囁かれる不在
夕暮れに染まる学園。窓から差し込む橙色の光が、静まり返った回廊を長く切り取っている。巡回当番の腕章をつけたジャミーラは、ルイーズと肩を並べて歩きながら、無意識のうちに眉間に深い皺を寄せていた。
「……浮かないご様子ですわね」
不意に横から柔らかな声が掛かり、ジャミーラは顔を向けた。ルイーズが、そっと彼女の横顔を覗き込んでいる。
「もしかして——ボニファーツ先生のことで、お悩みではありませんか?」
図星を突かれ、ジャミーラは口を噤んだ。しかし、ルイーズの真っ直ぐな眼差しから逃れることはできず、観念したように小さく肩を落とす。
「……隠せませんわね、その通りですわ。ルイーズ様も、ボニファーツ先生の件をご存知なのですわね」
「聖騎士見習いとして、ある程度の情報は共有されておりますわ」
ルイーズの頼もしい響きに、ジャミーラの強張った表情が緩む。
ジャミーラは安堵の溜め息をつき、一人で抱え込んでいた不安をこぼすように言葉を続けた。
「実は本日、講義の後に先生からお声がけをいただきましたの。特別なことをおっしゃったわけではございませんが……」
「ですが、どこか胸が騒ぐ——そういう感覚ですわよね」
前を見据えたまま言い切るルイーズに、ジャミーラは「はい」と短く正直に肯定した。
回廊の向こうには、血のように赤く染まった夕空が広がっている。沈黙の中、ルイーズがふと声を潜めた。
「……実は。本日わたくしの学年でも、少々不可解な話を耳にしましたの」
「不可解なお話、ですか?」
「ええ」
ルイーズは、周囲に人がいないことを確かめるように、一度だけ背後を振り返った。
「ある二年生の男子生徒が、昨日から寮に戻っていないそうですわ」
「……え?」
ジャミーラは歩みを止め、大きく目を見開いた。サッと血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「心配した同級生が、彼の兄君に相談したそうなのです。——その兄君が、わたくしの同級生でして」
ルイーズは、ほんの少し眉をひそめる。
「けれど……兄君も、そのご友人たちも、誰一人として“彼の行方”を把握していないのだとか」
ジャミーラの顔に、明らかな動揺が浮かんだ。
「……それはつまり、行方不明ということですの?」
「まだ断定はできません。ですが——」
ルイーズは、少し歩調を緩めた。
「その生徒は、授業が終わるまでは普段通り友人たちと過ごしていたそうです。そして別れ際に、こう言い残したと」
二人の足音が、止まる。
「『先生に個別の指導をいただいてから帰る』と」
しん、と冷たい沈黙が落ちる。
「『俺たちは先に帰った。それきり、姿を見ていない』……ご友人は、そのように語っていたそうですわ」
ジャミーラは思わず両手で口元を覆った。まるで胸の奥を冷たい手で掴まれたように苦しい。回廊を、冷ややかな風の音だけが吹き抜けていく。
「……その件は、殿下には」
縋るような思いで尋ねるジャミーラに、ルイーズは「既にご報告いたしましたわ」と答えて、小さく首を振った。
「ボニファーツ先生が関与していると断定するには、まだ証拠が足りない。内密に捜査は進めるものの、現時点では聖騎士団として表立って動くことはできない——それが殿下のご判断です」
「そんな……!」
声を荒らげそうになり、ジャミーラは慌てて口を塞いだ。
ルイーズは落ち着いた調子で、宥めるように続ける。
「殿下のお考えは、至極妥当ですわ。ですから、今のわたくしたちにできることは、目立たぬよう振る舞いながら、どんな些細な違和も見逃さないこと。……それだけですわね」
「……そう、ですわね」
ジャミーラは、ぎゅっと強くスカートの裾を握りしめた。
(起こり得ることが分かっているのに、表立って動けないなんて……)
悔しさと無力感に、思わず目の奥が熱くなる。今にも感情が溢れ出しそうになるのを懸命に押し留め、ジャミーラは乱れかけた心を整えるように静かに深呼吸した。
「軽々しく動くべきではありませんわね。……今は、耐えるべき時ですわ」
震える声で、自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。
夕闇が二人の影を長く引き延ばし、やがて呑み込もうとしていた。再び歩き出したジャミーラの足取りは重く、その瞳の奥には、確かな“異変”の冷たい影が静かに広がっていた。




