違和の行方
夕陽が濃い橙色に室内を染め上げ、長く伸びた影が格子状に床を這っている。
放課後の生徒会室。机に向かい書類を整理していたムスタファは、ペンを走らせる手を止めた。重厚な扉の向こうに、誰かが立ち止まる気配を察したからだ。
「ジャミーラ・シャマルです。ムスタファ殿下。今、お時間よろしいでしょうか」
扉を叩く音に続いて響いたのは、控えめで、どこか硬い声だった。
「構わない。入れ」
扉が開き、ジャミーラが入室してくる。その所作はいつも通り丁寧だったが、身を硬くしているのはムスタファの目にも明らかだった。
「どうした」
背後に控えるアルテリスとライルの存在を意識の端に置きつつ、ムスタファは椅子に深く腰掛けたまま促す。
「……ご報告すべきことがございます。本日の対魔学の講義後、ボニファーツ先生にお声をかけられました」
その名が出た瞬間、ムスタファの神経が鋭く張り詰めた。室内の空気が一気に張り詰めるのを感じながら、彼は声音を変えずに問い返す。
「内容は」
「自己分析の授業に関する補足という体裁ではございましたが、わたくしが聖騎士見習いであることを踏まえ、任務や訓練において精神的な負荷を感じていないか、とお尋ねになりました。
踏み込んだご追及や、具体的な回答を求められることはございませんでしたが」
そこで言葉を切ったジャミーラの表情に、微かな不快感と警戒の色が浮かぶのを、ムスタファは見て取った。
「何かあれば、いつでも資料室へ来るようにと……そのようにおっしゃっていました」
(——早速接触してきたか)
ムスタファは心中で舌打ちを堪える。
夕陽の影が、じりじりと床を這う。
「意図的な誘導、あるいは懐柔を感じたか?」
「……露骨なものは何もございませんでした。
教育者として、生徒を気遣う自然なお振る舞いにも見受けられました。ですが、わたくし一人が呼び止められたという点につきましては、少々不自然に感じました」
ムスタファは小さく息を吐き、机の上で組んだ指先に視線を落とす。ボニファーツの真の狙いはどこにあるのか。単なる探りか、罠か。幾通りもの最悪の可能性が頭を巡る。
「彼の誘いに、応じるつもりはあるか」
「いいえ。そのつもりはございません」
迷いのない即答だった。
その答えに、背後でライルが安堵したように目元を細める気配がした。彼女の気丈さに、ムスタファもまた密かに安堵の息をつく。
「賢明な判断です。下手に探りを入れて危険に飛び込むより、今はその距離を維持すべきでしょう」
ライルの言葉に、ムスタファも静かに頷いた。
「ああ、よく報告してくれた」
彼女の強張った肩から力を抜かせるように、あえて落ち着いた声で命じる。
「不自然に避ける必要はないが、決して二人きりにはなるな。少しでも異変を感じたら、迷わず俺に知らせろ」
「承知いたしました」
ジャミーラは深く一礼した。不安を打ち明けたことで入室時よりは少しだけ表情が和らいだように見えたが、それでもまだ緊張の糸は解けていない。完全に拭いきれない不安をその背中に滲ませながら、彼女は退室していった。
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重厚な扉が閉まると、室内に再び静寂が降りた。だが、残された三人の間に漂う空気は、先ほどよりも一段と冷たく、刃のように鋭いものへと変わっていた。
「……早速接触してきましたね」
口を開いたライルの声には、隠しきれない殺気が混じっている。背後に立つ彼の焦燥が、肌を刺すように伝わってきた。
「彼が“黒”であるなら、シャマル様の身に危険が及ぶのは時間の問題です。本日は私が寮までお送りしますが——“先程ベルタン嬢から報告のあった件”もございます。今後は、学園内であっても付き添いをさらに強化すべきかと」
ライルの切迫した声を受け止めながら、ムスタファはすぐには答えず、窓越しに闇に沈みつつある学園の庭を見据えた。
ライルの懸念はもっともだ。事実上の婚約者として、そして彼らを率いる主君として、仲間の安全は何より優先すべき事項である。だが——。
「放課後は毎日、生徒会室に寄っている。任務中の単独行動もない。送迎もしている。十分だ」
「殿下。シャマル様が標的となった可能性は否定できません。何かあってからでは遅すぎます」
抑えようとしても漏れ出るライルの声音の奥に、強い焦燥と、動こうとしない自分への苛立ちが滲んでいるのがわかった。ライルの気持ちは痛いほどわかる。だが、感情で動けば足元を掬われる。
「相手はあくまで教師だ。衆目のある場で軽率な行動には出れない。彼女自身に警戒を徹底させれば済む話だ」
「ですが……!」
食い下がりかけたライルの言葉を、ムスタファは軽く手で制した。
「護衛時間を増やすつもりはない」
自らの口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。ライルを突き放すような物言いになっている自覚はある。それでも、全員の命を預かる者として、誰かが冷酷なまでに理性的でならねばならないのだ。
重苦しい沈黙が落ちる。
ライルの反発を孕んだ空気が室内を満たしかけたその時、アルテリスの柔らかな声が、張り詰めた空気をふわりとほどいた。
「ライル様。現状、シャマル様の護衛が可能であるのは、ライル様か私のどちらかです。ですが私たちは学年が異なります。教室から生徒会室までの送り迎えを増やすことは可能ですが——」
アルテリスはわずかに間を置き、静かに告げた。
「過度に囲えば、かえって敵を刺激する恐れがございます」
「アル……」
「“普段通り”を崩さないこと。それが、今のシャマル様にとって、最善の防壁になるかと存じます」
その言葉に、ムスタファは内心で短く息を吐いた。アルテリスの言葉は、ムスタファが言外に抱えていた思惑そのものだった。あえて口に出さなかった自分の真意を汲み取り、角が立たないようにライルを諭してくれたその細やかな気配りに、深く感謝する。
「……そう、だな。少し冷静さを欠いていた」
ライルは小さく息を吐き、ようやく肩の力を抜いたようだった。
「いいえ。それほど、シャマル様を案じていらっしゃるということでしょう」
アルテリスの微笑む気配に、ムスタファは何も言わず、ただ深く椅子に身を預けた。
再びの静寂。
窓の外は、すでに完全な夜に沈んでいる。
見下ろす学園は、何事もない顔をして静まり返っていた。
だが、平穏な皮の裏側で、危うい均衡が崩れる時が刻一刻と近づいている。
ムスタファは静かに目を閉じ、迫り来る闇の気配に意識を研ぎ澄ませた。




