闇に抱かれ ジャミーラ
チリン、と。繊細な銀の匙が、硬質な陶器に触れる涼やかな音がした。
細密な唐草模様が施された器に、銀の食器が当たるたび、その澄んだ響きが静寂を震わせる。
どこか懐かしく、そして魂を鎮めるようなその音に、ジャミーラは伏せていた長い睫毛を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
視界に広がっていたのは、見慣れた、そして砂漠の彼方へと消え去ったはずの、豪奢な食卓だった。
磨き上げられた漆黒の黒檀のテーブル。その上には金糸で刺繍された極彩色のシルクが敷かれ、青銅の灯籠の中では、香油の炎がゆらゆらと踊っている。
並べられた器には、宝石のように輝くザクロの粒、湯気を立てるスパイスの効いた仔羊の煮込み。
壁を飾る細密画も、夜風に揺れる重厚な綴れ織りのカーテンも——すべてが、ジャミーラの記憶に刻まれた“あの日”のままだった。
(……ここは)
瞬きを繰り返す。
ここは——間違いなく、我が家だ。彼女が生まれ育った、侯爵家の屋敷。
「どうした、ジャミーラ。手が止まっているぞ」
低く、落ち着いた声が、食卓の向こうから届いた。
ハッとして顔を向けると、そこには父が座っていた。
格式高い長衣を纏い、家長としての威厳を漂わせながらも、家族に向ける眼差しには不器用な情愛を滲ませる人。眉間の深い皺も、わずかに白いものが混じった顎髭も、あの日と同じ年齢、同じ温かさで、そこに存在している。
「お前が好きな、仔羊の香草焼きだ。料理が冷める前に食べなさい」
「……お父様」
その隣で、母がふわりと微笑んだ。柔らかく、すべてを包み込むような陽だまりのような笑み。艶やかな漆黒の髪を揺らし、少しだけ首を傾げる癖まで、記憶から抜け出してきたように何も変わっていない。
「そうよ、ジャミーラ。料理長が腕を振るってくれたのだもの。今日はあなたの大好きな、蜜をたっぷりかけたバクラヴァもあるのよ」
「ほら、姉様、ぼーっとしてる。せっかくの肉が硬くなっちゃうよ」
からかうような、甲高い声。
視線を向けると、隣の席で弟がにやりと悪戯っぽく笑っていた。生意気で、けれど誰よりも甘えん坊だった弟。
向かいには兄がいて、騒がしい弟を軽く窘めながら、いつものように静かに、上品な所作で食事を続けている。
——四人とも、いる。
——欠けることなく、揃っている。
(……どうして?)
胸の奥の、ずっと深いところで、小さな何かが引っかかる。ささくれだったような、チクリとした痛み。けれど、それが何なのか、どうして自分がそんな痛みを感じているのか、うまく言葉にならない。思考が甘い香煙に巻かれたように、まとまらないのだ。
「……いえ」
ジャミーラは、ゆっくりと首を振った。
「少し、考え事をしていただけです。……いただきます」
自分の声は、ひどく自然で落ち着いていた。得体の知れない違和感を覚えているはずなのに、言葉は滑らかに唇からこぼれ落ちる。
震える手で匙を手に取り、切り分けた肉を口に運ぶ。
温かい。
溢れる肉汁、香草の爽やかな香り、舌の上でとろけるような味わい。すべてが現実のように確かだった。夢だとしたら、あまりにも生々しすぎる。
「最近、学園はどうだ。上手くやっているのか?」
父の何気ない問いに、ジャミーラはカチャリと手を止めた。
——学園。
(……そう。わたくしは、聖エリュシア学園にいる……はず)
侯爵家を離れ、寮で寝起きして、授業を受けて、聖騎士となるための厳しい訓練と任務に明け暮れて——
(なら、どうしてわたくしは今、ここにいるの?)
思い出そうとした瞬間、頭の奥にズキリと鈍い痛みが走った。鋭い針を突き立てられたような痛みに、思わず顔をしかめる。
「……っ」
「ジャミーラ? どうしたの?」
母の声が、すぐ近くで響く。心配そうに覗き込んでくるその瞳は、昔と変わらず深い愛情に満ちていた。
「顔色が悪いわ。どこか痛むの? それとも、学園で何か嫌なことでもあった?」
「いえ……大丈夫です。なんでもありません」
また、反射的に同じ言葉が出る。けれど今度は、その言葉が空ろな風の音のように響いた。
大丈夫なはずがない。
何かが、決定的に“おかしい”。
はっきりとした形はない。証拠もない。ただ、肌を刺すような本能的な警鐘が、確実に“ここは違う”と叫んでいる。
よく見れば、煌々と灯るはずの灯籠の光が、妙に白々しく無機質だ。窓の外の景色は、分厚いカーテンに遮られて一切見えない。
視線を上げる。
父がいる。母がいる。兄がいる。弟がいる。
全員、笑顔でこちらを見ている。
——揃っている。
(……違う)
胸の奥で、何かが強くざわめき始める。波がうねるように、不安が押し寄せてくる。
「……皆様は」
乾いた唇から、かすれた声が漏れる。
「どうして……ここに、いらっしゃるのですか?」
その問いを口にした瞬間、食卓の空気がわずかに揺らいだ。ピキリ、と。見えない硝子にひびが入ったような、奇妙な感覚。けれど、家族の誰も驚かない。不審な顔もしない。父はゆっくりと、音を立てずに銀器を置き、ジャミーラを真っ直ぐに見据えた。
「何を言っているんだ、ジャミーラ」
その声は、あまりにも落ち着き払っていた。感情の起伏が一切感じられない、凪いだ海のような声。
「ここは我が家だ。私たちがここにいるのは、当然のことだろう」
母も、先程と寸分違わぬ優しい微笑みを張り付けたまま続ける。
「そうよ。わたくし達家族でしょう? 家族が一緒に食事をするのは、当たり前のことじゃない」
家族。
その温かいはずの言葉が、なぜか鋭い氷の刃となって胸に深々と刺さる。
(家族……?)
違う。
違うはずだ。
わたくしの本当の家族は——
「……皆様は、あの日」
声が震える。事実を口にするのが、恐ろしい。
脳裏に閃くのは、視界を灼く黒い炎。
逃げ惑う人々の悲鳴と、崩れ落ちる屋敷。
自分を庇い、血に染まって倒れていく父と母、兄弟たちの背中——。
そうだ。大厄災の日、“家族”という世界は、自分の目の前で跡形もなく焼け落ちたのだ。
聖騎士に命を救い出されても、自分の魂はあの日からずっと、燃え盛る瓦礫の下に取り残されていたはずで。
(……でも、違う。わたくしは、もう)
絶望の底で蹲っていた自分を掬い上げたのは、ある神聖術師が捧げた温かな祈りの歌だった。
一人取り残された自分を不憫に思い、涙ながらに抱きしめてくれた新しい家族の不器用な優しさ。
二度と誰も失いたくないという誓いと、あの時自分を救ってくれた神聖術への憧れ。
その決意を胸に見上げた、聖エリュシア学園の高くそびえる門。
そして——
(……アルテリスさん)
ムスタファ。
ライル。
ルイーズ。
かけがえのない仲間に出会えた。
その瞬間、世界が軋んだ。
ぐにゃりと、空気がわずかに歪む。
ほんの一瞬、テーブルの上の料理が黒い泥のように見え、家族の輪郭が陽炎のようにぶれた。
「ジャミーラ」
父の声が、低く、重く響く。
それは威厳というより、絶対的な呪縛を帯びていた。
「余計なことを考えるな」
その言葉は、魂を凍りつかせる命令だった。
瞬間、ジャミーラの思考が白く塗り潰される。無理やり火を消されたランプのように、脳裏に浮かんでいた仲間たちの顔が、急速に光を失っていく。
母が、静かに微笑む。その瞳の奥には、虚無だけが宿っていた。
「そうよ、ジャミーラ。辛いことは全て忘れてしまいなさい。そうすれば、わたくし達はずっと一緒にいられるのだから」
兄も、弟も、何も言わない。ただ、同じように首を傾げ、同じ角度の微笑みを浮かべ、じっとジャミーラを見つめている。
逃げ場のない、四対の視線。それは蛇のように冷たく、彼女の理性を絡め取っていく。
(……ずっと、一緒にいられる?)
家族と再会できるなら、魂を悪魔に売っても構わないと泣き明かした夜があった。それほどまでに渇望した願い。けれど、胸の奥で、何かが強く、激しく拒絶している。“これは偽物だ”と。それでも——
「……はい」
口は、勝手にそう答えていた。意思とは無関係に、まるで傀儡のように。
匙を持つ手が、機械的に動く。
切り分けた肉を、また一口、口に運ぶ。
温かい。
美味しい。
大好きな、家族との食卓。
幸せなはずの、満ち足りた時間。
なのに。どうしてこんなにも、息苦しいのか。
深い海底に沈められ、肺が潰れていくような感覚。
(……何が、おかしいの。わたくしは、どうしてしまったの?)
考えようとすると、思考が白い霞に覆われる。
思い出そうとすると、見えない巨大な手に口を塞がれる。
まるで——「考えるな」と、闇そのものに押さえつけられているように。
「ジャミーラ」
母が、甘く、毒を含んだ蜜のように呼ぶ。
「笑ってちょうだい。わたくしたちの愛おしい娘」
その言葉に反応して、ジャミーラの頬の筋肉がわずかに動く。自分の意思とは関係なく、口元が引き上げられ、形だけの笑みを作る。
「そう、それでいいのよ」
母が満足そうに頷く。父も、兄も、弟も——同じように、寸分違わぬ表情で微笑んでいる。
完璧な、家族の光景。理想のひととき。
(……違う)
心の奥底、ほんの針の先ほどの領域で、かすかな声がする。
(これは、違う。こんなものは——)
けれどその抵抗は、吹き荒れる砂嵐の中の火火のように儚い。まとわりつく甘美な忘却の魔法に溶かされて、泡となって消えていく。
チリン、と。また、銀器の音が静かに響いた。穏やかで、幸福な時間。
——まるで、何も失っていないかのような。
——最初から、絶望など存在しなかったかのような、甘美な偽りの世界で。
「美味しいですわ、お母様」
ジャミーラはただ、空っぽの瞳で微笑みながら、永遠に終わらない食事を続けていた。




