静かな誘い
対魔学の講義室。
教壇に立つディーター・ボニファーツは、今日も変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「——さて」
静かな声が、静まり返った教室内へ染み渡るように広がる。
「前回は、ご自身の内面についての質問に答えていただきました。本日はその回答を元に、“自分という存在”の輪郭を、もう一歩深く見つめていきましょう」
黒板に、三つの単語が書き連ねられた。
『出来事』
『考え方』
『行動』
「ある事象が起きたとき、人の心はこの順序で駆動します」
指でなぞるように示しながら、続ける。
「同じ出来事に直面しても、どう受け止め、どう考え、どう行動するかは、一人ひとり異なります。……例えば」
ディーターは、慈しみ深い父親のような口調で語りかけた。
「困難な状況に陥ったとき、反射的に『自分が悪い』と結論づける人がいます。あるいは『私が我慢すれば波風は立たない』と考え、誰にも助けを求めず一人で抱え込んでしまう人もいる」
一拍。教室の空気が、わずかに湿り気を帯びた。
「これらは、決して“弱さ”ではありませんむしろ、責任感が強く、誠実で、周囲の調和を何より重んじる……尊い気質の持ち主にこそ、多く見られる傾向です」
ジャミーラは、無意識に指先を握っていた。
「ですが——」
声が、半音ほど下がった。
「その“高潔な考え方”が長く続けば、心は自覚のないまま、静かに、確実に摩耗していきます」
黒板に、新しい言葉が鋭く書き足される。
『限界を自覚しない』
「自分の限界を認めないこと。助けを求めることを恥じること。己の感情を後回しにすること。外から見れば、それは“揺るぎない強さ”に見えるでしょう。ですが——」
ディーターは生徒一人ひとりの目を、射抜くようにゆっくりと見渡した。
「悪魔が最も好む蜜は、この“静かな歪み”の中にあります」
教室内が、凍りついたように静まり返る。
「悪魔は、目に見えて絶望している者だけを狙うわけではありません。むしろ——『まだ大丈夫だ』と自分を鼓舞し続けている者。『誰にも迷惑をかけてはいけない』と孤高を貫く者。そうした人間ほど……導きやすいのです」
教室のどこかで、誰かが短く息を呑む音が響いた。
「だからこそ、自己分析は重要なのです」
ディーターは、再び柔和な表情に戻って締めくくった。
「自分の思考の癖を知り、限界を正しく見極めること。頼るという選択肢を、最初から懐に忍ばせておくこと。それが、悪魔に“付け入る隙”を与えない、最初の防壁となるのです」
授業は、その後もしばらく続いた。
⚜️⚜️⚜️
「では、本日はここまでにしましょう」
ディーターの閉講の辞とともに、一斉に筆を置く音が重なった。
「質問がある方や、考えを整理したい方は、無理のない範囲で残ってください」
生徒たちがざわめきと共に席を立ち、教室から色彩が抜けていく。ジャミーラもまた、鞄を手に取って立ち上がった。その時——
「シャマルさん。少し、よろしいですか」
背後からかけられた声に、ジャミーラの背筋が冷えた。振り返ると、ディーターが変わらぬ微笑みを浮かべてそこに立っていた。
(何のご用かしら……まさか、警戒していることを悟られた?)
授業中の動揺を悟られたのか。それとも、ただ呼ばれただけなのか。警戒で体が強張る。
ジャミーラは乾いた喉を飲み込み、精一杯の平静を装った。
「ボニファーツ先生、ご講義ありがとうございました。わたくしに、何かご用でしょうか」
「シャマルさんは、聖騎士見習いでしたね」
「……はい」
(どうして、突然そのようなことをお聞きになるのかしら)
内心で、ジャミーラの防壁がけたたましく警戒の鐘を鳴らす。
「日々の過酷な訓練、そして課せられる任務。精神を削られる場面も多いのではありませんか?」
ただの世間話のような、気遣いに満ちた口調。
だが、その問いはジャミーラが築き上げた防壁の隙間に、音もなく滑り込んでくるような響きを持っていた。
「……そう、ですね。楽なことばかりでは、ありません」
ジャミーラは負けじと、慎重に言葉を探した。
「本日の講義はどうでしたか? 何か、思うところは」
「……思っていたより、自分のことを分かっていなかったのだと……そう、感じました」
本当のことは決して口にできない。得体の知れないこの教師に、己の孤独も、重圧も、決して晒してはいけない。
ジャミーラは、当たり障りのない、それでいて偽りのない言葉だけを選んで差し出した。
「それで十分です。まずは“気づけた”。それこそが収穫です」
ディーターは満足げに頷いた。
「これから先、あなたは今以上に“悪魔”という深淵と対峙することになる。
だからこそ、自分の心の節理を知っておくことは、何よりの守りになります。もっとも」
彼は少しだけ声を潜め、親密さを演出するように続けた。
「今日の内容が、すぐに劇的な効果をもたらすわけではありません。ですが、もし本当に行き詰まったとき、ふと思い出せるだけで、開ける道もあります」
一拍置いて、彼はジャミーラの目を見つめた。
「もし、一人で整理しきれないことがあれば、いつでも資料室を訪ねてください。放課後はだいたいあそこに籠もって、古い文献に目を通していますから。力になりますよ」
——力になる。
そのひどく甘い響きに、ふと縋りつきたくなる衝動を、ジャミーラは奥歯を噛み締めて殺した。
この教師は、こうやって生徒の心に入り込み、虜にしていくのだろうか。
(でも、わたくしは聖騎士見習い。どのようなつもりでお声をかけられたのか、分からないけれど——決して、屈してはいけない)
「……ありがとうございます。失礼いたします」
ジャミーラは小さく頭を下げると、急ぎ足で教室を後にした。
⚜️⚜️⚜️
(——警戒しているな)
ディーターは、彼女が去った扉の向こうを見つめ、静かに思考を巡らせる。
(だが、拒絶ではない。むしろ、こちらの言葉を噛みしめ、自分の中に毒を招き入れている)
言葉を選ぶ際の僅かな躊躇。視線の微細な揺らぎ。そして、懸命に感情を抑え込もうとするあの自制心。
(ジャミーラ・シャマル。“悪魔の民”の娘)
彼の口角が、今度は教師の仮面を脱ぎ捨て、歪に吊り上がった。
(真面目で、責任感が強く、自己犠牲を厭わない……。なんと美しく、理想的な素材だ)
焦る必要はない。追い詰める必要さえない。ああいう手合いは、自ら深淵へと足を踏み入れていく。“答え”を求めて自ら扉を叩く瞬間は、そう遠くない。
ディーターは再び穏やかな面相を貼り付けると、闇の降り始めた廊下へと、音もなく歩き出した。




