水面下の歯車
夜。
学園の鐘が、冷たく静かに時刻を告げた。
寮へ戻る生徒たちの足取りは軽い。
あちこちで弾ける笑い声。何気ない明日の約束。
——不穏な噂は、まだ芽吹いてすらいない。
学園は、完璧な平静を装っていた。
⚜️⚜️⚜️
学園長室。
重厚な扉が閉じられた瞬間、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。
「……二名だ」
低く、苦い声を絞り出したのは学園長だった。
机の上には、二通の簡素な報告書。
「いずれも放課後の学園内。単独行動を確認された後、足取りが途絶えている」
「最初の生徒は、直前までボニファーツ先生と行動を共にしていたはずですが」
年配の教師が、探るように言葉を継いだ。
「先生は、何と?」
「自習を終え、寮へ向かう背中を見送った……それが最後だそうだ」
「もう一人の生徒も、教室に忘れ物を取りに戻る途中で……」
沈黙が部屋を支配する。
交錯する視線の奥に、共通の懸念が浮かび上がった。
「……やはり、何らかの術が使われた可能性を考えるべきでは?」
「いや」
学園長が、即座に否定する。
「学園内にマナの痕跡は確認されていない」
「では、物理的な誘拐だと……?」
「それも含めて捜査中だ」
言葉を重ねるほどに、空気は重く沈んでいく。
「やはり、聖騎士団に正式な調査を依頼すべきです。我々だけでは——」
「許可できない」
学園長の声は、氷のように静かだった。
「事件性を公に認めた瞬間、この学園の信頼は失墜し、取り返しのつかない混乱を招くことになる」
慎重な言葉。
だがその瞳にあるのは、平穏という名の薄氷が砕けることへの恐れだった。
「ですが、失踪から時間が経ちすぎています。
それこそ取り返しのつかない事態を招く恐れも……」
食い下がる教師を、鋭い視線が制する。
「生徒の動揺を避けるのが最優先だ。対外的には“所在確認中”として処理する」
「しかし!」
「——だが」
学園長は声を落とし、続けた。
「聖騎士団への情報共有は、内密に行う。
公式介入ではなく、あくまで非公式の“内密調査”としてだ」
それが、彼にできる唯一の——そして危うい妥協だった。
⚜️⚜️⚜️
同刻。
聖騎士団・臨時会議室。
選び抜かれた者だけが集う、窓のない一室。
中央に座す支部長の傍らには上官たちが並び、少し離れた位置にムスタファとライル、その背後にアルテリスが控えていた。
議題は、学園から持ち込まれた“生徒行方不明事案”。
「報告を」
短い促しに、ライルが一歩前へ出る。
「はい」
軽く一礼し、端的に告げる。
「現在、学園内で生徒二名の行方が確認できておりません。
いずれも放課後、単独行動中の失踪です」
ライルは感情を排し、事実のみを並べた。
「学園側の対応は?」
「表向きは“所在確認中”。事件性を否定し、内密な処理を求めています」
支部長が深く、重々しく頷く。
「保身と実利の天秤か」
一拍の沈黙。
支部長は資料に視線を落とした。
「同時期に学園内で二名の失踪。
結界石の破壊に続く行方不明事件。
他国の事例とも類似している——偶然とは考えにくい」
その場にいた全員の背筋に、冷たいものが走る。
「イルハン、例の教師について改めて共有を」
「はい」
ライルはディーター・ボニファーツの件を簡潔に報告した。
支部長は上官たちを見渡し、矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「今回の件は、ほんの始まりに過ぎん。
同様の被害は、今後さらに広がる可能性が高い。
一人でも多く救うためには、敵を早期に叩く必要がある。
——調査を継続しろ。裏付けを急げ」
「はっ」
最後に、支部長の視線がムスタファを向いた。
「学園内部については、引き続きご対応願います」
「承知しました」
ムスタファの低い声が響く。
それは、戦の前の静けさだった。
⚜️⚜️⚜️
地下。
古い石造りの空間。湿った冷気が肌を刺す闇の奥で、誰かがくすりと笑った。
「……学園も、聖騎士団も」
愉悦に満ちた、低い声。
「ようやく、盤上に上がってきましたか」
暗がりに響く足音。それは確信に満ち、迷いがない。
「ですが——」
足音が止まる。
「遅すぎましたね」
闇の中で男の口角が吊り上がる。
「準備は、既に整っています」
狂気を帯びた歓喜が、地下の静寂を塗り潰していった。




