借り
足音は、ひとつではなかった。
重く、速く、そして無数に。石床を打つ不規則な振動が、逃げ場のない回廊の壁に反響し、波となって押し寄せる。
「……五体。前後を挟まれたな」
ハムザが低く、吐き捨てるように呟いた。その声に焦りはないが、剣を握る拳には血管が浮き出ている。その強すぎる力が、事態の切迫を雄弁に物語っていた。
「前は俺が抑える。後ろは任せた」
「承知いたしました」
短く応じた直後、最初の一体が闇から躍り出た。
ハムザが剣の腹でその巨体を横なぎに打ち払い、強引に姿勢を崩させる。
そのわずかな隙に、アルテリスの姿が霞んだ。
吸い込まれるような滑らかな足運び。無駄のない軌道で放たれた手刀が、敵の首筋を的確に捉える。骨が鳴る音すらさせず、影は糸が切れたように床へ沈んだ。
二人の連携は、形を成していた。
だが、迫りくる敵の物量がそれを上回る。一体を沈めても、その後ろから次の一体が同胞を躊躇なく踏み越えてくる。
アルテリスの呼吸が徐々に熱を帯び、肩がわずかに上下した。
その時、背後と正面、同時に殺気が膨れ上がる。
距離。踏み込みの角度。攻撃の軌道——脳内で行われた瞬時の演算。
(……両方は、避けきれない)
前を躱せば、背後から心臓を貫かれる。背後を捌けば、正面から迫る変形した爪が喉元を裂く。
一拍にも満たない思考の中で、アルテリスは再び封印を解く検討をしたが、即座に棄却した。今ここで力を使えば、目的を果たす前に自分が尽きる。
(急所さえ外せば、戦闘は継続できる)
それは目的の達成を最優先とした、冷徹な損得勘定だった。
アルテリスは正面の連撃を最小限の動きで避けるべく、わずかに体を捻った。背後に迫る衝撃を、あえて“受ける”覚悟で。
だが次の瞬間、衝撃は走ったが、来るはずの痛みが届かなかった。
代わりに、生温かい飛沫がアルテリスの頬を濡らす。
鼻を突く、濃密で、鉄の混じった匂い。
「……ッ」
振り向いた先にいたのは、ハムザだった。
本来、アルテリスの背に突き刺さるはずだった爪撃を、彼は自らの肉体で遮っていた。腹部を深く抉られ、傷口からは黒ずんだ瘴気が毒々しく溢れ出している。
思考が止まる。
冷徹なはずの計算式が、その一瞬、激しく乱れた。
(……何故)
理解が追いつかない。自分は受けると決めていた。最小の被害で済むよう、計算していたはずだ。
それなのに、何故この男は、わざわざその計算を壊してまで、自分の前に踏み込んできたのか。
「……言わんこっちゃないな」
ハムザが膝をつき、石床に赤黒い水溜りを作る。それでも彼は、自嘲気味な笑みを浮かべてみせた。
「足元をすくわれるぞって……言っただろ」
その声には、自分の言葉が残酷な形で証明されたことへの、奇妙な安堵すら滲んでいた。
「……何故、かばわれたのですか」
アルテリスは、本気でわからなかった。
自分は元より、誰かのために切り捨てられる側の人間だ。まして相手は、自分の出自を理由に何度も噛みついてきた男。助ける理由も、助けられる資格も、どこにも見当たらなかった。
「さあな」
ハムザは口端から鮮血を零しながら、荒い息を吐く。
「気に入らねぇ相手なのに……身体が勝手に動いちまった」
闇の奥から、新たな影がにじみ出す。ハムザは震える手で剣を握り直し、それを杖代わりにして無理やり立ち上がった。
「行けよ。……大事なご主人様が、待ってるんだろ」
傷は、深い。このままでは助からない。
神聖術を使えば、あるいは——
(でも、それは……)
「急所だ。……長くは持たねぇ。だがな、最後っ屁の足止めくらいはしてやる」
アルテリスの喉の奥が、熱く詰まった。
出血量。呼吸の浅さ。残された敵の数。
救えるかもしれない命を見捨てて、前へ進む。その選択の重みが、これまでにないほど冷たく、彼の理性を蝕んでいく。
だが、ここで立ち止まれば、殿下も、そしてこの男が命を賭して守った自分も、すべてが無に帰す。
「……申し訳ございません」
アルテリスは深く、深く頭を下げた。
それは感情の吐露などではない。“あなたの命よりも優先すべきものがある”という非情な選択への、彼なりの誠実な謝罪だった。
背を向ける。
一歩。足が泥に浸かっているかのように重い。
二歩。決して振り返らない。振り返れば、理性ではなく感情が自分を連れ戻してしまうから。
遠ざかる背を見つめながら、ハムザは小さく、満足げに独りごちた。
「……これで、あの時の借りは……返したぞ」
背後で響く、剣鳴と肉を打つ音。
アルテリスは、ただ前だけを見て駆け続けた。
頬にこびりついたハムザの血の熱さだけが、いつまでも消えずに彼を急き立てていた。




