断絶の生徒会室
「……え?」
眩い光に視界を遮られ、次にルイーズが瞬きをしたとき、網膜に焼き付いていたはずの光景は、残酷なまでに欠落していた。
すぐ側で言葉を交わしていたはずのムスタファ、ジャミーラ、ライル。
三人の存在感、体温、衣擦れの音。それらすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていたのだ。
「何が……?」
ルイーズの喉から、乾いた声が漏れる。
残されたのは、静まり返った室内と、同じく呆然とするジャンとアルテリスの二人だけ。
その空白を埋めるように、部屋の温度が急速に下がり始めた——その瞬間。
「——ルイーズ!」
ジャンの鋭い声が響く。
次の刹那、ルイーズの背後に迫った歪な影が、その腕を振り下ろそうと空を裂いた。
「《大地の精霊よ。
我が前に芽吹き、彼の者を絡め取りたまえ》」
ジャンが床を打つ。足元が、わずかに脈打った。
床の隙間から這い出した無数の蔓が、迫る生徒の足首に絡みつき、瞬時に締め上げる。
体勢を奪われた生徒は、そのまま床へ激しく叩きつけられた。
だが——
「ァ゛……ッ……」
地に伏したまま、無理やり身体を起こそうとする。
蔓が軋み、なおも暴れ狂う。
「……尋常ではありませんわね……!」
ルイーズは息を呑みながらも、祈りの形に手を組む。
「《女神アウロラよ。
彼の者に絡む歪みを照らし、
偽りの結びつきを、断ちたまえ》」
淡い金の光が広がり、暴れる生徒を包み込む。
——しかし。
「……っ、浄化が……効かない……?」
光は確かに触れている。
だが、瘴気は消えるどころか、光を喰らうように濃く滲み出した。
「侵食が異常に速いですね。すでに相当進んでいます」
ジャンが短く断じる。
その言葉を遮るように、別の生徒が跳ね起きた。
「ァ゛ア゛ッ!!」
二体、三体と、歪んだ身体がこちらへ向かってくる。
「ルイーズ、下がってください!」
ジャンは一歩前へ出ると、片腕を振り抜いた。
「《大地の精霊よ。
枝を張り巡らせ、彼の者の歩みを阻みたまえ》」
再び床が波打つ。
足元から伸びた蔓が、迫る生徒たちの脚に
絡みつき——強引に引き倒した。
鈍い衝撃音。
だが、それでもなお、這うように近づいてくる。
「数が……多すぎますわ……!」
ルイーズの声が揺れる。
さらに背後から、呻き声。
囲まれつつある。
「……っ!」
ルイーズは再び神聖術を展開する。
「《女神アウロラよ——》」
「ルイーズ、いけません!」
短く、強く。ジャンが制した。
「何故——」
「浄化は間に合いません。侵食が進みすぎている上に、この数です」
迫る腕を弾き、横合いからの一撃を逸らしながら、ジャンは続けた。
「——このままでは徒に体力を消耗するだけです。長くは持ちません」
その一言に、ルイーズの動きが止まる。
「では……討伐、するのですか?」
「いいえ。イルハン殿がされていたように、一先ず急所を外して気絶させるのです。
ここは私が抑えます。ルイーズは下がっていてください」
わずかな逡巡。
だが——すぐに、彼女は歯を食いしばった。
「……分かりましたわ」
その時。
一体の生徒が、蔓を引きちぎりながらジャンへと躍りかかった。
「——っ!」
ジャンは半歩だけ身を引き、腕を滑らせていなす。
相手が体勢を崩した瞬間——
「《大地の精霊よ。
しなやかなる枝をもって、彼の急所を打ち、
その意識のみを刈り取りたまえ》」
絡みついていた蔓が、意志を持つかのようにうねり——その一部が鞭のようにしなり上がる。
鋭く振り抜かれた蔓が、生徒の首筋を正確に捉えた。
鈍い音が、短く響く。
衝撃に、生徒の身体から一瞬で力が抜けた。
そのまま糸が切れたように崩れ落ち、意識が途切れる。
——それを合図とするかのように。
蔓が次々としなり、迫っていた生徒たちの急所を正確に打ち据えていく。
鈍い打撃音が、断続的に室内へ響いた。
やがて——最後の一人が崩れ落ち、生徒会室に再び静寂が訪れた。
「……お見事ですわ……!」
ルイーズが息を呑む。
「この場は凌げましたが……長くは持ちませんね。すぐに他の生徒も来るでしょう」
ジャンは周囲を一瞥し、冷徹に告げた。
床に倒れ伏す生徒たちは、いずれも息はある。だが、完全に沈黙しているわけではない。
かすかな呻きとともに、再び動き出す気配を孕んでいた。
「そう、ですわね。殿下たちは何処へ……」
ルイーズが不安げに問う。
「術の気配がありました。意図的にどこかへ転移させられた可能性が高いです」
「何のために……?」
「確かなことは分かりませんが……あの方々に共通する点は——ランデュート民であることです」
ジャンが素早く状況を分析する。
「ともかく、我々の取るべき行動は一つです。
聖騎士団へ向かい、状況を報告しましょう」
「ええ。ここで立ち止まっていても好転しませんものね」
ジャンとルイーズは、気絶させた生徒を避けながら駆け出そうとする。
——その時。
「……アルテリス?」
ルイーズが気づき、声を上げた。
激戦の最中、彼は二人の輪から外れるように、わずかに距離を取っていた。
周囲の脅威に目もくれず、ただ一点。何もない空間の“名残”を見据えている。
二人が近づく。
「何をしているのです?」
ジャンが問いかけると、アルテリスは二人に向き直って深く頭を下げた。
「——お二人は、そのまま聖騎士団へお向かいくださいませ」
「何ですって?」
ルイーズが眉をひそめる。
「……あなたは、どうするのですか」
ジャンの問いに、アルテリスは一瞬だけ睫毛を伏せ——
「私は——殿下を追わねばなりません」
その言葉に、ルイーズが息を呑む。
「……殿下たちが何処にいらっしゃるか分かるのですか?」
アルテリスは、一瞬だけ沈黙した。
「いいえ」
「でしたら——」
「アルテリス。聖騎士団の鉄則は集団行動です。
現状を報告し、団の指示を仰ぐのが先決ではありませんか?」
被せるように言うジャンの正論。
だが。
「おっしゃる通りです。ですから、報告はお二人にお任せいたします。聖騎士団が動くべき事態であると、お二人の口からお伝えください。指示を待ち、組織として動くべきなのは……この場ではお二人だけです」
「それは、あなたも同じでしょう!」
「私は」
アルテリスはわずかに声を落とした。
「聖騎士見習いである前に、殿下の従者。私の忠誠は団の規律よりも、殿下の御身にございます。たとえそれが、独断専行という謗りを受けることになっても」
「無謀すぎます!確かな足取りも掴めぬまま飛び込めば、何も成せずただ死ぬだけです。聖騎士団と連携することこそが、殿下を助ける最善とは思いませんか!」
「これ以外の道は、今の私にはございません」
揺るぎのない断言。
反論の余地を与えない、絶対の意思。
その瞳には、聖騎士としての規律を超えた、昏く、烈しい決意が宿っている。
ジャンも、ルイーズも——その覚悟の重さを前に、即座に言葉を返すことができなかった。
「……あなたには失望しました」
やっとの思いでジャンが発したのは、吐き捨てるような言葉。
「規律を乱し、独り善がりの特攻で命を捨てるのが、あなたの忠義ですか」
それは聖騎士見習いとしての、そして仲間を案じるがゆえの憤りだった。
しかし、アルテリスの心にその言葉が波紋を広げることはない。彼にとって、聖騎士団での評価も、自身の名誉も、不要なものだった。
「申し訳ございません。これにて失礼いたします」
アルテリスはそれ以上答えずに、深く一礼して踵を返す。
「ちょっと、アルテリス!」
「ルイーズ、追ってはいけません!」
「でも——」
「今は時間がありません。私達は、聖騎士団に向かいましょう」
ジャンは歯噛みし、鋭く息を吐いた。
ルイーズは遠ざかるアルテリスの背中を見つめ、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。彼女にも分かっていた。今の彼を止めるには言葉も時間も残されていないのだ。
ジャンが背を向け、走り出す。ルイーズも最後にもう一度だけ仲間の背を刻み込むように見つめ、逆方向へと駆け出した。
引き留めようとするルイーズの声を、冷たい風の中に置き去りにする。
アルテリスの足取りに迷いはなかった。
(——失望されてもいい。狂人だと思われても構わない)
一歩、足を踏み出すごとに、アルテリスの意識から“自分”という存在が消えていく。
後に残るのは、ただ一つ。主を追い、その身を盾にするという、冷徹で烈しい衝動のみ。
彼は一度も振り返ることなく、陽炎の立つ荒野へと、その身を投じた。
——主君と、強引に引き離された。
——敵は、学園の内側にいる。
結界は崩れ、日常は剥落し、救うべき生徒たちは異形へと成り果てていく。
絶望と狂気が渦巻く中、彼はただ一点の光だけを見据えていた。
例えその先に待ち受けるのが、神の裁きであろうと、悪魔の嘲笑であろうと。
アルテリスの瞳に、恐れはなかった。




