始動
——その時は、あまりにも唐突に訪れた。
穏やかな日常が、阿鼻叫喚の地獄へと変わる、その境界さえも曖昧なままに。
放課後の生徒会室。
窓から差し込む夕光はあくまで柔らかく、長机の上に穏やかな輪郭を描き出していた。
本来であれば、巡回や任務に追われている時間だ。だが、今日は非番。
ジャミーラは一人、静寂の中で勉学に励んでいた。
だが——
(……集中、しないと)
視線は文字をなぞっているのに、意味が上滑りして頭に入ってこない。
『……行方不明者は、二名に増えた』
少し前、聖騎士団見習いの招集でムスタファが告げた言葉を思い出す。
結界石の破壊と行方不明事件の関連性が示唆されてから起きた、二人の生徒の失踪。
ジャミーラの、ペンを握る指先が強張った。
『学園側も現状を把握している。だが、表向きは“所在確認中”として処理する方針だ。聖騎士団には、非公式での捜査要請があった』
裏で毒が回っているのを知りながら、表向きは平静を装う。
その歪さに、胸の奥がざわつく。
『聖騎士団の方針は変わらない。
我々は学園の内側を、支部は外側を捜査する』
容疑者の影は見えている。なのに、決定的な証拠がなく手が出せない。
それどころか、真犯人は別にいる可能性さえある。
時間だけが、残酷に刻一刻と過ぎていく。
(その間に、また誰かが居なくなってしまったら……)
じわりと焦燥が広がる。
“誰かを助けたい”——それが自分の在り方のはずなのに。
指の隙間からこぼれ落ちていく砂を眺めているような、得体の知れない無力感。
そこまで考えた、その時だった。
ふ、と。
背筋を、氷の刃でなぞられたような悪寒が走った。
学園のどこかで、何かが決定的に砕け散る感覚。
「……っ?」
反射的に顔を上げる。
刹那、視界の奥から黒い靄のようなものが滲み出し、ジャミーラの“内側”へと直接入り込んできた。
甘く、優しく、脳髄を直に愛撫するような感触。
耳元ではなく、意識の深淵で、何者かが嘲笑う声が響く。
瞳が虚無に呑まれかけ、思考が墨を零したように塗りつぶされそうになる。
だが、その寸前。訓練で叩き込まれた生存本能が警鐘を鳴らした。
(……呑まれてはだめ!)
肺に残った空気をすべて吐き出し、意識を一点に研ぎ澄ます。
鋭く呼吸を整え、剥離しかけた自我の輪郭を、両手で強く掴み直すようにして繋ぎ止めた。
黒い靄は忌々しげに揺らぎ、音もなく霧散する。
同時に、空間を支配していた不自然な歪みも消えた。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……」
大きく肩で息をする。防げた。だが。
「……今の、は……?」
ただの幻覚ではない。
精神に直接触れてくる、明確な“干渉”。
(——闇術……!)
そう確信した瞬間。
遠くで、空気を引き裂くような悲鳴が上がった。
「……!」
続いて、もう一つ。さらにもう一つ。
「——やめて……っ、来るな……!」
「あ、あああああああっ……!」
狂気を含んだ断末魔が、重い扉を突き抜けて流れ込んでくる。
「……何が——」
ジャミーラが立ち上がるのと同時に、バンッ!と扉が弾け飛ぶように開いた。
「シャマル様!」
駆け込んできたのは、ライルだった。
「ご無事ですか!」
「イルハン様!わたくしは問題ありません。ですが外で悲鳴が——」
「詳しい話は後で。まずは、殿下のもとへ参りましょう」
短く告げるライルの声音には、危機感が張り詰めていた。
ジャミーラは迷わず頷き、彼の後に続いた。
⚜️⚜️⚜️
扉を抜けた瞬間——。
ジャミーラは、言葉を失った。
室内には、すでにムスタファとアルテリスがいた。
だが、異様なのはその周囲。
数名の生徒が床に崩れ落ち、苦しげに身をよじっている。
「……あ……ああ……」
喉を引き裂くような呻きとともに、彼らの身体から禍々しい黒い瘴気が滲み出していた。
皮膚が波打つように隆起し、指先が不自然な角度で伸びていく。
瞳は白濁し、すでに知性の光はない。
「殿下、シャマル様はご無事です」
ライルが報告すると、ムスタファは短く応じた。
「……そうか」
彼は視線を逸らさず、前を見据えたまま動かない。
その眼差しの先には、苦しみながら“人でなくなっていく”生徒たちの成れの果てがあった。
「——っ、やめ……」
声にならない叫び。肥大化した腕が床を掻き、石の床を嫌な音を立てて削る。
そこへ、廊下の向こうから激しい足音が近づいてきた。
「殿下!」
飛び込んできたのは、ジャン・アダンとルイーズ・ベルタンだった。
「皆様ご無事で」
二人とも、息を乱しながらも安堵の息を漏らす。
「外の様子はどうだ」
ムスタファの声が、低く響く。
「生徒会室の外でも、同様の現象が起きています。精神干渉を受け、正気を失った生徒たちが……」
言葉は続かない。
「無事なのは、ここにいる者だけかもしれないな」
ムスタファの言葉が、冷たく落とされた。
彼は静かに、生き残っている者たちを見据える。
「単刀直入に言う。結界石が——破壊された」
「え——……」
思考が凍りつく。淡々とした声音だけに、その言葉の重みが刃のように突き刺さる。
「さらに、精神干渉の闇術が発動されている。
耐えられなかった者から——悪魔化が始まっている」
「そんな——」
その時だった。
——ガンッ!!
重苦しい打撃音が、室内に響き渡った。
「……っ!?」
床に伏していた生徒の一人が、弾かれたように跳ね起きた。
「——ァ゛ア゛ッ!!」
もはや言葉ですらない咆哮。不自然に伸びた腕が、最も近くにいたジャミーラへと振り下ろされる。
「《風の精霊よ。
彼の攻撃を薙ぎ払いたまえ》」
間一髪、ライルが割って入り、その剛腕を弾き上げた。
衝撃波が、室内の空気を震わせる。
「言っている傍から、だな」
ムスタファが低く吐き捨てる。
生徒だったモノは、ぎこちなく首を傾けた。関節が噛み合っていないような、気味の悪い動き。
「……ぁ……」
その口から、微かな声が漏れる。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、理性がその瞳をよぎった。
「……た、す……け……」
「——っ!」
ジャミーラの表情が激しく揺れる。
その瞳には、確かにまだ“人”の欠片が残っていた。
だが、ライルに迷いはなかった。
鋭く踏み込み、低い姿勢から懐へ潜り込む。
「——っ!」
振り下ろされる爪を紙一重で躱し、鳩尾へ正確無比な一撃を叩き込む。
鈍い衝撃とともに、生徒の力が抜けた。
「お見事です」
ジャンが短く評するが、その視線はすでに次の脅威を捉えていた。
部屋の隅で、別の生徒がゆっくりと起き上がる。
濁った瞳が、獲物を定めるようにこちらを射抜く。
その口元が、歪に吊り上がった。
笑った——そう見えた。
「囲まれつつありますね」
アルテリスが、静かに告げる。
「一先ず、聖騎士団に向か——」
ムスタファが指示を飛ばそうとした、その途中で。
——ふっと。
世界が、暗転した。




