忍び寄る魔の手
第〇学年、ある日の対魔学の講義室。
放課後を告げる鐘の音はとうに消え、冷え切った教室内には、特有の重苦しい緊張感が澱みのように溜まっていた。
「——今日は、ここまでにしましょう」
ディーター・ボニファーツが黒板からゆっくりと振り返り、生徒たちを見渡す。
「少し重たい内容でしたね。一度で理解しきれなくても、問題ありません。無理に飲み込まず、整理することが大切です」
その柔らかな声音は、冷たい空気が漂う教室に暖かな灯りをともすようだった。だが、彼の背後に広がる黒板の文字はどろりと暗い。
「もし、残って復習したい方がいれば、少しの間、自習を見ますよ」
張り詰めていた空気がふっと緩む。安堵の息とともに一斉に椅子を引く音が響き、生徒たちは次々と教室を後にしていく。
「……あの、先生」
控えめな声にディーターが振り返ると、そこに一人の少年が立っていた。授業中も黙々とノートを取っていた、神経質そうな顔立ちの真面目な生徒だ。
「昨日の内容で、まだよく分からないところがありまして……」
「ええ、伺いましょう」
ディーターは、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
⚜️⚜️⚜️
講義室に残ったのは、数名だけだった。
窓から差し込む夕陽は、燃えるような朱色から、ねっとりとした血を思わせる暗赤色へと移り変わっていく。
ディーターは長く伸びた己の影を踏みしめながら、机の間をゆっくりと歩き、一人ひとりに声をかけていく。
どんな些細な質問も拾い上げ、迷える生徒には丁寧に言葉を添える。その真摯な姿勢こそが、彼が生徒たちから厚い信頼を集めている理由だった。
やがて、最後に残ったのは先ほどの少年だけになった。
彼は少し俯き、ノートの端で指先を落ち着かなく動かしている。
「……先生」
「はい」
周囲を気にするように、少年の声はひどく小さい。教室の隅の暗がりが、じわじわと広がってくる。
「授業中は、聞けなかったのですが……」
ディーターは急かさず、静かに彼の次の言葉を待った。
「悪魔と……共存することは、できないのでしょうか」
それは単なる知識への渇望でも、好奇心でもなかった。“そうであってほしい”という切実な願いが、震える声の端々に滲んでいる。
ディーターはすぐには答えなかった。
静かに椅子を引き、少年と真っ直ぐに視線が交わる位置へと腰を下ろす。
「……面白い視点ですねぇ」
穏やかな声。
「短い間、表面上だけなら、共存しているように見えることはあるでしょう。ですが、“長く保つ共存”は、成立しません」
ディーターの声音は変わらない。温度を持たない言葉だけが静かに紡がれていく。
「思い出してみてください。私たち人族の歴史でもある……このジャルダンの創世の物語を」
ディーターは、まるで子守唄でも歌うように滑らかな声で語り出した。
「神々の王が七つの昼夜をかけて創り上げたこの箱庭で、かつて神と民は確かな絆で結ばれていた。神々から惜しみない祝福を与えられ、誰もが祈りを捧げる黄金の時代があった……」
そこで言葉を区切り、ディーターはひどく哀れむように微笑んで目を伏せた。
「けれど、蜜のように甘い繁栄は、やがて人の心に傲慢という種を蒔いた。祈りは感謝から義務へと濁って忘却され、強欲の火種はジャルダン全土を燃やす戦火となった。隣人を妬み、土地を奪い合い、神の恩恵すら己の物としようとしたのです」
少年の息を呑む音が、静かな教室に落ちる。
「もともと人族は、己の内に秘めた膨大なマナを紡ぎ、自在に魔法を操る至高の力を持っていました。しかし、同胞を傷つけるためだけにその力を使う姿に、神々は絶望し……激しい怒りとともに、その特権を剥奪した」
「……精霊術、ですね」
少年がぽつりと言うと、ディーターは満足げに頷いた。
「ええ。己のマナで直接術を編めぬよう強き戒めを施され、世界の調停者たる精霊の慈悲を乞うことでしか超常の力を振るえなくなった。それは、争いを止めるための神々の罰だった。……けれど、歴史はどうでしたか?」
沈黙。少年の口から答えは出ない。ただ、窓の外から差し込む赤黒い光が、少年の顔を不気味に照らし出している。
「神の怒りと罰をもってしても、一度燃え上がった戦火が消えることはなかった。悲しみに暮れた神々は完全に口を閉ざし、この世界を見捨てて消え去ってしまった。そして遺された民は各地へ散り、種族ごとに国を興しては、また血を流し続けたのです」
ディーターは諭すように、淡々と語る。その瞳に宿る闇は、深くなる一方だった。
「神とすら、同胞とすら共存できず、争い続けるのが生きものの性です。守るものも、掲げる正義も違う。……悪魔も、同じですよ。
だからこそ、共存は“一時的には可能に見える”錯覚に過ぎない。長く続くものではないのです」
「……そう、ですか」
少年の唇から、隠しきれない落胆が漏れる。
「ですが」
ディーターは、間髪入れずに続けた。
「他者との共存を模索できるその姿勢自体は、とても価値のあるものですよ」
少年の強張っていた表情が、ほっと緩んだ。
「……ありがとうございます」
「いえ」
ディーターの応える声は、ほんの少しだけ、地を這うように低く濁っていた。
不自然なほどの沈黙が落ちる。
ふっ、と。
少年の耳から唐突に教室の音が遠のいた。暗い水底に引きずり込まれるような、心地よい微睡みに意識が溶け——
「……君」
その声に、少年は弾かれたようにはっと瞬きをした。
「すみません……なんだか、急に頭がぼんやりして……」
「無理もありません」
ディーターは変わらず穏やかに微笑んでいる。
「よく集中していましたからね。少し疲れが出たのでしょう」
少年の思考は泥に沈むように鈍り、四肢は鉛を埋め込まれたように重かった。まぶたの裏で、ありもしない黒い斑点がちかちかと明滅する。
「少し、力を抜きましょう」
耳元で囁かれたかのような、静かで、ねっとりと甘い声。
「目を閉じて、深く呼吸を意識してください」
言われるがままに目を閉じると、視界の裏側がゆっくりと滲んでいく。
(……あれ?)
足元から床が消え、底なしの沼へふわりと沈んでいくような、奇妙な感覚。
「……大丈夫ですか?」
「……はい」
返事をする口すら、すでに自分のものではないかのように感覚がなかった。
「それなら、よかった」
衣擦れの音とともに、ディーターが立ち上がる気配がした。
「ここは、少し騒がしいですね。もっと落ち着ける場所があります。続きを、そこで話しましょう」
「……はい」
思考を挟む余地もなく、呪縛されたように肯定の言葉が口をついて出た。
とろんと濁った瞳をした少年が、ふらりと立ち上がる。
ディーターが歩き出し、少年は夢見心地のまま、目に見えない糸に引かれるようにその後を追った。
——それが、彼が最後に目撃された姿だった。




