02
ジークに縁を結ぼうとしていた魔女は一体誰か。何がきっかけで執着の炎を燃やし続け、何のために命を脅かそうとしていたのか。生まれた疑問は解決の糸が見つからず、ジークとリラの心にこびりついたまま二月が過ぎようとしていた。
錬金術教団、団長執務室。いつものように書類を捌ききり、一息入れるために簡易キッチンで珈琲を入れるジークの後ろ姿を眺めながらリラはうっとりと顎の下を撫でる。推しが珈琲を淹れる姿、眼福である。
部下がそんな邪な考えを抱いて熱心に見つめているとは露も知らないジークは、珈琲を注ぐドリップポットを片手に振り向いてリラの名を呼んだ。
「頂き物のクッキーが仮眠室のキャビネットの一番上の段に入っているから持っておいで」
突然の指示に指先が狂い、爪の先がザクリと顎の下に刺さる。少し伸びた爪がしっかりと食い込みかなり痛かった。けれどその痛みを凌駕する衝撃発言に、リラは動揺しながら辿々しく答える他ない。
「エッ、あ……い、いいんですか?」
「いいも何も……。ほら、もう淹れ終わるから」
二ヶ月前と比べだいぶんと砕けた口調で急かされ、とりあえず立ち上がる。そして執務室から内扉で繋がる仮眠室の前でもう一度振り返り、ジークを見た。
「は、はいりますよ……⁉︎」
「もーいいから早く! 最後の数滴落ちるからね!」
なぜかまごつくリラに痺れを切らしたジークは、早く早くと手を払う仕草で答えた。それが最終確認となり、リラは恐る恐る仮眠室に足を踏み入れる。
リラが団長補佐について約八ヶ月。その間、執務室で毎日を過ごしてもこの仮眠室に足を踏みれることは一切なかった。最後の一線とばかりに、なんだかんだと近寄ることを避けていたのだ。
ジークが寝泊まりをする為の完全なプライベート空間に今、リラは足を踏み入れている。
(なんかいい匂いするし、頭おかしくなる……!)
毎日ではないといえ、推しが寝起きをする空間。そして昨晩は急務で共に教団本部に缶詰をしたので、この仮眠室で寝泊まりしていたことをリラは知っている。勿論リラが泊まった女性団員の仮眠室も女性専用故にいつもいい匂いではあるのだが、ジークの部屋はまた別の男性的な雰囲気を感じさせるウッディな香りが漂っており、否が応にも体の奥を擽ってくる。
お腹の奥底が熱くなるような、むず痒いような。何とも言えない気持ちになりつつ、ベッド横のキャビネットへとすり足で近づいていく。視線はウロウロと部屋中を彷徨い、耳の奥には早鐘を打つ心臓の音が響き渡っている。
部屋の隅にあるガラス張りのシャワールームは今朝使ったばかりなのか水滴がついており、窓際には使用済みタオルが丁寧に干されている。ベッドはきちんと整えられており、枕のすぐそばにはルームウェアであろうコットン素材のシャツと麻のパンツが几帳面に折りたたまれていた。その反面、一人がけソファの背もたれには昨日着ていたであろうシャツとスラックスが乱雑に掛けられていたり、その隣のサイドテーブルにはサンドイッチの包み紙が包められたバスケットがそのまま放置されていたりで、昨夜の多忙さが目に見えるようだ。
推しのプライベート空間を余すことなくじっとりと観察したリラは、ようやくキャビネットの扉を開けた。言われた通り、観音開きのドアの向こうにはシルバーのクッキー缶が鎮座していた。恐る恐る手に取り、あとは足早に部屋を出る。時間にして二分も無かったというのに、リラの寿命は10年分ほど縮んだ心地だ。
「遅いよ。珈琲冷めちゃうだろ」
テーブルの上には珈琲カップが二つ。不服そうなジークに対して、リラは無言のままクッキー缶を差し出した。返事がないことを気に留める様子もなく、クッキーたちは順番にお皿の上に並べられていった。
「さ、召し上がれ」
促されるまま、まずは珈琲を一口。濃厚な香りが鼻奥を突き抜け、香ばしい苦味がするりと喉を通り抜けて行った。
本来であれば部下であるリラの仕事なのだろうが、ジークは珈琲に対する並々ならぬ拘りがあり、その基準がエメリアを囲む山々より高く、残念ながらリラの淹れた珈琲はいつも及第点には遠く及ばなかった。リラ自身淑女の嗜みとして紅茶を淹れることは一通り学んでおり人並みにはと言ったところだが、珈琲に関しては全く触ったこともないので残念ながらからきしだった。なので珈琲はジーク、紅茶の時はリラと担当を分けることで平和を保っていた。
「そういえばだけど、以前の〈あの問題〉を独自に調べてね」
中央に赤くてツヤツヤとしたジャムが乗ったクッキーをひとつまみ。その指先を目で追いかけた先で、パチリと蜂蜜の瞳と視線が重なった。
「ヨルムンガンドの資料を漁ったけど有力な情報はなかった。ウチに関連があるのはやっぱり〈彼女〉のみでそれ以外は全然。俺個人の関わりでいっても心当たりなし、あるとすれば八年前になんらかのって感じだけど……出会った記憶は一切ないかな」
翠眼の魔女。ヨルムンガンド一族の祖であり、かつて首を切られた魔女のうちの一人。〈嫉妬〉を司る彼女の血は、迫害という形でジークたちを長い間苦しめていた。生まれに罪はなくとも、その血には罪がある。その迫害があったからこそ、魔女と関わりのあるものごと全てはまるで罪であるかのように人々に刷り込まれ続けてきた。〈呪い〉のような迫害という暗闇を己が手で晴らしたジークですら、魔女は忌むべきという排他的考えを完全に否定することは出来ない。
そんな状況で、魔女が世の中に姿を見せることは全くなかった。八年前のリンドヴルム騒動のときですら、だ。
「……謎が残りますね。一体誰が、どこであなたに目を付け、何をきっかけで執着するようになったのか」
カップを静かにソーサーに下ろすと、黒い水面がゆらりと脈を打った。
思い出されるのは塔の魔女の言葉。
――この呪いだけど、炎の燃え方からしておそらく命かそれに代わるものぐらいは代償になっているでしょうね。
命を代償にして燃え続けていた〈意図〉はジークの魂を汚染し続けていた。あまりにも許されざる行いに、思い出すたびに怒りでリラの拳が震える。呪いをかけた魔女にも、気づけなかった自分にも。
「一月ほど前かな。屋敷の書庫に何もなさそうな雰囲気を感じてすぐに、ルーイエ殿下当てに禁書庫の閲覧許可を求めたんだ。案の定、うちの屋敷は空振りだったけど丁度今朝降りたんだよね」
許可。そう言ってジャケットの胸元からぴらりと顔を出したのは、木製の細長い板。そこには許可証と彫られている。
「陛下だと曖昧な理由じゃ許可が降りないし、エデット殿下には伝手がない。まあお忙しい方だし重要案件じゃないから後回しにされるとは踏んでたけど……一月で降りたなら上々なんじゃないか?」
「き、禁書庫」
「そう、禁書庫。リラは今日このあと退勤で、明日は休みだよね?」
王宮内にある禁書庫。それは禁書となった国内外の文書を一堂に集めた、王家に連なるもの以外立ち入りを禁じられた書庫。唯一王族からの許可を持つものだけが一時的な立ち入りを許されるのだが、それをルーイエ殿下経由で入手したらしい。
禁書となったものの中には魔女はもちろん、かつての悪しき風習や国が揉み消したい諸々の資料など、一介の錬金術師が識るには荷が重すぎる書の数々が眠っている場所に、リラたちはこれから行くことになるならしい。団長補佐のリラは強制的にジークと休みが被るため休みもしっかり把握されており、逃げ場はなかった。
「せめてシャワーくらいは帰れたり……?」
「ああ、仮眠室にあるから心配いらないよ。ベッドは交代で寝れば寝床問題も事足りるし。じゃあ退勤後、着替え等を持って二十時に執務室に集合で」
あわよくばそのまま帰宅後入眠という淡い願いは打ち砕かれ、同時に別の意味で冷や汗が止まらなくなっていく。
ジークの言い方だと、仮眠室のシャワールームでリラもシャワーを浴び、仮眠室のベッドで順番に仮眠を取る流れに聞こえた。あの、先ほど恐ろしくいい匂いのしたあの部屋で、リラも。自覚した瞬間に急速に跳ね始めた心音がジークにも聞こえないか不安になりつつ、珈琲が残るカップを煽った。




