虚ろなる敵
かつては神聖な祈りが捧げられていたであろう広大な大聖堂は、今や濃密な死の香りと埃っぽさに沈んでいた。ステンドグラスから差し込む微かな月光が、冷たい石の床に歪な影を落としている。
その薄暗闇の中、ムスタファは静かに、ただ静かに目の前の敵を見据えていた。
焦燥はない。恐怖もない。嵐の中心にある凪いだ水面のように、彼の思考だけが極めて冷ややかに、かつ高速で頭の中を巡っている。
対峙する敵は、四体。
中央に立つのは、かつて人間であった男——ディーター・ボニファーツの皮を被った“悪魔”だ。その口元には、人間の筋肉の構造を無視したような、不自然で歪な笑みが張り付いている。
そしてその後ろには、床を這いずるような三つの暗い気配。明確な悪意と飢餓感を持ち、隙あらばムスタファたちの肉体を奪い取ろうと蠢く“影”たちだ。
ムスタファは警戒を解かぬまま、視線をわずかに横へ流した。
傍らでは、ライルが肩で荒い呼吸を繰り返している。だが、その瞳に宿る闘志は決して消えていない。彼の前に庇うように立つジャミーラもまた、息を整えながらも鋭い警戒を解いていない。
三対四。
純粋な数でも、そして底知れぬマナの圧という戦力面でも、こちらが完全に劣っている。
それどころか——
「攻撃が当たらない、か」
ムスタファの唇から、確認するような低い呟きが零れた。
先程の光景が脳裏をよぎる。ライルが渾身の力で放った風の刃は、間違いなくディーターの首筋を正確に捉えていたはずだった。軌道、速度、そして威力。どれをとっても致命傷を与えるに足る、完璧な一撃。
それでも——届かなかったのだ。
(どういう理屈だ)
回避されたわけではない。防がれたわけでもない。“刃が体を素通りした”のだ。まるで、水面に映る月を斬り裂いたかのように。
“当たっているのに、当たっていない”。
その致命的で不条理な違和感が、ムスタファの緻密な思考の網に引っかかる。
(強力な防御結界……いや、違う)
結界や障壁であれば、マナとマナが衝突して弾かれる感触や、干渉を無理やり遮断される硬い手応えが残るはずだ。だが、先ほどのライルの攻撃には何の反発もなかった。
——まるで、“最初からそこに存在していないもの”を斬ったような虚無感。
「虚像、か……」
その推論に至った瞬間。
——くつくつ、と。
喉の奥で転がすような笑い声が、大聖堂の空気を歪ませた。
「素晴らしい」
ディーターが、ゆっくりと芝居がかった手つきで拍手を打つ。乾いた音が、広大な石造りの壁にぶつかり、不気味な和音となって幾重にも反響した。
「流石はランデュートの王子殿下。これほどの絶望的な状況下にあっても、その思考の速さと冷静さは見事という他ありませんねぇ」
ディーターは心底楽しそうに、三日月のように目を細めて笑った。その顔は間違いなくディーターのものでありながら、内に潜む悪魔の狂気を隠しきれていなかった。
「悠長にしていると危ないですねぇ」
その時、足元に這う影たちが、苛立ちを孕んだようにざわざわと蠢き出した。じゅるり、と何かをすするような不快な音が響く。
「はいはい。分かっていますよ、急かさないでください」
ディーターは呆れたように肩をすくめ、自身の足元で蠢く“影”たちを見下ろした。
「真面目にやらないと——お前たちがこれほど切望している“肉体”が、手に入りませんからね」
そう言い捨てると、ディーターは再びムスタファたちへと視線を戻した。その瞳孔が、獲物を捉えるように縦に細く収縮する。
「では、小手調べはこれまで。二の手と参りましょうか」
その瞬間——空間を支配する空気が、決定的に変わった。
ぞわり、と。
ムスタファの背筋を、氷のような冷たい指が這い上がる感覚。
それは、死を予感する単なる“恐怖”などという生易しいものではない。もっとどろりとした粘り気のある、人間の精神の奥底へ、直接ぬめりと入り込んでくるような“決定的な異物”の気配だった。
先ほどまでとは比較にならない。大気そのものが意思を持って押し潰してくるような、静かで、深く、逃げ場のない圧倒的な重圧が、ムスタファたち三人の身体を完全に飲み込んだ。




