還らぬ者
聖エリュシア学園外縁部。
かつては神聖な静寂に守られていたその場所は、今や崩壊の余韻に支配されていた。
結界の内側——本来ならあらゆる外敵を拒絶するはずの絶対の壁は、今や輝きを失い、死にゆく生物の瞬きのように力なく明滅している。砕かれた結界石の破片が空間を不規則に歪ませ、夜の景色に幾度もひび割れを走らせていた。
「……こちら、第七区画。状況を報告する」
聖騎士団の伝声術式から漏れる声は、押し殺したように低い。
湿り気を帯びた夜気の中、先遣隊の聖騎士たちは剣を構えていたが、その切っ先は自覚のない微かな震えを刻んでいた。
「瘴気反応、微弱。数値上は——」
報告の言葉が、喉の奥で凍りつく。
歪んだ空間を縫うように差し込んだ月光が、一人の影を鮮烈に浮かび上がらせた。
「人影を確認。対象は……単独。本校の生徒です」
そこにいたのは、白と黒を基調とした見慣れた制服を纏う少年だった。
地獄のような戦場と化した学園内にあって、彼の身なりには汚れ一つなく、歩調も、吐き出す呼気も、驚くほどに穏やかだ。
あまりにも、普通。
あまりにも、自然。
だからこそ、その場違いな“日常”の気配は、何よりもおぞましい異物として騎士たちの肌を粟立たせた。
「……瘴気が濃すぎる。あの状態で平然としているとは、まさか——」
誰かが乾いた喉を鳴らす。
形は間違いなく人間だ。だが、その輪郭の内側に渦巻く“なにか”は、もはや人類が定義できる範疇を越えていた。
聖騎士たちが、じりりと剣を構え直す。
「待て、下手に刺激するな! 神聖術師を前へ!」
背後から悲鳴に近い怒号が飛ぶ。
「止まれ!」
意を決した一人の聖騎士が、石畳を蹴って前に出た。
「学園は現在、非常事態につき全域を封鎖中だ。これ以上の移動は許可できない。……そこを動くな!」
鋭い制止の声。
少年は、そこでようやく足を止めた。
機械的なぎこちなさは微塵もない。流れるような、あまりに優雅な動作で、彼はゆっくりと振り返った。
「……ああ。もう、ここに用はありませんから。気になさらないでください」
応える声は、夜風のように涼やかだった。
慈愛に満ち、理性的で、親しみやすい声音。
そこには追及を恐れる怯えも、行く手を阻まれたことへの憤りもない。
——だからこそ、誰も踏み込めなかった。
目の前の存在が、生徒としての自我を保っているのか、完全に滅ぼすべき異形と化してしまったのか。その境界線が、月夜に溶けて曖昧に滲んでいた。
少年が再び、一歩を踏み出す。
結界の境界線に差しかかろうとした時、別の聖騎士がたまらず声を荒らげた。
「待てと言っている! その状態で外へ出すわけにはいかないんだ!」
「状態?」
生徒は、小鳥のように小さく首を傾げた。
月光を吸い込んで白く輝く肌を晒し、困った子供を見るような慈悲深い笑みを浮かべる。
「……大丈夫ですよ。ほら、ちゃんと“僕”でしょう?」
少年の微笑みは、ひどく澄み切っていた。
だが、その足元から滲み出したどす黒い影が、物理的な重圧となって周囲の地面を沈み込ませていく。聖騎士たちがその圧倒的な異様さに息を呑んだ、その時だった。
「……じょ、浄化を、試みます……っ!」
後方から駆けつけた神聖術師が、震える指を組み、祈りを紡ぎ始める。
だが。
「やめておいた方がいいですよ」
遮るように、少年はやんわりと告げた。
突き放すような冷たさではない。無知な赤子を諭すような、残酷なまでの優しさがそこにはあった。
「もう、その術が必要な段階は……過ぎてしまいましたから」
「……なんだと」
聖騎士は剣の柄を握り直し、射抜くような視線を向ける。
少年は、ほんの一瞬だけ、高く昇った月を見上げた。
「迎えが、来ているんです」
その言葉が落ちた直後。
世界の果てから、何かが“応える”気配がした。
ぞくり、と、空間そのものが鳥肌を立てるような、おぞましい振動。
「な、何だ……この圧力は……空間が、軋んでいるのか!?」
「外部反応あり! 瘴気濃度、急上昇!」
「君は……どこへ行くつもりだ!」
叫ぶような問いかけに、少年は少しだけ考える素振りを見せた。
まるで、昨日の放課後の予定を思い出すかのように。
「……“向こう”です」
曖昧な、しかし拒絶しようのない響き。
その瞬間、結界の歪みが限界を迎え、巨大な心臓のように脈打った。
「——空間反応! 転移術式だ、構えろ!」
神聖術師たちが一斉に法陣を展開し、聖騎士たちが迎撃の陣を組む。
しかし、少年は外へ踏み出しはしない。ただそこに立っているだけで、世界の方が彼を迎え入れようと変質を始めていた。
空間が音もなく捲れ上がる。
結界の歪みが点から円へと広がり、夜の闇よりも深い“虚無”が口を開けた。
「逃がすな! 突撃!」
「風の精霊よ! ……くそ、間に合わない!」
聖騎士が必死に手を伸ばす。
だが、その指先が彼に触れるより早く、少年の身体は光と影の濁流に溶け込んでいった。
学園という枠組みに属したまま、彼の存在する空間だけが、見えない刃で世界から抉り取られていく。
消える直前、彼はふと、思い出したようにこちらを振り返った。
「……先生たちに、よろしく」
それが、この場に残された最後の言葉だった。
直後、弾けるような音と共に空間が閉じる。
激しい余波に煽られた聖騎士たちが顔を上げると、そこには一筋の煙すら残っていなかった。
「……消失、確認」
誰かの呟きが、虚しく響く。
剣を抜いたまま、術を構えたまま、誰もが身動きひとつ取れなかった。
「……追跡不可能。痕跡が……完全に消失している」
重い沈黙が、戦場の喧騒よりも深くその場を支配した。
「行かせてしまった……」
人の姿のままだったから、斬れなかった。
その一瞬の躊躇が、取り返しのつかない事態を招いた。
一人の聖騎士が拳を握りしめ、地面を叩く。
結界の残滓が、夜風に揺られて淡く光り、やがて跡形もなく消えていく。
「……報告を上げろ」
隊長格の聖騎士が、絞り出すような声で命じた。
「完全憑依体と見られる生徒一名。第七区画にて転移消失」
一拍。その声は、確しようもなく震えていた。
「——今後、同様の事例が、我々の理解を及ばぬ形で発生する可能性がある。……全隊、死力を尽くして警戒せよ」
夜が、さらに深く沈んでいく。
学園の中では、まだ懸命に戦い、命を救う者たちがいる。
だが同時に。
もう二度とこの場所へは戻らない存在が、人知れず生まれていた。




