選別の責を負う者
聖エリュシア学園。
かつて“学び舎”と呼ばれたその場所は、いまや異形の揺り籠へと成り果てていた。
夜の闇に飲み込まれる直前の空は、禍々しい赤紫色に染まっている。重苦しい雲の隙間から漏れ出す光は、夕焼けというにはあまりに濁り、立ち上る瘴気と混ざり合ってどろりと大地に滴り落ちていた。
鐘楼が投げかける歪な影。
学園を覆う結界の、剥がれ落ちた残滓。
大気に混じるのは、肺の奥にまとわりつくような甘く濁った死の気配。
「瘴気確認!急げ!」
「教育棟三階、反応あり!生存者を探せ!」
「生徒が倒れています!意識混濁!」
折り重なる悲鳴と怒号。刻一刻と塗り替えられる凄惨。
その阿鼻叫喚の中を、白黒の装束を纏った聖騎士たちが駆ける。その掌に宿る金色の光だけが、この地獄における唯一の導標だった。
神聖術による制圧と保護——それが、聖騎士団に課せられた至上命題。
だが、“救えるか否か”の残酷な境界線は、現場の判断という名の天秤に委ねられていた。
⚜️⚜️⚜️
「落ち着いて。もう大丈夫ですよ」
ジゼル・オリヴィエの声は、努めて凪いでいた。だが、その喉元には隠しきれない焦燥が、熱い塊となってせり上がっている。
目の前には、膝を抱えて震える一人の生徒。瞳からは焦点が失われ、喉からは喘ぐような浅い呼吸が漏れていた。
「……いや……聞こえるの……頭の中で……誰かが……」
「聞かなくていい。今は、わたくしの声だけを信じなさい」
ジゼルはゆっくりと膝をつき、生徒の視線に合わせて腰を落とす。
「《闇に濡れし 迷ひ子よ
その魂 闇のものにあらず
光は そなたを抱き
ここへ 帰らせん》」
澄んだ旋律が廊下に響く。指先に灯るのは、夜明けの陽光を思わせる柔らかな光。
まずは浄化。それが聖騎士団の鉄則であり、彼女の矜持だ。どれほど異変が進んでいようと、“試さずに切り捨てる”ことなど、女神の御名において許されない。
金色の光が、生徒の身体を優しく包み込む。
直後、生徒の背が弓なりに跳ね、激しい痙攣が走った。
「……っ!」
傍らに控える聖騎士たちが、剣の柄に手をかける。
だが、その緊張を解いたのは、生徒の瞳に戻った確かな知性の光だった。
「……あ、れ……? わたくし、何を……」
「……よかった。もう大丈夫ですよ」
ジゼルは、肺に溜まっていた重い息を深く吐き出した。ほんの一瞬だけ、鋼のように張っていた肩の力が抜ける。
「こちら、浄化成功! 生徒二名、意識回復。後送します!」
報告が、即座に飛ぶ。
「担架を!安全区域へ急げ!」
——救えた。まだ、間に合う命がある。
だが、その安堵を打ち砕くように、切迫した声が廊下に響いた。
「……オリヴィエ隊長!」
駆け寄ってきた聖騎士の表情は、蒼白だった。
「四階で……浄化に、まったく反応しない生徒がいます」
「案内してください」
彼女は即答し、迷いのない足取りで歩き出す。
「浄化を最優先。それでもなお、拒絶反応が止まらなければ——躊躇わず報告しなさい」
一瞬だけ言葉が詰まる。喉の奥が焼けるように熱い。
「……最後の下命は、わたくしが下します」
翻るマントの背中に、迷いを見せる隙はなかった。
これは時間との戦いだ。そして同時に、命を選別するという地獄のような儀式でもあった。
⚜️⚜️⚜️
「……う、あ……あ、ぁ……」
廊下の隅、濃密な影の中から“それ”は這い出てきた。
腕は逆方向にねじ曲がり、皮膚は内側から沸き立つ瘴気に焼かれ、黒く爛れている。骨格そのものが、もはやヒトの構造を維持できていない。
「……やだ……いたい……たすけて……おねがい……」
漏れ出る声だけが、未だ幼さの残る少年のものだった。
「《闇に濡れし 迷ひ子よ
その魂 闇のものにあらず——」
ジゼルの旋律が、静寂を切り裂く。
放たれた神聖術の光が触れた、その瞬間。
「ぎ、ああああああああっ!!」
鼓膜を突き破るような絶叫。生徒の身体が、獣のような動きで床をのたうち回る。関節があり得ない方向に軋み、肉の裂ける嫌な音が響いた。
(……っ、耐えて……! 光を拒まないで!)
ジゼルは切に願いながら、血を吐くような思いで旋律を紡ぎ続ける。
だが。
『……は、はは……あはははは!』
声色が変わった。
泣き声と嘲笑が混ざり合い、人の喉では出し得ない不協和音と化す。
生徒の影がどろりと膨れ上がり、背後から巨大な異形の輪郭となって立ち上がった。
『遅いんだよ』
濁りきった、底冷えのする嘲笑。
『せっかく極上の肉体を手に入れたんだ。邪魔、すんなよな!』
(……負けてはいけません! 今ならまだ、抗える!)
ジゼルは必死に光を注ぎ込み、闇を押し返そうとする。
一瞬、生徒の指先が、救いを求めるように空を掻いた。
だが、その指先すらも浄化の光に焦がされ、炭化していく。
『き、さま……よくも——!!』
咆哮とともに、爆発的な瘴気が噴き上がった。
黒い奔流が、ジゼルへ牙を剥く。
「《女神アウロラよ。
光の理をここに敷き、
迷いを招くものを、遠ざけたまえ》」
「ジゼル隊長、危険です! お下がりください!」
聖騎士たちがジゼルの前に割り込み、盾を掲げる。
直後、黒い瘴気と金色の障壁が衝突し、凄まじい衝撃波が廊下を駆け抜けた。
バリバリと空気が爆ぜるような音が響き、神聖術の結界が激しく火花を散らす。
悪魔化した生徒の腕が、どす黒い爪となって障壁を叩きつけた。キィィンと金属が擦れ合うような不快な音が響き、結界の表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「……っ」
結界を維持する騎士の腕が、その重圧に悲鳴を上げる。
「ジゼル隊長……! もう、この者は……!」
部下の悲痛な叫びに、ジゼルは掌に残った温かな光を見つめた。
それはもう、彼を癒やすための光ではない。彼を焼く刃でしかない。
「……仕方ありません」
ジゼルの声が、微かに震えた。
それは、救済を諦めた者の敗北宣言ではなく、せめて尊厳を守ろうとする者の祈りに似ていた。
「せめて……これ以上、苦しませないで」
その言葉を合図に、聖騎士たちの剣から純白の閃光が放たれた。
光の刃が生徒の身体を貫く。
悲鳴とも、断末魔ともつかぬ音が一度だけ響き、背後の影が霧散していく。
肉体はもはや形を保てず、砂のように崩れ落ちた。
「……くそっ……」
誰かの悔しげな呟きが、冷たい廊下に虚しく響く。
聖騎士たちは、誰も顔を上げることができなかった。
最後に残ったのは、守れなかった命が放っていた、ひりつくような熱線の名残だけだった。




