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かつてのリラは、莉良という三十路一歩手前の目立った特徴がない女だった。職業はありふれた会社員で、少しばかり残業の多い職場に勤めている。日々見込み残業ありきではあるが、ブラックを名乗るほどでも無く手当はきちんと出るので辞める勇気がなく、気づけば勤めてから八年目を迎えていた。
そんな変わり映えのない日々の癒しが、ネット小説を読むこと。そして、最後の記憶となった日、莉良は一人でネット小説の完結を祝っていた。
「弱騎士、完結おっめでと〜う!」
華の金曜日たる本日、夜二十時の投稿でついに連載が完結した。仕事終わりに駆け込んだデパ地下で買ったちょっといいお惣菜をつまみに、この日の為に用意したお高いワインを開ける。一人で天にグラスを掲げると、天井のLEDライトの光がワインを通して薄ぼんやりと光って見えた。
「はあ……六年間の唯一の楽しみが、終わっちゃったかあ」
弱剣こと〈幻想女王を拾った俺は最弱騎士〉との出会いは六年前に遡る。当時たまたまハマったアニメの原作者が、無料の投稿サイトで新連載を始めたというので一話だけ読んでみようという好奇心が、莉良の人生を大きく変えた。たまたま数話まとめて更新されており、キリのいいところまで……と読んだのがいけなかった。三話目で出てきた男を、まさか生涯をかけて推していくことになるとは露ほども思わず、楽しく読み進め――沼にハマった。
どこかアンニュイな雰囲気で、迫害を受けながらも優しさを捨てきれない博愛の人。それが物語の始まりの頃の、ジーク・ヨルムンガンド。見た目のイラストも何もない、文字だけで表されたその人物に酷く心が揺さぶられた。間違いなく、恋に近い何かだった。
当時浅く広く、流行りのアニメを一通り見て終わるだけのスタンスだった莉良は、その時から人生で初めてリアルタイムで連載を追っかけ始めた。
連載を追いかけるうちに、知名度のある作者のおかげか早い段階で書籍化が決まった。そして満を持して公開された書影の裏表紙には、輝かんばかりの推しのイラスト。想像通りの、いや、それ以上に好みの見た目の推しがそこにいた。歓喜のあまり涙したのも思い出深い。ジークはこの六年のうちに何度か表紙を飾り、コミカライズ化してからは常に美貌を拝めるようになり、ありがたいことにグッズも出た。文字通り、ジークを推しているこの六年間は心の支えだった。つまらない日常に差し込んだかけがえのない光と言ってもいい。
「まあジークさまの活躍がこれで終わるわけじゃないしねえ。コミカライズの完結もまだまだだし、アニメ化だってあり得るし!」
お高いワインを一口。滑らかな舌触りと芳醇な香りに舌鼓をうちながら、ワインボトルの隣に並べたコミカライズ特装版限定のアクスタを指先でつついてみる。作画が完璧である推しは、たいへん目の保養である。
自分がなんの面白みもない人間であることをとっくに理解している莉良にとって、いい年の大人の発言としてはどうかと思うがジークはまさしく運命の人なのだ。学生時代にだって、こんなに燃え上がるような感情を抱いたことはなかった。
(恋……。ジークさまも、書かれてない部分ではたくさん女の影があるんだろうなあ)
ダラダラとワインを飲み続けながら、ぼんやりと考える。
最終話でさらりと明かされた推し周辺の矢印事情。生死不明のキャラクターからの恋愛感情が明かされたり、明言は避けられたが立場あるものとしての結婚の匂わせだったり。女性ファンの多いキャラだからこそ、想像はご自由にと言わんばかりのぼかし方で終わったが、おそらくそのキャラクターとくっつける気でいたのだろうとカップリング思考のファンたちで深夜のSNSは大盛り上がりのさまを見せていた。
カップリングは好きな方だ。主人公とヒロインはもちろん、それ以外だって。しかし、ジークだけは別だったのだ。どうしても、他の女に博愛以外の感情を見せてほしくなかった。物語のキャラクターとどうにかなれるわけもないのに、……ないからこそ、このまま博愛の人のまま幕を下ろして欲しかった。
気分が落ち込み、かき消すように思わずワイングラスを一気に煽る。仕事漬けの人生で学んだ教訓の一つ、嫌な思考を打ち止めるには酒が一番であるということだ。思考から逃れるように、莉良は次々にワインを注いでは飲み干していく。
気づけばボトルは空になり、莉良は気分よく酩酊状態となっていた。
「ああ、神様作者様。おねがいだから、続編は欲しいけどジークさまの恋愛事情をこれ以上描かないでください。誰かに恋愛感情を抱く姿を見たら、わたしはきっと死んでしまう――……」
空のボトルを放り出し、アクスタを胸に抱き込みベッドに寝転がる。プラスチックの板に描かれた推しは、ぺらぺらの平面で動きも喋りもしない。けれど瞼を閉じればいつだって、脳みその中で鮮明に生きている想像できる。莉良の頭の中では都合よく、莉良だけに微笑みかけ博愛の言葉をくれるのだ。別に愛してくれなくていい、想像上でも特別にならなくていい。彼の博愛の一つを得ることを許されたいと思ってしまうのは、罪深いことなのだろうか。酒に酔った頭がぐわんぐわんと揺れている。酔いが回り熱くなった瞳から溢れた涙が、頬に寄せたアクスタに落ちる。そのまま唇を寄せ、瞳を閉じた。
――そして次の瞬間、瞼を開いた先で、莉良は〈リラ〉として聖女の洗礼を受けていたのだ。
これが転生者としての自我。リラが持つ、莉良の記憶。
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