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Jardin miniature 神々の箱庭で、少年少女は軌跡を紡ぐ  作者: kitty
第4章 学園の影で闇は嗤う
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還らぬ者

聖エリュシア学園外縁部。

かつては神聖な静寂に守られていたその場所は、今や崩壊の余韻に支配されていた。


結界の内側——本来ならあらゆる外敵を拒絶するはずの絶対の壁は、今や輝きを失い、死にゆく生物の瞬きのように力なく明滅している。砕かれた結界石の破片が空間を不規則に歪ませ、夜の景色に幾度もひび割れを走らせていた。


「……こちら、第七区画。状況を報告する」


聖騎士団の伝声術式から漏れる声は、押し殺したように低い。

湿り気を帯びた夜気の中、先遣隊の聖騎士たちは剣を構えていたが、その切っ先は自覚のない微かな震えを刻んでいた。


「瘴気反応、微弱。数値上は——」


報告の言葉が、喉の奥で凍りつく。

歪んだ空間を縫うように差し込んだ月光が、一人の影を鮮烈に浮かび上がらせた。


「人影を確認。対象は……単独。本校の生徒です」


そこにいたのは、白と黒を基調とした見慣れた制服を纏う少年だった。

地獄のような戦場と化した学園内にあって、彼の身なりには汚れ一つなく、歩調も、吐き出す呼気も、驚くほどに穏やかだ。

あまりにも、普通。

あまりにも、自然。

だからこそ、その場違いな“日常”の気配は、何よりもおぞましい異物として騎士たちの肌を粟立たせた。


「……瘴気が濃すぎる。あの状態で平然としているとは、まさか——」


誰かが乾いた喉を鳴らす。

形は間違いなく人間だ。だが、その輪郭の内側に渦巻く“なにか”は、もはや人類が定義できる範疇を越えていた。


聖騎士たちが、じりりと剣を構え直す。


「待て、下手に刺激するな! 神聖術師を前へ!」


背後から悲鳴に近い怒号が飛ぶ。


「止まれ!」


意を決した一人の聖騎士が、石畳を蹴って前に出た。


「学園は現在、非常事態につき全域を封鎖中だ。これ以上の移動は許可できない。……そこを動くな!」


鋭い制止の声。

少年は、そこでようやく足を止めた。

機械的なぎこちなさは微塵もない。流れるような、あまりに優雅な動作で、彼はゆっくりと振り返った。


「……ああ。もう、ここに用はありませんから。気になさらないでください」


応える声は、夜風のように涼やかだった。

慈愛に満ち、理性的で、親しみやすい声音。

そこには追及を恐れる怯えも、行く手を阻まれたことへの憤りもない。


——だからこそ、誰も踏み込めなかった。

目の前の存在が、生徒としての自我を保っているのか、完全に滅ぼすべき異形と化してしまったのか。その境界線が、月夜に溶けて曖昧に滲んでいた。


少年が再び、一歩を踏み出す。

結界の境界線に差しかかろうとした時、別の聖騎士がたまらず声を荒らげた。


「待てと言っている! その状態で外へ出すわけにはいかないんだ!」


「状態?」


生徒は、小鳥のように小さく首を傾げた。

月光を吸い込んで白く輝く肌を晒し、困った子供を見るような慈悲深い笑みを浮かべる。


「……大丈夫ですよ。ほら、ちゃんと“僕”でしょう?」


少年の微笑みは、ひどく澄み切っていた。

だが、その足元から滲み出したどす黒い影が、物理的な重圧となって周囲の地面を沈み込ませていく。聖騎士たちがその圧倒的な異様さに息を呑んだ、その時だった。


「……じょ、浄化を、試みます……っ!」


後方から駆けつけた神聖術師が、震える指を組み、祈りを紡ぎ始める。


だが。


「やめておいた方がいいですよ」


遮るように、少年はやんわりと告げた。

突き放すような冷たさではない。無知な赤子を諭すような、残酷なまでの優しさがそこにはあった。


「もう、その術が必要な段階は……過ぎてしまいましたから」


「……なんだと」


聖騎士は剣の柄を握り直し、射抜くような視線を向ける。

少年は、ほんの一瞬だけ、高く昇った月を見上げた。


「迎えが、来ているんです」


その言葉が落ちた直後。

世界の果てから、何かが“応える”気配がした。

ぞくり、と、空間そのものが鳥肌を立てるような、おぞましい振動。


「な、何だ……この圧力は……空間が、軋んでいるのか!?」


「外部反応あり! 瘴気濃度、急上昇!」


「君は……どこへ行くつもりだ!」


叫ぶような問いかけに、少年は少しだけ考える素振りを見せた。

まるで、昨日の放課後の予定を思い出すかのように。


「……“向こう”です」


曖昧な、しかし拒絶しようのない響き。

その瞬間、結界の歪みが限界を迎え、巨大な心臓のように脈打った。


「——空間反応! 転移術式だ、構えろ!」


神聖術師たちが一斉に法陣を展開し、聖騎士たちが迎撃の陣を組む。

しかし、少年は外へ踏み出しはしない。ただそこに立っているだけで、世界の方が彼を迎え入れようと変質を始めていた。

空間が音もなく捲れ上がる。

結界の歪みが点から円へと広がり、夜の闇よりも深い“虚無”が口を開けた。


「逃がすな! 突撃!」


「風の精霊よ! ……くそ、間に合わない!」


聖騎士が必死に手を伸ばす。

だが、その指先が彼に触れるより早く、少年の身体は光と影の濁流に溶け込んでいった。

学園という枠組みに属したまま、彼の存在する空間だけが、見えない刃で世界から抉り取られていく。

消える直前、彼はふと、思い出したようにこちらを振り返った。


「……先生たちに、よろしく」


それが、この場に残された最後の言葉だった。

直後、弾けるような音と共に空間が閉じる。

激しい余波に煽られた聖騎士たちが顔を上げると、そこには一筋の煙すら残っていなかった。


「……消失、確認」


誰かの呟きが、虚しく響く。

剣を抜いたまま、術を構えたまま、誰もが身動きひとつ取れなかった。


「……追跡不可能。痕跡が……完全に消失している」


重い沈黙が、戦場の喧騒よりも深くその場を支配した。


「行かせてしまった……」


人の姿のままだったから、斬れなかった。

その一瞬の躊躇が、取り返しのつかない事態を招いた。

一人の聖騎士が拳を握りしめ、地面を叩く。

結界の残滓が、夜風に揺られて淡く光り、やがて跡形もなく消えていく。


「……報告を上げろ」


隊長格の聖騎士が、絞り出すような声で命じた。


「完全憑依体と見られる生徒一名。第七区画にて転移消失」


一拍。その声は、確しようもなく震えていた。


「——今後、同様の事例が、我々の理解を及ばぬ形で発生する可能性がある。……全隊、死力を尽くして警戒せよ」


夜が、さらに深く沈んでいく。

学園の中では、まだ懸命に戦い、命を救う者たちがいる。

だが同時に。

もう二度とこの場所へは戻らない存在が、人知れず生まれていた。

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