある意志は、微塵も揺らがない。
空間が歪んでいる。出口という概念そのものが、ここには存在していない。
強力な精神干渉の術の中だ。
ならば、方法は二つ。神聖術で術式そのものを断ち切るか——己が攻撃対象となり、強制的に目覚めるか。
ならば。
「——焼き切る」
迷いはなかった。
「《——火の精霊よ」
その詠唱は、誰に向けたものでもない。
ただ、自分自身へ。
「我が身を糧とし、全てを灰に帰せ》」
次の瞬間。
轟、と。灼熱の炎が——ムスタファ自身を包み込んだ。
皮膚が焼ける。
肉が裂ける。
骨の髄にまで届く熱が、容赦なく全身を侵し、焼き焦がしていく。
だが、術は止めない。声も上げない。ただ、己を燃やし続ける。
この術は、意識に根ざすものだ。ならば、囚われた意識ごと焼き尽くせばいい。
視界が白く染まる。感覚が途切れていく。それでも——
「……まだだ」
炎を、さらに強める。自分の命が尽きる、その寸前まで——
ぷつり、と。
何かが切れた。
⚜️⚜️⚜️
重たい瞼をこじ開けた瞬間、視界を埋め尽くしたのは、冷たい石造りの床だった。
ムスタファは、うつ伏せに倒れ伏していた。
視界の隅に制服の袖口が映る。あれほどの猛火に自らをくべたというのに、身に纏う衣服は僅かに表面が焦げるにとどまり、決して燃え尽きてはいなかった。極めて高度な耐火の特殊加工が施されているのだ。全身を苛む激痛の最中でありながら、ムスタファは(流石は特注品だな)と意識の片隅で妙な感心を覚えた。
首だけを巡らせると、すぐそばにライルとジャミーラの姿があった。
眠っているかのように安らかな表情とは裏腹に、二人の身体からはどす黒く禍々しい瘴気が立ち昇っている。
自らの炎で焼き焦がした皮膚がひきつる。傷だらけで軋む身体に無理やり力を込め、ふらつきながらも両足で立ち上がった。
そしてゆっくりと視線を上げた先で、ムスタファは、思わぬものを見た。
「……」
ディーターが、初めてその仮面のような表情を崩していたのだ。
常に浮かべていた余裕も、退屈そうな色もない。そこにあるのは、純粋な“驚愕”。
その見開かれた双眸が他でもない自分に向けられていると理解するのに、時間はかからなかった。
ディーターの背後には、両手を広げ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女神アウロラの巨大な像がそびえ立っている。
静寂に包まれたこの空間——間違いない、ここは聖エリュシア学園の大聖堂だ。
「……なるほどな。どおりでライルの攻撃が当たらないわけだ」
口の中に広がる血の味を吐き捨てながら、ムスタファは呟いた。
ディーターの術でここに転移させられてからというもの、ずっと肌にまとわりついていた奇妙な違和感。今、ようやくその正体が腑に落ちた。
これまでディーターと相対していたあの場所は、最初から現実ではなかったのだ。自分たちは既に、精巧な夢に囚われていたのである。
「……驚きましたよ」
ディーターが、微かに震える声でゆっくりと口を開いた。
「まさか、幻術を破るために——己ごと焼き尽くそうとするとは」
その声音には、恐怖ではなく、どこか呆れたような感嘆の色が混じっていた。
「もしそのまま死んでいたら——どうするつもりだったのですか?」
問い。
だが、ムスタファは一切の逡巡もなく言い放った。
「死など、恐れてはいない」
短く、力強い断言。そこに強がりはなく、ただ揺るぎない事実だけがあった。
張り詰めた沈黙が大聖堂を満たす。
やがて、ディーターは小さく頷き、わずかに口の端を歪めた。
「……なるほど。あなたは——随分と変わったお方だ」
ムスタファはもう答えない。その鋭い眼差しは、油断なく目の前の敵を捉え続けていた。
夢は終わった。だが、現実の死地はここからだ。
思考を高速で巡らせる。
床に伏すライルとジャミーラの悪魔化は刻一刻と進行している。神聖術が使えない自分が彼らを救うには、精霊術で二人を直接攻撃して無理やり覚醒させる荒療治しかないが、無防備な味方にそんな真似ができるはずもない。
閉ざされた大聖堂の重厚な扉の向こうからは、無数の気配が感じ取れる。おそらく大聖堂を包囲している聖騎士団だろう。
しかし、一向に突入してくる気配がないのは、この空間を覆う強力な結界のせいか。
結界を破る余裕などない。ならば、元凶を絶つしかない。
マナは、まだ体内を熱く脈打っている。
だが、それを行使するための“器”である肉体が限界だった。ひどく焼け爛れた手足では、精緻な術を編むことも、莫大なマナの奔流に耐えうる姿勢を保つこともできない。だが、このままでは全滅だ。どうせ死ぬのなら——
ムスタファは深く息を吸い込み、構えをとった。
一か八か。全力で悪魔を屠る。
「《——炎よ、すべてを焼き尽くせ!》」
残されたマナを右手に収束させ、ムスタファは放った。
だが、炭化しかけた腕が激しく痙攣し、力の制御が効かない。大気を焦がしディーターへと殺到するはずの炎は焦点が定まらず、ひどく散漫なうねりとなってしまった。
「……遅いですね」
ディーターは薄く笑い、まるで羽虫でも払うかのように、ただ軽く手を振るった。
それだけで、轟々と燃え盛っていたはずの炎は、目に見えない壁にぶつかったかのように呆気なく霧散してしまう。
「……っ」
激しい眩暈に襲われ、ムスタファはたまらず片膝をついた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界がぐらりと揺れる。息を吸うだけで肺が焼けるように痛んだ。
無理もない。幻術から強制的に覚醒するため、己の身を焼きすぎたのだ。彼の中にはまだ確かなマナが燻っているというのに、それを振るうための神経が、筋肉が、とうに悲鳴を上げていた。
「自らを犠牲にするその精神力には感心しましたが、やはり肉体は限界のようですね」
見下ろすように告げるディーターの声には、再び嗜虐的な響きが戻っていた。
「莫大なマナを抱えたまま自壊していく様も一興ですが、器として失うには実に惜しい人材だ。——あなたのような強靭な精神を持つ者には、少々手荒な処置が必要なようです。もう一度、あの心地よい闇の底へご招待しましょう」
ディーターの足元から、どろりとした漆黒の影が不気味に膨張し、這うようにしてムスタファへと迫る。
ぞくり、と。
先程と同じ、いや、それ以上に粘着質で暴力的な精神干渉の波が、ムスタファの脳髄を直接鷲掴みにした。
「……っ、が、あ……!」
抗おうと歯を食いしばるが、指先一つ動かない。
満身創痍の身体は、迫り来る闇を弾き返すだけの抵抗力すら失っており、無防備に侵食されていく。五感が泥に沈むように奪われ、再びあの忌まわしい夢幻へと強制的に引きずり込まれる感覚。
(……ここまで、か)
どれほど強靭な意志を保ち、莫大なマナを内に秘めていようと、動かない体ではもはや抗う術もない。
ムスタファの意識が絶対的な漆黒に呑まれ、冷たい闇の底へと沈みゆく。
万事休すと思われた、その刹那だった。
「《闇に濡れし 迷ひ子よ
その魂 闇のものにあらず》」
澄み渡るような歌声が、澱んだ大気を震わせた。
それは、冒涜的な空間に落ちた一滴の清流。大聖堂の重苦しい静寂を打ち破る、凛とした足音が冷たい石床に高く、清らかに響き渡る。
「《光は そなたを抱き
ここへ 帰らせん》」
天上の調べにも似た、柔らかな旋律。
その言霊が紡がれると同時、ムスタファの五感を縛り付けていた粘着質な闇が、朝陽に焼かれる朝露のごとく幻と消えていく。
ふわり、と。凍てつくような死地に、陽だまりのような温かな光が満ちた。
それは、あまりにも清廉で、息を呑むほどに美しい、純然たる黄金。
音もなく、ただ静謐に。
迫り来る禍々しい闇の“継ぎ目”を、神意の刃のようにただ正確に、鮮やかに断ち切ってゆく。
「《おやすみ おやすみ 安らかな夢を》」
その声は、傷ついた魂を優しく撫でる慈愛に満ちていた。
降り注ぐ光の粒子に包まれながら、ムスタファはゆっくりと、引き寄せられるように振り返る。
揺らめく黄金の輝きを背負い、穢れなき光の中を静かに歩み来る者がいた。
きらめく灯火を紡いだような、鮮やかな金糸の髪。その奥で、すべてを包み込むような深い温かさを湛えた、琥珀色の双眸が静かにまたたいている。
そこにいたのは——アルテリスだった。




