17.落とし前
大きな手が頬に触れた。灰青色の瞳が知らない光を宿してアンジェリカを見つめてくる。
「でんか」
何をしようとしているのか、すぐに分かった。こんな距離で二人で見つめ合ってすることと言えば、あとは一つだ。
「やめて!」
咄嗟に体を引き離すように、その肩をぐっと押した。けれどヴィルヘルムは呆れたように肩を竦めるだけだった。
「あんまり嫌がられると、さすがのオレも傷つくんだけど」
ふっと眉を下げて男は笑う。木漏れ日に照らされた整った顔立ちが、はっとするほど美しかった。
「でも、あなたは、」
呪いが解けたら、このヴィルヘルムは消えてしまう。
自分は、彼に教えなかった。それがどれだけ狡いことか分かっている。
「知ってる」
続きを封じるように、人差し指がそっとアンジェリカの唇に当てられる。
「へっ」
誰が、それを教えたのだろう。魔術師団長には口止めをしたはずだ。アンジェリカは勿論、話していない。ということは。考えを巡らせていると、ヴィルヘルムが目を細めて言う。
「宰相がこっそり教えてくれた。『呪いであっても、なんであっても、生き直す機会を得たのなら、殿下はご自身でそれを選び取るべきであると考えます』ってさ」
さすがは宰相を務めるだけのことはある。特に、「生き直す」というのが言い得て妙だった。
「だったら!!」
けれど、だとしたら余計にだ。
わたしは、もう一度、ヴィルヘルムと出会うことができた。できたのに。
どうして、別れなければいけないのだろう。アンジェリカは必死で首を横に振った。
視界の端で己の茶色の髪が踊る。それに混じって、透明な涙がいくつか弾けるように飛んでいった。
「だって、大人のオレじゃなきゃ、あんたを守れない」
誰が強いたのでもない。ヴィルヘルム自身が選んだのだ。灰青の目に灯った光がそう告げている。ただ彼がいなくなってしまう事実を飲み込めない自分がいる。
「わたし、あなたがいい。守ってくれなくていい。このままずっと、あなたといたい!!」
それは心の底からのアンジェリカの叫びにほかならなかった。こんな風に声を上げたことなんて、今までなかったのに。
くしゃりと、端整な顔が歪む。わしゃわしゃと前髪を掻き上げれば、十六歳の影が色濃く表れる。
「ああ、もう本当、わけわっかんないな」
抱えたままだったアンジェリカを、彼はぎゅっと抱き寄せた。首筋をさらりとした銀髪がくすぐる。すべらかな頬が、ぴたりと触れる。
「なんでオレ、こんないい奥さん大事にしなかったんだろ」
問われても、アンジェリカには分かるはずもない。そのままヴィルヘルムは、天を仰いで息を吐いた。
「オレ、つまらないやつだからさ、またあんたにつらい思いをさせるかもしれない。でもさ、十六のオレがこんなにいい男なんだから、二十八のオレももっといい男だよ」
その時、己はそこにいないとヴィルヘルムは知っている。だからこんな物言いになる。
「何回だって、あんたのこと、好きになるよ」
「そんなの、分からないじゃない!」
よぎったのは母のことだった。愛だけに縋って全てを失った、無様な女。
未来に何が起きるかなんて、分からない。もう捨てられるのも、一人になるのも嫌だった。
あのお忍びで町に出かけた日を思い出す。ただこの人の手だけを取って、歩いたあの日。
「一緒にどこか、遠くへ行きましょう。そうすれば魔物のことなんて気にしなくてよくなるわ。そこで小さな家を借りて二人で暮らすの。どうかしら?」
嘘のようにすらすらと口から言葉が出てきた。そしてそれは存外悪くない気がしてくる。もっと早くそうしておけばと思えるくらいに。
そうだ、全部放り出してしまえばよかったのだ。
わたしを大切にしてくれなかった国も人も、何もかも。
「わたし、料理もちゃんと勉強するわ。縫物は……刺繍を習っていたからきっと大丈夫。最初は大変かもしれないけど、きっとうまくいくわ」
そうして、この人だけを抱きしめて暮らすのだ。
そのことの何がいけないのだろう。誰にも文句は言わせない。
けれど、ヴィルヘルムは決してうんとは言ってくれなかった。
「分かるよ」
ふっとヴィルヘルムは笑みを浮かべて言った。それは、風が吹けば飛んでしまいそうなほどささやかな笑みだった。
「だって、オレなんだもん。だから、分かる」
いつかのように、こつんと額を合わせて見つめ合った。すぐそこで銀色の睫毛が震えている。
「ねえ、記憶が戻ったオレに会ったらさ、最初の一回だけでいいから『ヴィル』って呼んで」
縋りつくように抱きしめるその腕の力が強くなる。そこではじめて、アンジェリカ一度たりとも彼が望んだ名では呼んでやらなかったことに気が付いた。
「そしたら、きっと大丈夫だから。ちゃんと、会いに行くから。一目散に走っていくから」
そぐわないとか荷が重いとか理由を付けて、結局のところ自分はこの夫と向き合えていなかったのかもしれない。
だから、また失うのだ。その分の落とし前を、支払うのだ。
「大人になったら、存分にイチャイチャさせてもらうよ」
大きな手は乱れたアンジェリカの髪を梳いたかと思うと、そのまま頬に触れた。
「はじめてするなら、好きな人とだって決めてたんだ」
そうだ。最初にキスした時ヴィルヘルムはそう突っぱねた。けれど、これはあれとは違う。
あの時、魔術師団長は「愛する者の口づけ」と言った。
この口づけはきっと、呪いを解いてしまう。
だってこの今、アンジェリカは確かにヴィルヘルムを愛している。
「まって、あの、」
「だから、オレはあんたでよかったよ」
わたし、まだあなたと何も話せてない。言いたいことが沢山、あったのに。
「じゃあ、またね。アン」
最後の最後は、おばさんでもあんたでもなく。
声に滲んだ愛おしさのようなものにぎゅっと心臓を掴まれたようになる。
薬指から、そっと指輪が抜き取られる。ヴィルヘルムはそれを天高く投げた。
「あっ」
抗う暇もなかった。
彼の手から放たれた円環は、陽の光に十字のきらめきを放つ。
青い空に輝く白銀の光が、きれいだった。
それに心奪われていたから、一瞬反応が遅れた。
「だいすきだよ」
ふわりと笑ったかと思えば、ヴィルヘルムはアンジェリカの口を塞いでしまった。驚いた吐息ごと、全部奪われた。
ああ、とうとうまともに名前を呼んでやることすらできなかった。
触れる唇の柔らかさに酔いしれる。互いの境界線が曖昧になるような口づけ。
霞がかかったようにぼんやりとしていく頭の片隅で、この人を愛さなければ、わたしはこの人を失わずに済んだのだろうか、とどうしようもないことを考えた。
他人の心は永遠に目に見えない。
結局のところヴィルヘルムがアンジェリカのことをどう思っているかなんて、たとえその肉を切り裂いてみても分からない。
それでも、己が消えてしまうことすら厭わずに誰かを守りたいと思えるのならば、それを愛と呼んでもいいのではないかと思った。
アンジェリカが知覚できたのは、そこまでだった。




