ハートウェル侯爵家
――ごうごうと燃えている。
身体の奥深くで、轟々と、強々と。燃え続ける炎の名前を、彼女は深く理解していた。
それは、脳髄を焼き切るほどの強い怒り。心臓を突き刺す絶望。護れなかった自分への――不甲斐なさ。その全てが脳みそを揺らし、呼吸すらままならなくさせる。
「ああ……。アイル、アイル……」
か細く頼りない声で呼んでみても、愛しい人の瞼はきつく閉じられたまま。
こんなに冷たい石畳の床の上で、赤黒い血に塗れて愛する人はその命を終えている。
苔むしたカビくさい牢の中で冷たくなる姿は、どうかたちの悪い夢であってほしかった。
目線の合わない瞳が、輝かんばかりだった色をなくして虚空を見つめていた。鼻の奥に染みつくすえた臭いが、呪いのように魂に刻まれていく。
どうか、いつものように笑ってほしい。優しく手を握る大きな手も、愛しいとばかりに名を呼ぶ唇も、世界をうつくしいものとして映していた新緑の瞳の色も。すべて、すべて。失われてしまっている。
「ああぁ……あああああぁあ……‼︎」
鉄格子越しにいくら手を伸ばそうとも、その指先は冷たい亡骸には届かない。
恨んでやる。恨んでやる。恨んでやる。
この絶望は、きっと一生涯忘れることはない。
何度生まれ変わっても、魂の形が変わってしまっても。
ずっとずっと、追いかけ続けてみせる。
――――あなたを愛しているわ、アイル。
夕焼けの色をした瞳が、燦々と燃えていた。
◇
「……やな夢、見たな」
僅かな朝焼けの色に照らされて、空の薄紫とオレンジが交じり合うころ、リラは目を覚ました。
詳しい内容は既に若干薄れているがざっくりとは覚えており、何よりも夢で感じた強い感情が己のことのように頭に焼き付いている。そして、夕焼け色の瞳が憎悪に燃え続けていたことも、リラの記憶に残り続ける。
あの夕焼けの瞳の彼女は、何者なのか。あの狂おしいほど愛しいという感情は、――気が狂いそうな絶望と怨嗟は。いったい何が起きたのだろうか、と。カタカタと小刻みに震える指先で、身体を掻き抱く。
どうしてか、リラにはあれがただの夢だとは思えなかった。
夢が、あまりにも鮮明にリラに絶望を植え付けた。愛しい人の無惨な死の前で、打ちひしがれた痛みは今もこの胸を苦しめている。もう名前も覚えていない愛しい人の名を声が潰れるまで叫んでも、その瞳に光が宿ることはない絶望感。どこかで誰かの思念にでも触れたのか、あまりにも鮮明な強い感情は心をグラグラと揺らし続ける。最悪となった寝覚めをやり直すべきか逡巡したが、もはや考えても仕方がないことだと改めて身体を起こした。朝日は未だ昇り切らず、濃紺の空を塗りつぶしていくように淡いオレンジが染めはじめた空。境界線が混ざり合って薄い紫が広がって、眩い星たちは夜の帳が上がると共に消えゆこうとしている。
寝なおすには少しばかり時間が足りなかった。肌寒くなった空気から身を守るようにショールを纏い、リラは女性専用の仮眠室を出る。足が自然と裏の森へと向かうのを、最早止める気にはなれなかった。
「――ハッ」
小川のほとりで、朝焼けと同時に鍛錬を始める勤勉な男を知っている。その男はリラの心に巣食い、掻き乱し、狂おしい感情で息すら奪うように喉を締め付けるもの。もう騎士ではないというのに、身体が鈍らぬよう切っ先を研ぎ澄まし続けている姿は、リラの心の柔らかい部分をくすぐり続ける。
「リラ?」
木の幹に身体を預け、素振りを見守ること暫く。気配を消していたリラをついに視界に捉え、ジークは汗をぬぐいながら微笑んだ。
「おはよう。珍しい時間に珍しいひとが見れるとは、今日はいい日になりそうだなぁ」
「厭味ですか……? おはようございます。精が出ますね」
厭味か本心か、捉え辛いのがジークの悪いところだ。天然交じりの男の本心を読み損ねたまま、リラも眉を下げて微笑んだ。鍛錬に一区切りがついたのかそのまま手ぬぐいで汗を拭うジークに、近くの幹に立てかけてあった皮の水筒を手渡す。
「ありがとう。顔色が悪いね、早起きの原因はそれかな」
革の手袋から抜き出された指が、そっと眦に触れる。太い親指が目尻から目頭を撫で上げ、リラは息をのむ。天然のたらしは朝から絶好調のようだ。
「……ゆ、め見が悪くて、ですね。寝直したら終わると思って、目を覚ましに……来たんです。ほら、目ぇ覚めますでしょう、水辺って」
嘘だ。本当はジークが鍛錬しているのを知っていた。けれど面と向かって会いに来たと告げる勇気は一つもなく、リラは苦し紛れに誤魔化すほかない。
夢の彼女の感情に、あまりにも引っ張られすぎている。愛しくて狂おしいあの感情はひとりでは受け止め切れなかった。冷たくなる骸を見た恐怖が、水のように纏わりついて手足を冷たくさせる。だから、愛おしい彼の顔を見て、その指に触れて、声を聴いて。――そうすることで、安心を得たかった。
どぎまぎとした態度に気付いたのか、または興味がないのか。ジークはリラの頭をそっと撫でる。
「いい選択だ。俺は朝から顔が見れてうれしいよ」
……。この爽やかにたらしなところが、リラの心を掻き乱すのだ。
「……わたしも。なんだか少し、ホッとしました」
頭上の手のひらから伝わる温度は、リラに安心を与えてくれる。それは人より少し大きくて、少し高めの体温で。その温かさに泣きそうなほど安堵してしまう。
石の床の上、冷たい身体。色を映さない瞳。知らないはずの誰かの死が、どうにもリラの心を削る。そのすべてを塗り替えるように、甘えるようにジークの温度を確かめた。
アイル。知らない誰か。夕焼けの瞳の女が愛した男。
その死に向けられたおぞましい負の感情は、リラの心の裏側に静かに住み着いた。
またしばらく書けた分を予約投稿していきます。よろしくお願いします。




