閑話:心像のカタチ
荷に忍ばせたのは幾つかの手紙。
その存在を知るのは、身の回りを任せる爺だけである。
日中、持ち込んだ先で開かれる事の無かった文。
それは特段構わなかった。
内容は全て自分も、彼女も分かっているものだから。
なのに何故態々持って来させたのかと言えば、思いつきで他ならない。
衝動とも言える程、ふと意識に昇った考え。
(そうか、彼女に会えるのなら実際に手紙を読んでもらうのも、良い)
送られてくる他愛もない婚約者からの文。
内容は事業の進捗だけでなく、穏やかな暮らしの様相。
文字が見えない私に代わって読む爺ですら、少し笑ってしまう程の話題が記されている事もあるのがなんとも彼女らしい。
時折、爺が虚構を語っているのではないかと疑う時すらある。
でもきっと彼女が同じ内容を口にすればそれは事実だ。
記憶力だけは人一倍あると自負している。
「……………」
夜の静寂が包む時になって、そんな自分を思い返し嘲笑う。
周囲の人間を信頼していない訳じゃない。
足りない自分の眼として動いてくれる爺には助けられてばかりだ。
幼馴染達も、冗談を交えながらも真摯な言葉を届けてくれる。
当然のように婚約者の言葉へ陰りを感じる事もなかった。
ただ、彼女の声で語られる日常を、平穏な幸福を、己が聞きたかっただけだ。
リーシャ嬢の声音は心地良い。
高すぎず、だが子どもらしい愛らしさをたっぷり含んだ声。
語り口はそれに似合わず落ち着いていて、でも感情も燈る感触があって。
爺が手紙を代読する度に、彼女の声で語られたらさぞかしと幾度も思った。
久々に聞いた彼女の笑い声。
嬉しそうに語る音の心地良さは、一年会わずに居ただけで余程自分の記憶が褪せていた事を思い知らせてくれるほどだ。
(声は思いの外、記憶に残らないようだ)
そんな事を話しながら考えていたのを、きっと誰も気付かなかっただろう。
恐らくリーシャ嬢も。
どれ程私が耳を澄ませ彼女の声を、心に、脳に、骨に、刻み込もうと意識を張り巡らせていたなど。
結局手紙を彼女の声で読んでもらう事は願えなかった。
何となく、その気が起きなくなってしまった。
(恋をするとその人に触れたくなる、それはよく聞く)
唇を重ねる事がどれほどの意味を持つかも。
だがその情動に共感は出来ない自分は、正しく成長していると言えるのか。
(まだ十歳にも満たない子どもだ…いや、アイツが希ったのは八歳か)
己の年齢を顧みて当然と思う傍らでクロヴィスがリーシャにキスをせがんだのは、恐らく会話から前回の視察の時だろうと察するのは容易い。
己と同じ年頃で、随分ませた事をするものだ。
(…それが正常な情動なのだろうか)
リーシャ嬢もリーシャ嬢で平然とした声音をしていた。
だがそれに、周囲が驚いていたのを思い出して少しばかり胸を撫で下ろす。
柄でも無く衆目に埋もれてこその安堵を覚えた。
何方も早熟な人間なのだと思えば己の至らなさから目を逸らせた。
(キス)
僅かに自分の唇が蠢く。
意識が、どうしたってそこに向いた。
訳も無く薄く開いては閉じたそれが、誰かと重なる瞬間を思う。
だが自分にとってはただ柔らかな皮膚に覆われた部位だ。
普段では全く気にしないのに、ちょっとの汚れが付くだけでも分かるような繊細さを伴うのは頭部という生物における急所であるからだろう。
急所と急所を重ねる。
字面にすれば成程、何処か淫靡に思えた。
(私が…その温もりも形も知れるのは…彼女では無い)
目が見えない。
それが今になって不具合に感じる。
生来そうであったから、然程不便さは抱いた事は無かったのに。
杖で進行先は確認出来るし信頼する人間の言葉に耳を傾ける知能もある。
自室の物の位置に似たように、この別荘も同様の配置をするくらいの配慮もされているのは、己の生まれがあってこそだが周囲の優しさによるものでもあろう。
不満も不足も無い。
在る人から見ればこの身は不憫この上ないそうだが、生憎そういう感情を抱かずに育ってきた程に幸福で充足に囲われた人生である。
仕える先の人間も人徳厚く、時に苦労もあるが尽くし甲斐も同様。
だからそんな人生におけるちょっとした、日常の中の不満だろう。
結局言葉にすればそれは周囲の人に改善されてゆくような。
それでも口に出し辛い事であるのが、己を振り返ると不思議でならない。
「…閨指南を先延ばしにしたい、と」
「気が乗らなくてな」
王都に帰って間も無くして爺に零したが、相手の反応が思ったものでは無かったからだろうか、己の心音がやたらと大きく鼓膜を震わせていた。
唇が、咥内が渇きを覚え、用意された茶を口に運ぶ。
「畏まりました」
「すまんな」
「いいえ、ですが社交に御出になるまで時間も多くはありませんよ」
「…そうだな」
閨指南の座学はヴィーと一緒に王宮で受けている。
流石に実技は、と早くも兆しを見せた彼には断られたが。
可能であればまとめて受けてしまえればこうも然程気にしなかっただろう。
爺が退室した後に一人、背凭れに身を預けて額を摩る。
己の手が己の形を象り、そこに自分が在る事を、どんな形なのかを教えてくれる。
(不便だ)
触れなければ形が分からない。
触れても、見た事の無いのだ正確な形は分からない。
己の顔の形も、父親が嫌悪する揃いの瞳の色も、幼馴染達の形姿も。
まぁとりあえずイザイエの容貌はかなり整っているとは知っているが、そもそも美しさの基準すら薄ぼんやりとした知識でしか知らない。
そもそも「美しい」とはなんだ。
辞書にだって、愛らしいだの、良くて立派だのとしか記されていない。
人の心を動かす程の感動を与えるものであるらしいのは確かだが、生憎自身がそれを感じる事は稀なので美しいと口にすれども本音からかと問われれば曖昧に笑う事しか出来ないだろう。
それでも、もし「美しい」と称するなら彼女の声音は、それだ。
愛らしくてずっと聞いていたくなる。
ふと漏らした「嬉しい」の一言にどれほど心を揺さぶられた事か。
(不便だ)
折角同じ場で、同じ部屋で、言葉を交わせたのに、己が持ち込んだ彼女からの手紙を読んでもらう事は叶わず、そして再びそれを願うには余りにも身体は離れた場にある。
どうして近くに居ないのだろう。
それこそ、幼馴染達のように近くに居てくれれば明日にでも訪ねられたのに。
(…不便だ)
あれだけ意識を傾けて覚えた彼女の声を思い出そうとしても既に朧気だ。
聞けば、すぐに彼女だと分かる自信はあるのに。
何故声は文のように残しておけないのか。
手紙だってそうだ。
文字を読めない自分は誰かに代読してもらう他ない。
一人で、思い返したいと願って気儘に読む事も出来やしない。
覚えている内容を反芻するだけでは、何かが足りない。
人の気配が、声が、香りが。
未だ知らぬ彼女という形から発せられる何かが。
閨指南を断ったのは正しく気分になれないからだ。
初めて知る異性の形が、脳裏で象る、己とは別の命の形がそんな相手だなんて。
(願い、叶うなら…彼女が良い)
深い嘆息が零れ、反射的に瞼に力を籠めた。
視界は何も変わらぬままであるのに、それに何の意味があっただろう。
だが、不便な眼が確かに己にもあるのだと理解出来た。
何も映し出さない飾りのガラス玉。
虚像でも、彼女が象られ映し出されるのならそれも良い。
いや、それを望むのだと心は求めた。
(だがそれは望んでも叶わない)
もう、彼女との仮初の婚約は残すところ一年を切っていた。
喩え継続的な婚約だろうと、閨指南相手に婚約者を望むなど。
そんな馬鹿な話は聞いた事も無い、荒唐無稽だ。
(キスを求める訳じゃない、ただ触れて…その形を、知りたいだけで)
指先で彼女の髪を、耳を、目を、鼻筋を辿り。
掌で頬を、首筋を、肩から腕を、あの小さな爪が据わる指先を。
知らぬ体躯を、肌を、足先を、余すことなく、正しく彼女を描けるように。
(…唇を)
美しい声を発するのは喉だと分かっているのに、生唾を嚥下した。
ごくりと、体内に響き渡るその浅ましさ。
指先や掌の方が余程その形も温もりをも理解出来るであろうに、敢えてそうするこの情動こそが鬱勃と呼ぶに相応しいのだろう。
燃え燻ぶるそれを宥め賺すように胸を撫でた。
熱は形を伴わず、ゆらゆらと嘲笑うように纏まっては散る。
永遠に、それは掴めない姿。




