02
(ああ、かっこよかった!)
浮き足立つ心を必死になだめながら、リラは誰もいない廊下の隅を歩いている。その足取りは気を抜けば弾んでしてしまいそうなほど軽やかだ。
(推しのビジュが神すぎて幸せすぎる……)
にやけ顔を隠すように両手で口元を覆うが、笑みが自然と零れだしていく。
――リラ・リュゼミア・リリーベルは転生者だ。
これは誰も知らない秘密。リラの胸の内にだけひっそりと隠されており、リラ自身一度も口外したことはない。
この世界には〈記憶持ち〉と呼ばれる、前世の記憶を持つ転生者が少数だが存在している。その中でもさらに希少な異界からの転生の記憶を、リラは持ち合わせている。
かつてリラは、現代日本・東京においてただのしがない会社員だった。新卒として入った会社で、朝の八時半から夜七時までパソコンの前で画面と睨めっこをして、土日はダラダラとオタクコンテンツをつまみに一日中酒を飲む生活を八年。仕事、残業、酒、仕事。気づけば二十二歳だった彼女はいつのまにか誕生日間近の三十路目前になっていた。代わり映えのない楽しくもない生活を気づけば長い間続けていたようだと気づいた時には、洗面所の鏡の向こうで目立った特徴もないくたびれた女が死んだ目をしていたのをよく覚えている。
けれど、そんな生活の中で唯一の潤いが〈推し〉の存在だった。
王立騎士団第五部隊隊長、ジーク・ヨルムンガンド。愛読しているネット小説、〈幻想女王を拾った俺は最弱騎士〉に出てくる主人公の上司であり親友だ。――彼こそ、先程リラを直々に補佐へ指名した男である。
ここがかつて愛読していたネット小説の世界だと気づいたのは、教会に所属した時だった。洗礼の祝詞を受けた際に記憶の濁流に呑まれ、気づけばリラは前世の記憶を手にしていた。
原作から八年後――、それがいまリラたちの生きる世界だ。リラが把握している原作より更に時が経過した世界で、〈推し〉がまさか騎士団から錬金術教団に転職していたのは驚きではあるがリラにとっては僥倖だった。貴族子女として生まれたか弱い女の腕っ節では騎士なんぞになれっこないが、若かりし頃は四大卒まで勉学に勤しんだ身であるので頭脳労働の錬金術師ならまだ分がある。リラは勢いのまま才能がないことを理由にして(実際いまいちだった)、いつのまにか聖女候補とされていた教会を数ヶ月で辞めて錬金術の道に進んだ。そこにジークがいる事を知った瞬間から、リラの目標は定まっていた。噂によると騎士団から移動してまだ五年ほどではあるが、既に錬金術教団の団長にまで登りつめている有能さ。遠くからジークを眺めて飢えない程度にのんびり仕事をしたい、がリラの目標だった。
己を単純な性格だとリラは理解しているが、どうせ働くなら推しの近くがいい。幸いにも転生者特典としてかリラは運良く才能に恵まれており、聖女としてはからきしだったが錬金術の類稀なる才能を持ち合わせていた。あの綺麗な顔を眺めながら仕事が出来たら最高。そんなフワフワと軽い気持ちで入ったのは良いが、何の因果かたった今〈推し〉から〈推しの補佐〉を命じられた。奇跡だった。あんなに間近で顔を見られる日が来ようとは、今日は記念日にしよう。そう心に誓う。
雲の上を歩くような足取りのまま調合室の重たい扉を開ける。扉のまっすぐ向こう側の出窓に腰掛けていた女性が振り返って、リラに微笑みかけた。
「おかえり、どうだった? リラちゃん」
優しく微笑むのはリラの上司である、錬金術教団薬学科長ローゼマイン。弱冠十三歳で錬金術師の門戸を叩き、回復薬の権化としてそのまま役職まで上り詰めた天才だ。そして、かつてジークたちと共に旅をしていたネット小説のメイン登場人物でもある。
リラは鼻息荒く報告したい気持ちを抑えつつも、頬を赤くしながらもじもじと顔の前で両指を絡ませる。隠すことなく照れている様子は、分かりやすく何があったか教えてくれるようなものだ。忙しなく絡み合う指の向こうから、照れた様子でリラは言葉を口にした。
「えーっとですね? あの、団長の補佐へ就くことになりまして……」
その報告に待っていましたとばかりの顔をしたローゼマインは、形の良い唇の端を持ち上げにんまりした笑みを浮かべた。
「良かった! それ、推薦したの私なの」
輝かしい笑みで告げられたのは、間違いなく衝撃発言だった。
「……はい?」
思わず目を剥いたリラだが、悪戯っぽく笑うローゼマインのしたり顔には文句も出ない。今回ばかりは上司のファインプレーが功を奏したと言っても間違いではないのだ。
ローゼマインは己が腰かける出窓にリラを呼んだ。座れとばかりに一人分のスペースを開けられ、そのまま隣に腰を下ろす。ローゼマインは満足げにリラを見、その視線を天井に移す。つられて視線をあげれば、無数の本が視界に入った。
調合室の塔のように高い壁一面には、本棚に所狭しとばかりに調合の参考書たちが隙間なく詰められている。天窓の日差しで焼け幾分か薄れてしまった古ぼけた背表紙たちを眺めながら、かつて天才と呼ばれた女は過去を懐かしむ。
「リラちゃんの才能を私が認めているのは知ってるよね?」
リラに秘められた才能は当初から一部で話題を呼んでいた。だが、その才能を磨くことなく凡庸でいようとする態度がリラの才能に対する正当な評価を曇らせてきた。向上心皆無でやる気の薄いリラが新人だというのに地方に左遷もされず、中央にここまで繋ぎ止めて貰えているのもローゼマインたちの評価が大きいのもまた事実だ。
「はい。学科長には、入門当初から気にかけて頂いてたので」
錬金術教団の門戸を叩いた時、良くも悪くもリラは目立っていた。経歴ばかりが先へ先へと歩いていく中、純粋なリラの実力を評価してくれたのは、学科長を務めていたローゼマインが最初だった。
――当の本人は名前だけがひとり歩きしているとばかり思っているが、実際その才能は着々と上層部を騒がせつつあった。そのなかでの、今回の人事だ。
「……リラちゃんの才能は磨けば光るどころの騒ぎではないのよ。貴女は原石がすぎる」
リラの鼻先に、ローゼマインの指先が触れる。鮮やかな赤い爪紅で染められた形の良い爪に思わず見とれていると、ふと離れた指がそのままリラの首を伝い心臓の上まで辿り着く。胸の上に赤い指が触れた。
「私たち錬金術教団としてはその才能を放ってはおけないのに、肝心の持ち主は自堕落が過ぎる。手を抜いてるのはもうみんな分かっているのに、手を抜いてのレベルが並大抵のものじゃない。綺麗にすべてが平均値って、平均より優ですって言ってると同じことよ」
ローゼマインの言葉が痛くて思わず目を逸らす。
うまく誤魔化したつもりでも、リラが程々に手を抜いていたことはもう周知の事実であるということ。そして、手を抜いてなお平均より溢れてしまう事も。三ヶ月という期間で、一度のまぐれに見せかけた才能は既に誤魔化しが効かなくなっていた。
名前だけが先行したことで、周囲からの高すぎる期待を恐れたリラがとったのは〈平均になる〉ことだった。可もなく不可もなし。名前だけだと言わんばかりに、錬金術師になってからは平均で平凡な能力であることに徹した。ただ運よく聖女候補になっただけ。たまたま錬金術の方が向いていただけ。たった一度、運よく評価されただけ。そうして過度な期待が過ぎ去るのを待っていた。
リラは典型的な〈日本人体質〉だった前世の反省を生かし、ジークの役には立ちたいし顔も見たいという前提がありながら本気で仕事をする気は一切なかった。仕事、残業、酒、仕事。忘れられない煌びやかな日々からの転落。学生時代の楽しかった日々から中途半端にキャリアを意識した結果、手元に仕事しか残らなかった人生を少し悔いていた。今生こそは社畜精神を捨てて生きるのだと心に誓っているのだ。
「だから私の手には負えないので、貴女は今日から団長直々の預かりになるのよ」
赤い爪先がストロベリーブロンドの髪を梳いた。まるで母のように優しく髪を撫でていく。
ローゼマインはリラのことを錬金術師としてきちんと育て上げたい。そう思ってくれていたのはひしひしと感じていた。それに応える勇気が、リラには少し足りなかった。
「わたし……問題児ですか?」
「えっ、知らなかった?」
疑問を疑問符で返され、リラは冗談めかして笑い飛ばせもせずに言葉を飲み込む。
リラは真面目に見えるよう生きていたつもりだった。大人しく穏やかにを信条としていたが、彼女の思う大人しく穏やかとは〈程々に力を抜いて目立たず生きる〉のことであった為に、彼女は自分の知らないところで自堕落な天才として名を馳せてしまっていた。そして周囲からの期待に応えることもなく、ただ緩やかに平凡になれないまま堕落の道を辿っていた。
「私たちは貴女の才能を見逃せない。だから団長の元で綺麗に花開いてきてね」
穏やかに微笑んだローゼマインの言葉を直訳するのなら、〈ジークの元で自堕落な性格を矯正し真面目に仕事と向き合えるようになるまでに帰ってくるな〉というところだろうか。リラは思わず生唾を飲み込んだ。逃げ道は無いとは理解していたつもりだったが本当になかった。心のどこかにあった期待を打ち砕かれ、肩をすくめて気まずそうな顔で小さくなるしかない。
遠目で見るだけでよかったのだ。近づくと余計な欲が湧き出る。むくりと首を持ち上げそうになった黒い何かに蓋をし、リラは笑いながらため息をつく。もう乾いた笑いしか出てこなかった。
「少しだけ努力してみます……」
目をつむると脳裏に浮かぶのは期待していると笑うジークの姿。リラだけを見つめて、リラに言葉を送ってくれたあの瞬間。それだけで少しだけ頑張ろうかと思ってしまう己の単純さに、間抜けだと呆れながらもそんな自分をリラは嫌いにはなれなかった。




