揺らぐ聖域
聖騎士団支部。
日が完全に沈み切る前から、支部内は戦場さながらの怒号と焦燥に支配されていた。
「結界感応波、再低下! 学園周辺の瘴気濃度、規定値を突破。危険域に到達しました!」
「悪魔反応、複数——いえ、増え続けています!」
「各拠点の結界石、残存反応消失……完全に沈黙しました!」
次々と叩きつけられる悲鳴のような報告に、指揮室の空気は限界まで張り詰めていく。
白い石造りの壁に投影された縮図は、侵食を示す赤色に塗り潰されていた。
「……間違いないな」
支部長が、押し殺した声で断じた。
「結界石は、完全に破壊された」
重苦しい沈黙の帳がおりる。
それは、誰もが“最悪”の到来を確信した瞬間だった。
「侵入した魔族の数は?」
「把握しきれていません。ですが——」
報告役の聖騎士が、苦渋に顔を歪める。
「学園内部で、異常な速度の“悪魔化反応”が多発しています」
「……早すぎる」
支部長が苦々しく毒突いた、その時。
「失礼いたします!」
指揮室の扉が、勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、肩で息をするルイーズ・ベルタンと、険しい表情のジャン・アダンだった。
「ベルタン嬢、アダン卿! 無事だったか」
「支部長、緊急報告です!」
ルイーズが、一歩前に踏み出す。
「結界の崩壊と同時に、学園内へ悪魔が流入。現在、複数の生徒に悪魔化の兆候を確認しています」
支部長の眉間の皺が、さらに深く刻まれる。
「それだけではありません」
ジャンが、重く言葉を継いだ。
「ムスタファ・ランデュエル殿下、ジャミーラ・シャマル様、ライル・イルハン様の三名が……突如として、その場から消失しました」
「消失だと?」
「詠唱も、転移陣の残滓もありませんでした。ただ一瞬、空間が歪むような感覚があっただけで……」
ルイーズの言葉に、支部長が深く息を吐く。
「……“異空間”への強制転移か」
その時、指揮室の隅で静観していた人物が、静かに、そして冷徹に口を開いた。
「闇術には、特定の対象だけを術者の用意した“場”へ引き摺り込む術が存在します」
ジゼル・オリヴィエだった。
「術式を事前に仕込んでいれば、発動に詠唱も陣も必要ありません」
「例の講師——ディーター・ボニファーツの仕業か」
「その可能性が高いでしょうね」
ジゼルは淡々と頷く。
「学園内での急速な悪魔化も、精神干渉の闇術が広範囲に準備されていたと考えれば説明がつきます」
「精神を揺さぶり、契約を結びやすくしたわけか……悪質極まりないな」
支部長は苦々しく吐く。
「殿下たち三名が呼び出された理由についてですが」
ジゼルは静かに続ける。
「三名とも、ランデュートの血を引く者です。
過去の悪魔化の事例によれば、ランデュート出身者は、宿主の肉体が崩壊せず、高い純度で形を保つ傾向にあります」
空気が、凍りついた。
「つまり、狙いは生徒たちの無差別な悪魔化だけではない。彼ら三名を、より強大な悪魔を降ろすための“至高の器”として拉致した可能性があります」
ルイーズが、自身の拳を白くなるほど強く握りしめる。
「そんな……」
「元凶は、おそらく彼らが引き込まれた先にいるでしょう」
ジゼルは突き放すように、だがはっきりと告げた。
「そして同時に、学園内にはまだ“間に合う者”と、すでに“戻れない者”が混在している。一刻の猶予もありません」
沈黙。誰もが目を背けたい現実を、ジゼルは無慈悲に突きつける。
「聖騎士団は、即時行動に移る」
支部長の号令が響いた。
「部隊を二分する。一隊は、異空間に引き込まれた殿下たちの救出。もう一隊は、学園内の悪魔化生徒の制圧および救護だ」
支部長の鋭い視線がジゼルを射抜く。
「オリヴィエ。原則は、浄化だな」
「ええ。侵食期までであれば、
神聖術で引き剥がすことは可能です」
だが——その“先”に至った場合はどうするのか。
その問いを口にする者は、ここにはいなかった。
支部の鐘が、重低音を響かせて鳴り渡る。
それは、救済と、断罪の始まりを告げる弔鐘のようでもあった。
聖騎士たちは祈りと覚悟を携えて、夜の帳へと駆け出す。
この夜。
学園と異空間、二つの戦場で。
“救えるか”
“討つしかないか”
その残酷な選択が、彼らに突きつけられようとしていた。




