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Jardin miniature 神々の箱庭で、少年少女は軌跡を紡ぐ  作者: kitty
第4章 学園の影で闇は嗤う
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闇に抱かれ ジャミーラ

チリン、と。繊細な銀の匙が、硬質な陶器に触れる涼やかな音がした。

細密な唐草模様が施された器に、銀の食器が当たるたび、その澄んだ響きが静寂を震わせる。

どこか懐かしく、そして魂を鎮めるようなその音に、ジャミーラは伏せていた長い睫毛を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。


視界に広がっていたのは、見慣れた、そして砂漠の彼方へと消え去ったはずの、豪奢な食卓だった。

磨き上げられた漆黒の黒檀のテーブル。その上には金糸で刺繍された極彩色のシルクが敷かれ、青銅の灯籠の中では、香油の炎がゆらゆらと踊っている。

並べられた器には、宝石のように輝くザクロの粒、湯気を立てるスパイスの効いた仔羊の煮込み。

壁を飾る細密画も、夜風に揺れる重厚な綴れ織りのカーテンも——すべてが、ジャミーラの記憶に刻まれた“あの日”のままだった。


(……ここは)


瞬きを繰り返す。

ここは——間違いなく、我が家だ。彼女が生まれ育った、侯爵家の屋敷。


「どうした、ジャミーラ。手が止まっているぞ」


低く、落ち着いた声が、食卓の向こうから届いた。

ハッとして顔を向けると、そこには父が座っていた。

格式高い長衣を纏い、家長としての威厳を漂わせながらも、家族に向ける眼差しには不器用な情愛を滲ませる人。眉間の深い皺も、わずかに白いものが混じった顎髭も、あの日と同じ年齢、同じ温かさで、そこに存在している。


「お前が好きな、仔羊の香草焼きだ。料理が冷める前に食べなさい」


「……お父様」


その隣で、母がふわりと微笑んだ。柔らかく、すべてを包み込むような陽だまりのような笑み。艶やかな漆黒の髪を揺らし、少しだけ首を傾げる癖まで、記憶から抜け出してきたように何も変わっていない。


「そうよ、ジャミーラ。料理長が腕を振るってくれたのだもの。今日はあなたの大好きな、蜜をたっぷりかけたバクラヴァもあるのよ」


「ほら、姉様、ぼーっとしてる。せっかくの肉が硬くなっちゃうよ」


からかうような、甲高い声。

視線を向けると、隣の席で弟がにやりと悪戯っぽく笑っていた。生意気で、けれど誰よりも甘えん坊だった弟。

向かいには兄がいて、騒がしい弟を軽く窘めながら、いつものように静かに、上品な所作で食事を続けている。


——四人とも、いる。

——欠けることなく、揃っている。


(……どうして?)


胸の奥の、ずっと深いところで、小さな何かが引っかかる。ささくれだったような、チクリとした痛み。けれど、それが何なのか、どうして自分がそんな痛みを感じているのか、うまく言葉にならない。思考が甘い香煙に巻かれたように、まとまらないのだ。


「……いえ」


ジャミーラは、ゆっくりと首を振った。


「少し、考え事をしていただけです。……いただきます」


自分の声は、ひどく自然で落ち着いていた。得体の知れない違和感を覚えているはずなのに、言葉は滑らかに唇からこぼれ落ちる。

震える手で匙を手に取り、切り分けた肉を口に運ぶ。

温かい。

溢れる肉汁、香草の爽やかな香り、舌の上でとろけるような味わい。すべてが現実のように確かだった。夢だとしたら、あまりにも生々しすぎる。


「最近、学園はどうだ。上手くやっているのか?」


父の何気ない問いに、ジャミーラはカチャリと手を止めた。


——学園。


(……そう。わたくしは、聖エリュシア学園にいる……はず)


侯爵家を離れ、寮で寝起きして、授業を受けて、聖騎士となるための厳しい訓練と任務に明け暮れて——


(なら、どうしてわたくしは今、ここにいるの?)


思い出そうとした瞬間、頭の奥にズキリと鈍い痛みが走った。鋭い針を突き立てられたような痛みに、思わず顔をしかめる。


「……っ」


「ジャミーラ? どうしたの?」


母の声が、すぐ近くで響く。心配そうに覗き込んでくるその瞳は、昔と変わらず深い愛情に満ちていた。


「顔色が悪いわ。どこか痛むの? それとも、学園で何か嫌なことでもあった?」


「いえ……大丈夫です。なんでもありません」


また、反射的に同じ言葉が出る。けれど今度は、その言葉が空ろな風の音のように響いた。


大丈夫なはずがない。

何かが、決定的に“おかしい”。

はっきりとした形はない。証拠もない。ただ、肌を刺すような本能的な警鐘が、確実に“ここは違う”と叫んでいる。


よく見れば、煌々と灯るはずの灯籠の光が、妙に白々しく無機質だ。窓の外の景色は、分厚いカーテンに遮られて一切見えない。

視線を上げる。

父がいる。母がいる。兄がいる。弟がいる。

全員、笑顔でこちらを見ている。


——揃っている。


(……違う)


胸の奥で、何かが強くざわめき始める。波がうねるように、不安が押し寄せてくる。


「……皆様は」


乾いた唇から、かすれた声が漏れる。


「どうして……ここに、いらっしゃるのですか?」


その問いを口にした瞬間、食卓の空気がわずかに揺らいだ。ピキリ、と。見えない硝子にひびが入ったような、奇妙な感覚。けれど、家族の誰も驚かない。不審な顔もしない。父はゆっくりと、音を立てずに銀器を置き、ジャミーラを真っ直ぐに見据えた。


「何を言っているんだ、ジャミーラ」


その声は、あまりにも落ち着き払っていた。感情の起伏が一切感じられない、凪いだ海のような声。


「ここは我が家だ。私たちがここにいるのは、当然のことだろう」


母も、先程と寸分違わぬ優しい微笑みを張り付けたまま続ける。


「そうよ。わたくし達家族でしょう? 家族が一緒に食事をするのは、当たり前のことじゃない」


家族。

その温かいはずの言葉が、なぜか鋭い氷の刃となって胸に深々と刺さる。


(家族……?)


違う。

違うはずだ。

わたくしの本当の家族は——


「……皆様は、あの日」


声が震える。事実を口にするのが、恐ろしい。


脳裏に閃くのは、視界を灼く黒い炎。

逃げ惑う人々の悲鳴と、崩れ落ちる屋敷。

自分を庇い、血に染まって倒れていく父と母、兄弟たちの背中——。


そうだ。大厄災の日、“家族”という世界は、自分の目の前で跡形もなく焼け落ちたのだ。

聖騎士に命を救い出されても、自分の魂はあの日からずっと、燃え盛る瓦礫の下に取り残されていたはずで。


(……でも、違う。わたくしは、もう)


絶望の底で蹲っていた自分を掬い上げたのは、ある神聖術師が捧げた温かな祈りの歌だった。

一人取り残された自分を不憫に思い、涙ながらに抱きしめてくれた新しい家族の不器用な優しさ。

二度と誰も失いたくないという誓いと、あの時自分を救ってくれた神聖術への憧れ。

その決意を胸に見上げた、聖エリュシア学園の高くそびえる門。


そして——


(……アルテリスさん)


ムスタファ。

ライル。

ルイーズ。

かけがえのない仲間に出会えた。


その瞬間、世界が軋んだ。

ぐにゃりと、空気がわずかに歪む。

ほんの一瞬、テーブルの上の料理が黒い泥のように見え、家族の輪郭が陽炎のようにぶれた。


「ジャミーラ」


父の声が、低く、重く響く。

それは威厳というより、絶対的な呪縛を帯びていた。


「余計なことを考えるな」


その言葉は、魂を凍りつかせる命令だった。

瞬間、ジャミーラの思考が白く塗り潰される。無理やり火を消されたランプのように、脳裏に浮かんでいた仲間たちの顔が、急速に光を失っていく。

母が、静かに微笑む。その瞳の奥には、虚無だけが宿っていた。


「そうよ、ジャミーラ。辛いことは全て忘れてしまいなさい。そうすれば、わたくし達はずっと一緒にいられるのだから」


兄も、弟も、何も言わない。ただ、同じように首を傾げ、同じ角度の微笑みを浮かべ、じっとジャミーラを見つめている。

逃げ場のない、四対の視線。それは蛇のように冷たく、彼女の理性を絡め取っていく。


(……ずっと、一緒にいられる?)


家族と再会できるなら、魂を悪魔に売っても構わないと泣き明かした夜があった。それほどまでに渇望した願い。けれど、胸の奥で、何かが強く、激しく拒絶している。“これは偽物だ”と。それでも——


「……はい」


口は、勝手にそう答えていた。意思とは無関係に、まるで傀儡のように。

匙を持つ手が、機械的に動く。

切り分けた肉を、また一口、口に運ぶ。

温かい。

美味しい。

大好きな、家族との食卓。

幸せなはずの、満ち足りた時間。

なのに。どうしてこんなにも、息苦しいのか。

深い海底に沈められ、肺が潰れていくような感覚。


(……何が、おかしいの。わたくしは、どうしてしまったの?)


考えようとすると、思考が白い霞に覆われる。

思い出そうとすると、見えない巨大な手に口を塞がれる。

まるで——「考えるな」と、闇そのものに押さえつけられているように。


「ジャミーラ」


母が、甘く、毒を含んだ蜜のように呼ぶ。


「笑ってちょうだい。わたくしたちの愛おしい娘」


その言葉に反応して、ジャミーラの頬の筋肉がわずかに動く。自分の意思とは関係なく、口元が引き上げられ、形だけの笑みを作る。


「そう、それでいいのよ」


母が満足そうに頷く。父も、兄も、弟も——同じように、寸分違わぬ表情で微笑んでいる。

完璧な、家族の光景。理想のひととき。


(……違う)


心の奥底、ほんの針の先ほどの領域で、かすかな声がする。


(これは、違う。こんなものは——)


けれどその抵抗は、吹き荒れる砂嵐の中の火火のように儚い。まとわりつく甘美な忘却の魔法に溶かされて、泡となって消えていく。

チリン、と。また、銀器の音が静かに響いた。穏やかで、幸福な時間。

——まるで、何も失っていないかのような。

——最初から、絶望など存在しなかったかのような、甘美な偽りの世界で。


「美味しいですわ、お母様」


ジャミーラはただ、空っぽの瞳で微笑みながら、永遠に終わらない食事を続けていた。


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