15.夢の終わり
さらさらと手の中を流れていく手触りを堪能していたら、おもむろに膝の上の銀色の頭がくるりとこちらを向いた。
「何考えてんの」
長い指がアンジェリカの頬に触れる。それはぷにぷにと弾むように突く。灰青の瞳に光が差し込んで、碧玉のように輝く。
「特に、何も」
何を考えていてもこの目を見たら、ふっと飛び去ってしまう。だから、結局は同じことだ。
「ふうん。まあ、いいけど」
訊ねてきたと思ったら、勝手に納得してまたぐるりと横になる。十六歳の夫は自由で気ままだ。
大広間のカウチに押し倒された後は、ヴィルヘルムは一切、アンジェリカに手を出してこない。
あの蜂蜜のようにとろりと甘い空気は、霧のように散ってしまって今や見る影もない。
何せ相手は口づけも交わせない妻だ。当然のことなのかもしれないけれど。
代わりにえらく気に入っているのが、この膝枕というやつだ。
『あんたさ、ちょっと膝貸してくれない?』
『貸す、とは?』
『ここにちょっと、オレの頭乗っけていい?』
そう言って、アンジェリカの膝にそっと触れた。
こういうのを膝枕というらしい、というのはヴィルヘルムが教えてくれた。それから、彼は味をしめたように時々こうやってごろりと横になる。
いくらでも貸すから、返さなくていい。
そう思ったのはアンジェリカの心の中だけの話だ。
結局、いつまで経っても呪いを解く方法は見つからない。魔術師団長の顔は日に日に険しくなっていく。
けれど、アンジェリカは違った。
これで、もう、いいじゃないか。
ほかの男ならともかく、この男が“ヴィルヘルム”であることに変わりはない。正しく現王の血を引いている。何も問題はないじゃないか。
ずっと、不思議だったことがある。
どうして、令嬢たちは皆、舞踏会に憧れるのだろう。
アンジェリカにとっての舞踏会は務めで、お飾りとして果たさなければならない使命だ。最も苛烈な現実の一つだったと言ってもいい。
それ自体は、今も変わらない。舞踏会は王太子妃の立派な義務である。
けれどどうしてだろう。心がふわふわと床から二センチほど浮かび上がりそうになって、それを押し留めるのにアンジェリカはとても苦労した。
夫は恭しくアンジェリカの手を取って、目が合えば、涼やかなその目を細めてみせる。
まるでひどく眩しいものでも見るように。
そうしてダンスが始まってしまえば、アンジェリカにも分かってしまった。
どんな音楽も、眩いばかりのシャンデリアも、取り囲む人々の喧騒も、全ては遠くのことのようになる。
永遠にこの曲が終わらなければいい。ずっとこの男と踊っていられればいい。
ただ目の前にいるヴィルヘルムだけが全てだった。
アンジェリカはしばし、目を開けたまま見る夢に溺れる。
けれど、終わらない音楽はないし、醒めない夢もない。それだけの話だった。
*
夢の終わりは、唐突に訪れた。
「大規模な魔物の発生があったとのことです」
謁見の間で宰相が淡々とした声でそう報告するのを、アンジェリカはヴィルヘルムの隣で聞いていた。
先日王太子が遠征したばかりだというのに。
「討伐が必要ってことか」
「さようでございます」
ヴィルヘルムの顔色は、何一つ変わらなかった。まるでずっと前から、こんな日が来ることが分かっていたみたいに。
「聞きたいことがあるんだ、二つ」
そのまま静かに、ヴィルヘルムは問うた。
「今のオレに、その魔物を倒すことは可能?」
答えたのは魔術師団長だった。彼は跪き、頭を垂れたまま続ける。
「魔物には、物理攻撃は効きません。恐れながら、今の殿下では不可能かと」
魔素の集合体である魔物に効くのは、同じく魔素を扱う魔法だけ。
十六歳のヴィルヘルムは体術には優れているが、魔法についてはそうではない。だからこそ、二十八歳の彼に至るまでに魔法を鍛えたのだろう。
「だよなぁ」
ヴィルヘルムはそう呟いて右の手のひらを天に向ける。そこにはほんのささやかなつむじ風が渦巻いて、消えてしまう。
「じゃあ、二十八歳のオレなら、どう?」
魔術師団長がはっと弾かれたように顔を上げた。
「おそらくは……可能かと」
「だよね」
ヴィルヘルムはうんうんと頷いている。魔術師団長も、一つそれに首肯する。
なんだ、これは。
彼らのやり取りが意味するところが、やっと自分にもぼんやりと見えてくる。
「けれど、確実ではないのでしょう!?」
気づけばアンジェリカは立ち上がっていた。己の張り上げた声が、大広間に響き渡る。
「遠征など、承服しかねます!!」
皆の視線がこの身に突き刺さるようになって、なんてはしたないことをしているんだという気持ちが首をもたげてくる。それでも、言わずにはいられなかった。
「殿下に万が一のことがあれば、わたくしは、わたしは……」
わたしは、どうなってしまうのだろう。
二の句が継げなくなって、座り直すことも出来なくて、アンジェリカは一人、立ち尽くした。
「大丈夫だよ、アン」
ぐっと、握りしめてしまっていた手に、大きな手が触れる。それは心ごと解きほぐすようにアンジェリカの頑なな拳を開いて、そっと握ってきた。
「少し、アンと話をする。いいよね?」
もう誰も何も言わなかった。沈黙だけが答えで、ヴィルヘルムはアンジェリカの手を引いて謁見の間を後にした。




