第2話:『出社、したくないのに付いてくる』
昨夜の「公園菓子盆事件」から一夜明け。
一ノ瀬茜の2LDKは、微かに甘い香りが残る異空間と化していた。
「……夢じゃなかった。マジか」
鏡を見ると、リエルのチートで「書き換えられた」肌は、高級エステに一年通い詰めたかのようにツヤツヤだ。しかし、茜の胃はストレスでキリキリと痛む。
玄関でパンプスを履こうとした茜の横で、水色髪のリエルが当然のように自分の靴を履いていた。
「よし、茜! 準備完了だね。リエルも一緒にその『かいしゃ』ってところに行くよ!」
「行くわけないでしょ! いい、リエル。私は今から『戦場』に行くの。子供がピクニック気分で来ていい場所じゃないの!」
茜は必死でリエルを部屋に押し込めようとした。しかし、リエルはニカッと笑って指を鳴らした。
「だいじょうぶ! リエル、だれにも見えなくしたよ。あと、茜の『つかれ』も全部消してあげる!」
パチン、と乾いた音が響く。
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【SYSTEM LOG】
対象:一ノ瀬茜
状態異常:【倦怠感】【睡眠不足】【精神的疲労】を消去
追加バフ:【認識阻害(リエル限定)】
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「……リエル? どこ?」
「ここだよー! おてて、つないで!」
何もない空間から声がする。触れると、確かにそこにリエルの小さな手がある。
この子を一人にするリスクと、連れて行くリスク。
コンサル脳がはじき出した答えは「目の届く場所に置く」だった。
「……いい? 絶対、何も触っちゃダメ。喋っちゃダメ。空気のフリをして」
「わかったー! リエル、窒素になる!」
……窒素の意味、知ってるのかな。
不安を抱えたまま、茜は地獄のオフィスへと足を踏み入れなければならなかった。
*
大手外資系コンサル、オフィスフロア。
静まり返ったフロアに、無機質なタイピング音だけが響く。
茜がデスクに座ると、隣の空間から「へぇー、ここが戦場かぁ」と楽しげな小声が聞こえ、茜は心臓が止まりそうになる。
そこへ、フロアの空気を凍らせる足音と共に「彼」が現れた。
茜の直属の上司、通称『氷の処刑人』こと佐久間マネージャーだ。
「一ノ瀬君。昨日の修正案、まさかまだ出していないのかね?」
「あ、はい! 今、最終チェックを――」
「遅い。君の時給はいくらだと思っている? その給料に見合う価値を、一秒でも早くアウトプットしたまえ。……プロならね」
佐久間が茜のパソコン画面を覗き込み、冷徹にキーボードを叩く。
その時、茜の隣で「窒素のフリ」をしていたリエルの空気が一変した。
(この人、茜をいじめてる……! めっ、だよ!)
「あ、リエル、ダメ――」
茜の制止は間に合わなかった。リエルが透明な手のまま、佐久間の背中を「ぽん」と叩く。
【性格改竄:強制ポジティブ】発動。
「……一ノ瀬君」
佐久間の声が、突然、聖母のような慈愛に満ちたトーンに変わった。
「君のこの資料、……なんて素晴らしいんだ! まるで宇宙の真理を映し出す鏡のようだ! ああ、君を急かしてしまった私を許してくれ。今すぐ有給を取って、ハワイにでも行ってきなさい。経費で! 私の自腹でもいい!」
フロア全員の手が止まる。
「マネージャー!? 急にどうしたんですか!?」
さらにリエルは止まらない。
茜が「今週中に終われば奇跡」と嘆いていた膨大な未処理データを、指先一つで【完全自動解析&超美麗スライド化】。
「できたよ、茜! これでゆっくり遊べるね!」
何もない空間から、神の如き整合性を持ったスライドが次々とプリントアウトされ、オフィスを舞う。
「一ノ瀬君! 私は君を愛しているぞ(部下として)! さあ、一緒にダンスを踊ろう!」
「落ち着いてくださいマネージャー! 誰か、救急車! いや、除霊師を!!」
周囲の同僚たちは「一ノ瀬が上司に呪いをかけた」と言わんばかりの恐怖に満ちた視線を送っている。
茜は、透明なリエルを抱きかかえるようにして(周囲からは虚空をハグする変質者に見える)、給湯室に駆け込んだ。
「リエル! お願い、マネージャーを元に戻して! あとスライドも消して! 人間の仕事じゃないわ!」
「えー? せっかく作ったのに。わかったー、もとに戻すね!」
リエルが指を鳴らす。
次の瞬間、オフィスから「……はっ!? 私は……何を……?」という佐久間の正気に戻った声が響いた。
同時に、舞っていたスライドは、すべてただの真っ白な紙束へと書き換えられた。
「……一ノ瀬君。私は今、何をしていた……?」
青ざめた顔で戻ってきた上司に、茜は引き攣った笑顔で言い放った。
「マネージャー、極度の寝不足による『一時的なトランス状態』ですよ。お疲れなんです。……この資料(真っ白な紙)も、精神的なデトックスの産物です。今日は早退して休んでください」
「そう……か。……すまない、今日は失礼させてもらう」
フラフラと去っていく上司を見送り、茜はデスクに突っ伏した。
本来なら数日かかる仕事をリエルが一瞬で「解決」してしまったせいで、茜の手元には、リエルの能力の残滓である「あまりに整合性が取れすぎている異常なデータ」だけが残った。
*
深夜。ようやくリエルを連れて帰り着いた茜は、玄関で力尽きた。
「リエル……。明日からは、マジで……何もしないで……」
「はーい! 茜がお仕事しなくていいように、リエル、もっとがんばるね!」
「頑張らなくていいからぁぁ!!」
茜は、高給取りの証である高級ソファに倒れ込んだ。
明日の仕事は、リエルが作った「完璧すぎるデータ」を、わざと「人間がミスしそうなレベル」まで劣化させて作り直す作業から始まる。
これこそが、最強幼女を拾った社畜の、本当の地獄の始まりだった。
「……はぁ。お風呂入って寝よ……」
茜がフラフラと浴室へ向かおうとした、その時。
リビングの窓際、月の光が差し込む場所に、昨日まではいなかった「影」が座っていた。
銀色の髪。どこか虚空を見つめるような、虚ろな瞳。
ダボダボのパーカーのフードを深く被った、脱力系の幼女がそこにいた。
「……知らない人、こわい。……でも、ここは、温かい……?」
後に、茜の胃をさらなる絶望で焼き尽くすことになる二人目の最強幼女――ミクとの遭遇であった。
そして茜の2LDKは、いよいよキャパシティの限界を迎えようとしていた。
著者あとがき
お読みいただきありがとうございます!
「認識阻害」で透明になったはずのリエルですが、やってることは透明どころか派手すぎましたね……。
そしてラスト、二人目の幼女・ミクが登場です。




