祝福
大聖堂を満たす静寂は、もはや神聖なものではなかった。
頭上の豪奢なステンドグラスから差し込む光は、夕暮れと呼ぶにはあまりに禍々しい。凝固した血のような暗赤色が、荘厳な石造りの空間をどす黒く塗り潰している。
目に見えない圧力が、重厚な石壁をひしひしと軋ませる。肺の奥まで侵食してくる淀んだ大気は、不快な湿り気を帯びて肌にねっとりと絡みついていた。
「紹介をしておきましょうか。私の仲間の悪魔たちです」
祭壇の中央で静かに微笑む女神像——その足元では、意志を持つ泥のように蠢く闇それがゆっくりと持ち上がる。
肉体を持たぬ“意志”だけの存在。
輪郭は曖昧でありながら、確かに“視える”——高位の悪魔。
三つの影は、まるで獲物を見定めるようにムスタファたちを見た。
「彼らはまだ“空”でしてね。器を欲しているのですよ」
「ふざけるな!」
ライルが一歩前に出る。
「《——風の精霊よ
我が意に応じ、敵を穿て!》」
ライルの詠唱が空気を裂いた。
放たれた風刃が一直線にディーターへと向かいその腕を両断した——はずだった。
「……なっ!?」
ライルが驚愕に目を見開く。
確かな手応えなどなかった。風刃はディーターの身体を幻影のようにすり抜け、後方の石壁を空しく穿つのみだった。
「無駄ですよ」
ディーターの穏やかな、だが底冷えのする声が響いた。
「あなた方が私に攻撃を当てることなど不可能です」
「なんだと!?」
ディーターは、妖艶な笑みを浮かべ、まるで祝祭の司祭のように両手を広げた。
「それでは、祝福を始めましょうか」
瞬間。
世界が、落ちた。
⚜️⚜️⚜️
(……あれ、俺は……何をしていたんだ?)
気づけば、ライルは見慣れた学園の回廊に立っていた。
高い窓から差し込む午後の光が、石床にやわらかな影を落としている。
行き交う生徒たちの足音。遠くの吹き抜けから聞こえる、他愛のない笑い声。
風に揺れる中庭の木々の葉擦れさえ、やけに鮮明に耳に届いた。
——あまりにも、いつも通りの光景だ。
(……さっきまで、俺は——)
何かが引っかかる。
大聖堂。血のような赤い光。息の詰まる空気。
確かにそこにいたはずなのに、その感覚だけが薄い霞の向こう側にあるように遠い。
代わりに、靴の裏から伝わる石床の硬さや、指先に触れた壁の冷たさが、こここそが現実なのだと強く訴えかけてくる。
一歩、足を踏み出す。
(……夢、じゃない)
そう思った瞬間——
(いや、本当に?)
かすかな違和感が、胸の奥で波打った。
音はある。人もいる。景色もある。
なのに——誰一人として、こちらを見ていない。
すれ違う生徒たちは、ライルの肩をかすめて歩いていくのに、避けるそぶりすらない。
まるで最初から“そこに存在しないもの”として扱われているかのようだ。
(……何だ、これ)
思わず足が止まる。
だがその違和感は、すぐに別の強い感情に塗り潰された。
視線の先。
いつも見慣れた背中が、そこにあった。
(……殿下)
ムスタファの姿。そして、その隣には——
(……アルテリス)
二人は並んで歩いている。
交わしている言葉までは聞こえない。だが、二人の間に流れる穏やかで揺るぎない空気だけは、痛いほど伝わってくる。
ほんの少しだけ、距離がある。
手を伸ばせば届くはずなのに、決して埋まることのない隔たり。
視界の中で、二人の肩がほんのわずかに近づく。
ほんの些細なこと。普段なら、気にも留めないはずの距離感。
それなのに、胸の奥が、ひり、と焼け焦げたように痛んだ。
(また、だ)
その感情は、自分でも驚くほど自然に湧き上がってきた。
(結局、殿下の隣に立つのは、あいつなんだ)
足が動かない。
いや、追いつく必要がないのだと、心のどこかで理解してしまっている。
(護衛として、俺も傍にいる。命を預けられている。それでも——)
視線が、自然と二人の背中に吸い寄せられる。
(“特別”なのは、あいつだ)
胸の奥深くに沈めて鍵をかけていたはずの感情が、黒い形を成していく。
それは、激しい苛立ちでも、熱い怒りでもない。
もっと静かで、冷たくて、どうしようもなく粘りつく劣等感。
(……いや。そんなことで、俺は——)
喉の奥で引っかかった言い訳は、最後まで形にならなかった。
(アルテリスは、いつも優秀で冷静だ。
判断が早くて、迷いがない。俺とは違う。
殿下だって、それを分かっている)
だから——隣に立つのは、当然だ。
すとん、と。
冷たい思考が、心の中に綺麗に収まった。
不気味なほどの納得感と共に、先ほどまでの違和感はもうほとんど消え失せている。
(じゃあ、俺は何だ)
答えは、すぐそこにあった。
(忠誠しか、ない)
その言葉が、重い石のように胸の奥底へ沈む。
(俺は本当に、必要なのか?)
視界の端で、ムスタファが何かを言い、アルテリスがわずかに頷く。
完璧に調和したそのやり取りが、ひどく遠い。
(ああ、そうか)
諦めが、全身を麻痺させていく。
(あそこに、俺の居場所は——ない)
その瞬間。
世界が、不自然なほど完全に静まり返った。
風の音が消える。生徒たちのざわめきが遠のく。
色のない虚無が迫り来る中——。
「——イルハン様!」
声が、聞こえた。
遠い。深い水底から水面を見上げているように、くぐもって聞こえる。
(……誰だ)
思考が鈍い。確かに、よく知っている声だったはずなのに。
(……気のせいか)
そう結論づけて目を閉じかけた瞬間、胸の奥に、わずかなざわめきが波打った。
——違う。
心のどこかで、必死に叫んでいる自分がいる。
(……違う、はずだ)
だが、その抵抗は長く続かない。
すぐに、目の前の圧倒的な光景が意識を塗り潰しにかかる。
ムスタファの背中。その隣に並ぶアルテリス。
二人の距離が、またほんのわずかに近づく。
(……ああ)
思考が、再び暗い水底へと沈んでいく。
(やっぱり、あれが正しいんだ——)
諦めに身を委ねかけた、その時。
「《女神アウロラ様——
どうか、我が願いをお聞き入れ、彼の者を縛る闇をお祓いください》」
どこからか、凛とした鈴の音のような詠唱が響いてきた。
冷たく凍てついていた世界に、一筋の温かな風が吹き抜ける。
「……っ、これは……」
どんよりとした灰色に染まっていた景色が、端からじわりと溶け始めた。
崩れゆく幻の隙間から溢れ出したのは、春の陽だまりのような、柔らかな黄金の光。
それは泥のように粘つく劣等感を優しく拭い去り、深く沈み込んでいたライルの心を、慈しむように包み込んでいく。
暗い水底から引き上げられるような、確かな浮遊感。
冷え切った指先に、誰かが灯した灯火のような温もりが伝わってくる。
(そうだ……ここは、違う……!)
その光は、迷うライルの手を優しく引き、確かな力で現実へと導いていく。
偽りの安寧を突き破り、黄金の輝きが視界を埋め尽くした。
「——イルハン様!!」
響き渡る声。
今度ははっきりと。鋭く、強く。魂を揺さぶるように。
(ここは、現実じゃない!)
胸の奥に、確かな熱が戻ってくる。
思い出した。血のような赤。淀んだ空気。戦うべき敵。
眩い光と共に、視界を覆っていた幻覚が弾け飛んだ。
⚜️⚜️⚜️
大聖堂。
ディーターが、初めて面白そうに目を細めていた。
「……なるほど」
底知れない赤い瞳が、ムスタファとジャミーラを真っ直ぐに捉える。
「おふたりは、精神干渉に対する耐性がずいぶんと高いようですね」
「ジャミーラ、ライルを頼む」
「はい」
ディーターの言葉を無視し、ムスタファは短く指示を出した。
ジャミーラは深く頷き、石の床に膝をつき荒い息を吐くライルへと歩み寄る。
「イルハン様、大丈夫ですか」
「……シャマル、様……?」
焦点の合わない目を瞬き、ライルは掠れた声を絞り出した。
「良かった。気づかれましたのね」
ジャミーラが安堵の息をつく。
ライルは、ハッとして周囲を見渡した。禍々しい赤い光、蠢く闇、そして——前を見据える主の背中。
「……殿下……俺は……」
「後だ」
ムスタファは振り返ることもなく、ただ前だけを見据えたまま短く言い放つ。
「今は、立て」
ライルは強く歯を食いしばり、頷いた。
「……はい」
ふらつきながらも、立ち上がる。
ジャミーラは、わずかに息を整えながらも、その様子を確認して一歩下がった。
(……間に合って、よかった……)
小さく、そう零す。
だが——
「素晴らしい」
乾いた拍手が、静寂に響いた。
ディーターだった。
「実に見事です。あの状態から引き戻すとは」
その声音には、心からの称賛が混じっている。
だが、その目は——まるで玩具を眺める子供のように、楽しげに細められていた。
「諦めず足掻く……実に人間らしい」
口元が、ゆっくりと歪む。
「やはり、選んだ甲斐がありましたね」
その言葉に、空気がわずかに冷える。
ムスタファは一歩前に出た。
「……随分と余裕だな」
低く問う。
だがディーターは、肩をすくめるだけだった。
「ええ。今のはほんの遊びです。むしろこれからが本番ですよ」
視線が、三人を順に舐める。
床を這う影が、再び巨大なうねりとなって牙を剥き始める。
——本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。




