慎重なる一手
聖騎士団・支部会議室。
夜明け直後の薄明が、狭い窓からわずかに差し込んでいた。
分厚い石壁に囲まれた室内は冷え、灯された燭台の光だけが、集まった者たちの顔を静かに照らしている。
席についているのは、選び抜かれた数名のみ。
中央奥には、聖騎士団支部長。
その左右に控える、数名の上官。
そして——その並びに、ムスタファとライルの姿もあった。
他の聖騎士たちとは、わずかに距離を置くように座している。
その背後、壁際には、影に溶け込むようにアルテリスが立っていた。
「では、報告を」
支部長の低く重い声が、静寂を破る。
「はい」
ライルが短く応じ、席を立つ。 机の上に、数枚の簡素な書面が提示された。
「学園内で一名、看過できない人物が確認されました。
名は、ディーター・ボニファーツ。
今学期より採用された、対魔学の非常勤講師です」
「講師だと?」
上官の一人が、不機嫌そうに眉をひそめる。
「左様です。ですが——」
ライルは淡々と、しかし確かな口調で続ける。
「調査の結果、彼には入職以前の記録が一切存在しませんでした」
室内の空気が、一瞬で凍りつく。
「経歴の偽称ではなくか」
「はい。経歴書、推薦状、身元保証書。通常、非常勤であっても最低限必要とされる公的書類が、何一つとして残っていないのです」
一呼吸置いて、ライルは続ける。
「唯一存在する記録は、
学園長による“推薦”と、それに基づく任命記録のみです」
「学園長の独断、か」
支部長が、低く、どこか苦々しげに呟いた。
「私の知る奴らしくないな」
その口調には、職務上の疑念以上に、個人的な知己を思う複雑な響きが混じっている。
「続けてくれ」
「はい。
肝心の講義内容ですが、完全憑依体に関する説明が、学術的な仮説の域を超え、断定的に行われていました」
「……ほう」
「魂の存在を前提とした説明です。
知識として知っているだけ、とは考えにくい」
「魔族か?」
「少なくとも、人の理の中にいる存在ではないでしょう」
その言葉に、会議室の空気がさらに引き締まる。
しばしの沈黙。
支部長は指を組み、重く問いかけた。
「だが、学園長が絡んでいるとなると厄介だな。
学園長本人の意図は、どう見ている」
「現時点では、二つの可能性が考えられます。
一つは、意図的な抱え込み。
そしてもう一つは、何らかの精神的干渉を受けている可能性です」
「あの男を傀儡に、か。
もし事実なら、事態は我々の想像以上に深刻ですな」
別の上官が、慎重に口を挟む。
支部長は深く頷き、視線を鋭く光らせた。
「……我々がどこまで踏み込めるかが問題だな」
別の上官が慎重に口を挟む。
「学園は各国貴族の子弟を預かる、いわば聖域です。各国の後援もあり、我々が表立って介入すれば、すぐさま政治問題に発展しかねません」
「承知している。根拠も被害も確認されぬ現状では、強制捜査は不可能だ」
「では、泳がせるのですか?」
「下手に刺激すれば、潜られる」
「かといって放置すれば、内部から侵食される可能性がある」
議論が静かに加熱し始めた。
それを制するように、支部長が短く咳払いをする。
「本隊は学園周辺の監視網を密かに強化し、即応体制を整えよ。ただし、表立った接触は一切禁ずる」
一拍、間を置く。
「学園内の動向は殿下に一任する。尻尾を掴むまで、我々はあくまで外堀を埋める。
周辺経路、関係者、資金・物資の流れを洗え。
外から異常が浮かび上がる可能性もある。
名目が揃い次第——速やかに排除する」
「はっ」
低く揃う声。
そして——
「お聞きの通りです、ムスタファ殿下」
支部長の視線が、それまで沈黙を守っていた王子に向けられる。
「学園内部の動向につきましては、引き続き、殿下にお任せしても?」
「承知いたしました」
短く、重みのある返答。
余計な言葉はないが、その瞳には鋼のような決意が宿っていた。
支部長は小さく頷き、会議の締めを告げる。
「よろしくお願いいたします。
——以上だ。各自、警戒を怠るな」
重厚な扉が開かれ、騎士たちが退出していく。
ライルが深く一礼し、ムスタファがそれに続く。
その背後で、アルテリスは静かに目を伏せた。
運命の歯車は、確かに噛み合った。
だが、それがどのような音を立てて回り出すのかは、まだ誰にも分からない。
学園は、今日も偽りの平穏を保っている。
そしてその水面下で、正体不明の“異物”を巡る、静かなる追跡劇が始まった。




