その足を止めるもの
肺に空気を送り込むたび、冷たい水底へ沈んでいくような錯覚に陥る。
胸の奥までじわじわと冷気が侵食し、鼓動は重く、鈍い鐘の音のように響く。
(瘴気が、あまりに濃い)
石造りの廊下は、もはや陽光を拒絶していた。窓から差し込むはずの光はどろりと灰色に濁り、世界から色彩と温度を奪い去っている。壁の燭台は、風もないのに狂ったように身をよじり、床に青白い影を長く伸ばしていた。
アルテリスは足を止めず、意識の針を極限まで研ぎ澄ます。
(……殿下は、まだ近い)
繋がりは、まだ絶たれていない。
異空間の歪みに阻まれながらも、マナの残響が細い糸のように繋がっている。
今にも千切れそうなそれを、指先で必死に手繰り寄せるような感覚。
(……大聖堂方向ですね)
急がなければ。胸を締め付ける焦燥を理性で抑え込んだ——その瞬間だった。
前方の曲がり角から、獣のごとき速度で“何か”が飛び出してきた。
「……っ!」
反射的に身を沈める。
頭上を裂いた腕が、背後の石壁を轟音とともに抉った。
視界の端に映ったのは、悪魔化した生徒の姿。
制服は裂け、露出した肌は黒ずみ爛れている。焦点の定まらない瞳が不気味に揺れていた。だが。
(侵食は、まだ浅い!)
完全には墜ちていない。
ならば、殺さずに止める術はある。
アルテリスは即座に踏み込んだ。
振り下ろされた腕を最小限の動きで受け流し、懐へ。
体勢が崩れた一瞬を逃さず、鋭い手刀を頸部へ叩き込む。
生徒の身体が力なく揺らぎ、そのまま床へ崩れ落ちた。
だが、安堵する暇などない。
廊下の奥、闇の向こうからずるりと何かを引きずる音が響いた。
一体、二体——さらに、その後ろにも。
濁った瞳が、一斉にアルテリスを捉える。
低い唸り声。
瘴気を孕んだ殺気が廊下を満たし、次の瞬間、群れが一斉に駆け出した。
アルテリスは床を蹴った。
先頭の個体に飛び込み、足払いで体勢を崩す。横合いから迫る腕を肘で逸らし、振り向きざまに鳩尾へ一撃を叩き込む。
一人が沈む。
だが、息を整える間もなく、背後から別の個体が牙を剥いた。
終わりの見えない波に、じわじわと体力が削られていく。
倒しても、倒しても、数が減らない。
床を滑る制服の裾。壁に残る生々しい打撃痕。荒い呼気が廊下に反響する。
ここはもう学び舎ではない。学園全体が、巨大な術式の檻に変貌していた。
(リフルマの封印を解けば……)
一掃は可能だ。だが、それはあまりに代償の大きい最終手段。
殿下のもとへ辿り着く前に力尽きる未来だけは、絶対に選べない。
アルテリスは目の前の“元・生徒”へ肉薄した。
足払い、肘打ち、手刀。
一人を無力化する。だが、その背後から獣のような咆哮を上げ、別の個体が鋭い爪を振り下ろした。
「……っ」
回避の隙を突いた、逃げ場のない死角からの強襲。
アルテリスは迷わず床を強く蹴り、重力を嘲笑うかのように身体を宙へと投げ出した。
灰色の空気の中で、金色の髪が鮮やかに舞う。
しなやかに背を反らせ、後方へ一回転。襲いかかる腕のわずか上を、流れるような宙返りで飛び越えた。
着地と同時に、慣性を利用して鋭く踏み込む。
空振りして前のめりになった個体の背後へ、滑り込むように回り込んだ。
無防備なうなじを見据え、吸い込まれるような精度で手刀を叩き込む。
個体は声もなく、糸が切れた人形のように沈んだ。
一呼吸置く間もなく、再び別の気配が膨れ上がる。
もう一体。さらに一体。包囲網が、着実に狭まっていく。
(これ以上は、見捨てるしか……)
見捨てれば、道は開ける。
しかし、それは最も冷徹な選択。
中途半端な正義感が、判断を鈍らせる。
決断を迫られ、奥歯を噛み締めたその時だった。
「ずいぶん回りくどい真似をしているな」
低い声が響いた。
直後、横合いから放たれた苛烈な一撃が、迫っていた個体を豪快に吹き飛ばす。
「相変わらずお人好しなやつだ。
そんなことをしていると、足元をすくわれるぞ」
聞き覚えのある声音。
以前のような露骨な嘲りはない。ただ冷徹に、事実だけを告げる響き。
アルテリスは、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、かつて最も衝突した相手——ハムザ・ハウゼンだった。




