16.呪われた代替品
何度も何度も、繰り返し夢に見る景色がある。
王妃が、棺に縋りつくようにしている。その顔には焦燥の色が濃く刻まれている。流れた涙の跡が痛々しいほどだ。
棺の中で眠っているのは、コンラート=ファーレンホルスト。
兄はもう、二度と目覚めることはない。感情を露わにする彼女の少し後ろで、十七歳のヴィルヘルムは何も言えずにただ立ち尽くしている。
それを他人事のように、遠くから眺めている今の自分がいる。どちらにせよ、何もできないのは同じだ。
やがて王妃は涙を拭って振り返る。淀んだ光を宿した瞳が突き刺すように、ヴィルヘルムを捉える。
「どうしてお前はここで息をしているの。ヴィルヘルム」
そのまま、幽鬼のように立ち上がったかと思うと、ふらふらとこちらへ歩いてくる。そのままぐっとヴィルヘルムの胸倉を掴んだ。
「私の息子が死んだというのに、どうして」
せいぜいカトラリーとペンぐらいしか持たない女の細腕だ。そこからどうしてこんな力が湧いて出るのだろうと思えるぐらい、強い力だった。
振りほどくことが、できなかった。自分の方が、王妃よりも頭一つ分は背も大きいというのに。
「どうして、お前は生きているの」
そしてその言葉はどんな剣よりも鋭く、ヴィルヘルムの心を切り裂いた。
ああ、どうしてオレは死ねなかったのだろう。
兄はこの国の王太子だった。いずれは父の王位を継いで、立派な国王になるはずだった。
それなのに。
「呪われた子。お前のせいで、みんな不幸になるの」
ヴィルヘルムのシャツを強く握って、王妃は言う。その声が響く度に鈍器で殴られたように頭がガンガンする。彼女の瞳からまた新しい涙が零れ落ちて、はらはらと散る。
「お前が死ねば、よかったのに」
そこからのヴィルヘルムはただ壊れたように「ごめんなさい」と繰り返すことしかできなかったことは覚えている。
ごめんなさい。ごめんなさい。
兄上が死んだのに、オレなんかが生きていてごめんなさい。
その想いだけが、ずっとこの胸にある。
*
ヴィルヘルムは父王が戯れに手を付けた侍女に産ませた庶子だった。母は、側妃に召し上げられることもなかった。ただコンラートのほかに子がいなかったために、王国はヴィルヘルムを一応王子として扱った。
求められた役割は代替品である。それぐらいのことは幼ながらに理解していたつもりだった。
殊更明るく――ともすれば軽薄にでも見えるくらいに振舞うようにしていたのは、その方が都合がよかったからだ。
己の役割が決まっているということは、ある種の救いであるとヴィルヘルムは今も思っている。
どうすればいいかとか、何を成せばいいかとか、考えなくてもいい。価値があるのはこの身に流れる血だけで、それすらも兄には数段劣る。
母親の身分の違いは、自分と兄とを明確に区別をした。そのことを疑問に思ったこともなかった。
それなのに。
「ヴィルヘルム。だめじゃないか、そうやってまた傷ばかり作って!」
誤算だったのは、兄が至ってまともな人間であるということだった。
瞳の色だけは、僅かに似ている。もっとも、兄はもっと輝くような青だったけれど。
「兄上」
騎士団の訓練で暇さえあれば怪我をするヴィルヘルムに、コンラートはよく手当てをしてくれた。ついでに小言も言われた。
「大体お前は自分を蔑ろにしすぎるんだ。そんな戦い方をしていたら、命がいくつあっても足りないぞ」
治癒魔法を使う兄の大きな手がぼんやりと光る。瞬く間に、ヴィルヘルムの手足にあった無数の擦り傷が消えていく。
「命は一つしかありませんよ、兄上」
「それが分かっているなら、俺に勝てるようになるまでそんな無茶はやめるんだな」
そう言って、兄はヴィルヘルムの頭を撫でた。
けれど魔法においても体術においても、コンラートはヴィルヘルムよりも数段上手だった。結局どこか丸め込まれるようにして、ヴィルヘルムは兄の後ろを追いかけた。
ただ、思うのだ。
命が一つしかないのなら、その使いどころもまた一つだろうと。
自分にはせいぜい兄の盾となって死ぬぐらいのことしかできない。
そんな風にずっと、思っていた。
辺境への遠征は、王太子の務めの一つである。
国境付近に出没する魔物を見事討伐し、王家の威光と力を示す。そのためのまたとない好機だった。
「お前も一緒に行ってみないか、ヴィルヘルム」
「オレが、ですか?」
「うん、お前もそろそろ王子としての自覚が必要な頃だと思ってな」
自覚したところで一体何になるのだろう。己のすべきことが変わるわけではない。ただ、口答えをしたらコンラートが悲しむだろうと思って、何も言わなかった。
今考えれば、あの時何か言っておけばよかったのかもしれない。
結論から言えば、ヴィルヘルムははじめてに近い魔物との実戦でほとんど役に立たなかった。むしろ足手まといでしかないのに向こう見ずに敵に突っ走った挙句、急所を突かれそうになった。
そこから先の景色を、時が止まったかのように覚えている。
まるで赤い花のようだった。
自分を切り裂くと思った魔物の爪は、いつまで経ってもヴィルヘルムに届かない。
代わりに兄の体に突き刺さって、血しぶきが飛んだ。
「兄上!!」
「……だから言ったじゃ、ないか。そんな戦い方をしては、いけないって」
必死で傷口を押さえても、コンラートの血は止まらない。このままではコンラートが死んでしまう。
けれど、ヴィルヘルムは治癒魔法を使えない。兄がやってくれたように、傷を治すことはできない。
「なんで、ですか」
別にオレのことなんか、放っておけばよかったのに。
死んだところで誰も悲しまない。むしろ兄を庇った功でやっと浮かばれるかもしれない。
そんなことすら考えたのに。
「当然じゃないか」
力ない兄の手が、自分の頭の上に載せられる。その手はいつかのように、そっとヴィルヘルムの頭を撫でた。
「兄は弟を守る、そういうものだよ」
それが、最期の言葉になった。
コンラートが死んで、ヴィルヘルムは王太子になった。当然だ。もう、ヴィルヘルムのほかに父の子はいないのだから。
そのうちどこからか、噂が立った。
――ヴィルヘルムは、王太子の身分欲しさに異母兄であるコンラート殿下を殺したのだ。
否定をする気は起きなかった。全部自分のせいだと、思ったから。
どこで、何を間違ったのだろう。
兄が言う通り、無茶な戦い方をしなければ。
遠征に同行しなければ。
ヴィルヘルムが生まれて、来なければ。
問うても、問うても、答えがでるはずもない。堂々巡りの思いを魔法の鍛錬にぶつけたら、少しは使い物になった。
皮肉なことにその結果、ヴィルヘルムはなんとか王太子として見られるようになった。




