42:十六歳の宵闇
夜警をする場合、主人が夕食を摂る頃に侍従は仮眠をとる為に私室へ下がる事を許される。
といっても夜警担当となる1名だけで、勿論今もアロイーズの傍にはオスカーが付く。
他にもタウンハウスで働く多くの人間が未だに働き回る気配が残る時間だ。
前世と違ってまだ夕陽の色合いが空に残る早い時間に夕餉は始まる。
昼夜問わず明るい前世からするとまだまだこれから、という時間帯ではあるが、それこそ屋敷内の灯りの関係だ。
加え、意外にもヴュルテンベルク辺境伯家のタウンハウスは通いの使用人が多い。
彼等が家路につく頃合いを考えるとどうしたって時間帯は早目になるものだ。
ここできちんと使用人の事を考慮出来る家人なのが流石というか。
辺境伯領地の城とは違うタイムスケジュールとなろうと、我が主もその妹君も文句一つ零さず当然の顔で動けるのだから頭が下がる。
だからこそヴュルテンベルク辺境伯家での仕事募集倍率は高いようだ。
採用担当を担う家令長が、誇らしげに草臥れた顔で笑って語っていたのは記憶に新しい。
と、言っても大体馴染みの斡旋業者から派遣される者が殆どではあるが。
そんな事を思い返しながら私は備え付けのクローゼットを開くとその床板を外した。
隙間に押し込んでいる袋を引き摺り出し、中から長い赤茶髪を掴んだ。
服は既に着替えてある。
配給されたとはいえ、質の悪く毛羽立った繊維生地の足首まであるワンピースだ。
クローゼットの扉に打ち付けた歪みの多い鏡を見ながら、鬘を被り軽く結い整える。
化粧はほどほどに。あまり派手ではいけない。
眉はぼさぼさと書き足し、目元のファンデーションを布で拭き取れば自前の隅が浮き出る。
うん、相変わらずとても屋敷の上職についている人間の顔じゃないな。
斑を目立たせる濃い目のコンシーラーを手元や眉間に塗り、余りは歯に塗る。
独特の味わいは嫌いじゃない。
水差しから注いだ水を口に含みながら不自然にならないよう咥内を汚す。
吐き出すべきなのだろうが、私は気にしないのでその水も飲み干す。
これをやると意外とグルメなレオさんは物凄く嫌そうな顔をするのだ。
『そんなところまでピピに似なくていい』とも零していたのでそういう事である。
椅子の上に無造作に置かれた布袋を手に取り、靴底を繰り抜いてわざと低く見える靴に履き替えて部屋を足早に出て裏口へ向かう。
まだ馬車の出立まで時間はあるが、先便に乗れるのなら乗ってしまいたい。
使用人用の階段を駆け下りる度に翻る長い裾から、春夜の兆しを含んだ冷気が忍び寄る。
まだ中に着込んでいても違和感は無かったなと思うが部屋に戻る気にもなれず、私はそのまま街へ戻る使用人達でごったがえす待合室への扉を開く。
「あ、リラ!」
「や」
見知った顔が声を掛けてくれたので小走りで彼女の傍に向かう。
彼女はいそいそと身を捩らせ、自身の傍に空間を作り出してくれた。
壁際で二人して見を寄せ合い何方ともなく笑みを浮かべた。
「リラも今日出勤だったんだ」
「ルアナこそ。朝見なかったからお休みかと思った」
「それはこっちの台詞ー!今日こそリラと同じ場所で仕事出来るかなって思ったのに」
「ここまで徹底的に仕事被らないのって凄いよね。ルアナ何したの?」
「何でアタシがしでかした流れなの?!」
「大丈夫…?上に目ぇ付けられてるとかない?」
「超かわいがってもらってるし!」
「物理的に?」
「ちーがーうー!」
主家の嫡男様達がこのタウンハウスに到着したのは約二週間前だ。
と、言ってもその事前調査をする為に私や諜報員の人間は何度も王都に来ていた。
その一環、邸内調査を担当していた私は使用人に紛れて出入りをしていたその名残がこれである。
ルアナ達を始め使用人は研修を兼ねてタウンハウスが実働するよりも前から勤めており、その中に紛れ込んでいた頃に人懐っこい彼女と仲良くなったのだ。
時間にすれば一か月以上同じ職場に勤めている仲間であるのに、殆ど職場で見かけないのをそこまで気にしていないルアナの無頓着さがなんとも微笑ましい。
私だったらすぐに訝しんでしまうのになぁ。
これが私の無くした純真ってやつか、と懐かしい気持ちになる。
「もっとリラと話したいのになぁー。
ね、次の休みって何時?一緒に出掛けようよ」
「あ、いいねぇ。最近出来た雑貨屋行きたかったんだよね」
「見るだけ?」
「見るだけ」
掻い摘んでルアナに話してある、家計が苦しいという偽装設定を覚えていたのか彼女が揶揄うように声を潜めてそんな事を言い、当然のように返す私の言葉をさも愉快だと笑ってくれる。
卑屈な笑いじゃない。
ただ、それも面白そうだと、純粋に楽しんでくれる笑顔だ。
こうした笑顔を傍らで見るのは久し振りだ。
癒される。
「じゃあ私も気になっていた服屋に連れてくね!」
「見るだけだねぇ」
「そうよ、見るだけ!」
笑いあっている内に順番が来て、二人して同じ行先の馬車に乗り込む。
待合室よりもずっと人が密集して押し込まれた馬車の片隅で、まだ話足りないルアナは元気に小声で私に語り掛け続ける。
朝から働いていたとは思えないパワフルさだ。
「その服屋のね、刺繍がすごい綺麗なの。
勿論刺繍だけじゃなくてレースもすごいんだけどね」
「貴族様向けの店じゃん」
「そー、でも富裕層向けの店舗はアタシたちでも入れるよ」
「高見えする服引っ張り出さないと…でもそんなのあるかな」
「アハハッ店に行く服を買わないといけないやつー」
きゃいきゃいと年頃の街娘らしい会話をしていた筈なのに、ちょっと目を離した隙に彼女はことりと眠ってしまった。
肩に乗る頭の重みと体温が心地いい。
馨るのは労働者が使うような安い整髪料と汗や皮脂の匂い。
微かに青臭いのは庭で仕事でもしていたからなのか。
ちらりと膝の上、振動で揺れるルアナの指先に視線を落とす。
爪の先には落としきれていない土が入り、草で切ったのかところどころに軟膏を塗ったような跡が見受けられた。
ガラガラと揺れる馬車の中で思い馳せる、選ばなかった暮らし。
城に残らずに街で暮らす道もあっただろう。
きっと相変わらず表情筋は死んだままだろうけれど、今よりも他人が身近にあれば満たされるものがそこにはあったと思う。
ルアナに見せたような、顔の動かし方を覚えて作った笑みを浮かべる必要もなく。
少女らしさをと無理に上擦った声を出す滑稽な自分に嫌気を抱くでもなく。
ありのままで、その日その日を重ねていく暮らしが。
(…今も、そう変わらないか)
何がしたいのか明確な目標が無いのは、昔も今も同じ。
何処で暮らそうと、喪った家族達以上の幸福はこの世に無い。
荒んで、僻んだ陰気な笑いが零れども、きっと私の表情は変わらないし、その微かな振動も嘲笑も車輪の音が掻き消してくれるから未だにルアナは夢の中だ。
夜を報せる教会の鐘が鳴り響く。
そろそろ斡旋所に着く頃合いだ。
彼女を起こさなければならない。
分かってはいるのに、結局彼女を起こしたのは馬車の扉が開いてからだった。
(ルアナに結局休みの日程を聞かれなかったな)
そんな事を考えながら私はまた服を着替えていた。
王都のこの斡旋所は、ヴュルテンベルク辺境伯家の諜報員達の詰め所でもある。
家路に向かうルアナを見送ると、話があるからと呼び止められた振りをして上階へ上がり、使用人風の装いをした同僚から情報を仕入れつつ手を動かす。
「三年もあれば手法は変わってるよ…にしてもどうしてまた」
「ご子息達が王都に居るんだ、念には念をだよ」
「無駄な時間なんぞありゃしないよ、アタシ達にゃ」
「無駄にならんように捏造でもするかぁ」
「ばーか」
闊達に笑いながら、当時調べ上げていた公爵家の伝令手法を改めて確認をする。
その間も私は引け髭を調整したり腕や手に傷を書き足したりと忙しない。
今度は背を高く見せるように厚めのブーツに履き替える。
臭いが強烈なクローゼットの中から男物の帽子を手に取り、この時間帯に帽子は合わないかと考え込んでいたら姉御肌な同僚が、臭いから早く閉めろと急かす。
帽子は被らない代わりに、薄汚れた癖のある金髪に油や埃を纏わせ麻紐で括る。
首元をぼろぼろの布でちょっとおしゃれに飾り立てれば、日雇い銭で酒と女を楽しみに夜街へ出て来たいかにもうだつの上がら無い小男の出来上がりである。
「煙草は?」
「ん、くれんの?」
同僚が懐から取り出したのは上級階級の人間が吸うような立派な品ではない。
古ぼけ擦り切れた紙に包まれた、やっすい、煙草を模したものだ。
だがその特徴ある香りこそが仕上げとなるのを、彼女は良く分かっている。
無言で渡された煙草を加えれば、どこかの嬢よろしく火を差し出されてくれる。
この煙草の味はあまり好きではない。
それが顔に出る訳でもないが、彼女は感じ取ったのだろうか苦笑を零す。
「アンタ、それ他の女にやらない方が良いよ」
「どれ」
「それ」
二、三、吸っては吐き出し、部屋の中に煙が残す筋を見送っていれば姉御が眼前に立ち、唇を押し付けてきた。
「紅付いた」
「血色良くなったじゃん」
「不健康がウリなんだよ」
「っふ、そだね」
まさにそれにまんまと釣られたと言わんばかりに彼女は笑う。
窓の淵で揉み消した煙草の、頼りない側面で口紅を拭っては歪んだ鏡で顔を確かめた。
はぁー、ほんとこういうの何度目だ。
諜報員の女性って草臥れた男好きなのが多く無いか。
緊張しなくていいから、『男に着替えを見られる趣味はない』と最初にオーダーしたのがいけなかったのだろうかと思えども後の祭りだ。
それとも立地的にハニトラ要員が多いのか。
おーいレオさんこの人に仕事回してー。
「終わりは?」
「あると思う?」
「そだねぇ」
帰りは違うところで着替えようと心に決め、煙草と情報の礼だとばかりに軽く肩を叩き、小銭を渡す。
が、彼女は渋い顔をしたかと思えば唇を突き出してくるから相当暇しているようだ。
マジでレオさんに言いつけますからね、姉御。
まぁ確かに私は元が元だからか中性的で線も細めだ。
地方より王都ではそういう男がモテるとも聞いてはいる。
男物の服を着てそれなりにしていても、日雇いでがっつり稼いだ脂の乗った男のような物々しさはどうしたって出ないのは仕方ないことだと諦めてはいるのだが。
養いたくなるような愛嬌も無い筈なのに、人の感性とは謎である。
こうした諜報活動中の恰好をオリアーヌ達には見せたことは無いが、見せたら見せたで面白い批評が聞けそうでもある。
いや見せないが。
あ、でもしつこい侍女には見せれば幻滅してくれるだろうか。
本当皆さま、太陽の如く主が美しすぎるからか日陰系への食指が凄い。
オスカーも何だかんだ言って顔整ってるしなぁ。
などとつらつら考えながら斡旋所を後にし、遅くまで開いている店に閉店ギリギリ滑り込んでは、安売りのパンを数個買い込む。
柔らかいパンが残っていた今日は当たり日だ。
嬉しくて思わず会計の息子さんに話し掛けてしまった。
向こうは向こうで、陰気な小男が急に話し掛けてくるもんだから驚いてはいたが。
「ホラ、王太子の御成婚が来年だろ?だから赤ん坊が多くてな」
「今の赤ん坊は母乳でなくてパンを食べるのか」
「母親の方だって」
ほー、まぁ硬いパンよりも柔らかいパンの方が食が進むね。
日持ちはしないがそれでも買い求めようとする人の為に多めに焼いているそうだ。
余りがこれだけしかないのならまぁ店としても良い方か。
「じゃあ俺も奥さんのために買うから値引きしてくれよ」
「はぁー兄ちゃん、見かけによらず押しが強いな」
「普段から人の尻押し返してるからかな」
「尻にされてるってか?はは、そりゃ同情価格にせざるを得ないね」
言ってみるもんだ、やったー見切り品が更に値引きされたぞ。
タダにはならないのだからこのお兄ちゃんも中々である。
いいね、応援しちゃう。
「なら俺も兄ちゃん応援しなくちゃな」
「お、まいどありー」
レジ脇にあったラスクを会計に足す。
結果、最初より支払い額が高くなったがまぁそういうもんだろう。
商売上手の方が一枚上手だった。
酒場でのツマミの一品は誰かに奢らせよう。
気持ちよい挨拶を背中に受けながら、人通りの少なくなった商店街を歩いていく。
もうこの時間は流石に女性の一人歩きも見かけない。
それこそ肉体労働から開放された男達が、豪快な笑い声を上げながら灯りを零す店に吸い込まれるように入っていく姿があちらこちらに見える。
大通りを抜けても、王都の名所の一つでもある大聖堂の尖塔は私を見下ろしている。
高台にある城よりも平民からしたらどこからでも見える大聖堂の方が身近ではあるのだろう。
小さい子は、迷子になったらあの塔を目指しなさいと教えられるらしい。
ゆくゆくは、大聖堂前の大広場へ道が繋がっているからだ。
幾つかの区画を抜け、そんな大聖堂とは比べるまでもない小さな小さな教会脇の階段を降りる。
すぐ脇には大通りが走るからか人の気配はまだそう遠くない。
階段を下れば少し開けた石畳が広がり、その回廊はぐるりと教会を取り囲んでいる。
細い、か細い月明かりに似た聖句が聞こえる。
私は足元に幾つか並んだ細い窓を見下ろし、布袋からパンを取り出しその隙間に押し込む。
丸々としたパンは細い隙間に挟まったままだがやがてスポンと音でも立てるように暗闇の中に吸い込まれていく。
教会の下、地下の細い独房には女達がいる。
現世を謳歌することを自ら止め、人々の代わりに聖句を唱え祈り続ける女達だ。
厳かな祈りの間で信者達から縋られ、求められて祈りを与える神職者とは別物である。
彼女達はこうして、誰かの気まぐれな施しを受けるだけ。
それでも見知らぬ誰かのために祈り続ける。
「『女神ロテュスに祝福を、貴女達の祈りに感謝を』」
「――月明かりを遮る不遜な見知らぬ貴方。
それでも私達は祈りましょう、貴方にも女神ロテュスの祝福がありますように」
「キミの祝福は右隣りに無いのか?」
「いいえ、いいえ。
今やこの細い合間から差し込むだけになろうとも、日も、月も私を打つ事はありません。
それは全て女神ロテュスが御守りくださるからです」
振り返れば、大聖堂の尖塔が春霞の月夜に浮かんで聳える。
地下から見上げるときっともっと、巨大に見えるのだろう。
「そうか、安らかであれ」
「貴方にもどうか愛し子の如く祝福を」
硬いパンを小腹を満たす為に頬張りながら踵を返し、大通りを何ともなしに歩き続ける。
視線はうろと、厚化粧の女の腰を抱き大声で笑う男や、薄影で襤褸を手繰り寄せる物乞いを捉えては離すを繰り返す。
意識は背後、やや離れた場所。
歩幅から推測するに私より背が高い、男か。
偶然を装い先程擂り潰した煙草と日当が記された紙をポケットから落とす。
後ろの男はそれを拾わない。
ハズレか。
代わりに物乞いが吸い殻に喜んで飛びついていた。
巻きなおすのに、丁度いい紙も手に入った事だし、良かったね。
ラスクだけになった紙袋をぐしゃりと潰してポケットに押し込むとほぼ同時に、行きつけの騒がしい酒場の扉を押し開く。
むわり、という表現が相応しい酒と、料理の油と、労働者の匂いが入り混じった独特の空気が喧噪と共に入り口から漏れるのを妨げるように早々に扉を閉じた。
「いらっしゃい!」
看板娘、と評するには薹が立った化粧の濃い女性の笑顔を往なしながら、カウンター席へと足を向ける私の肩を肉厚な手が抑えては引き寄せた。
「よぉ!ジャンノじゃねーか!飲み代溜まったか!」
「酒の匂いを嗅ぎに来たんだよ」
「かー!相変わらずだな!しゃーねぇホラ来いよ、一杯くらいは奢ってやらぁ」
「一杯だけ?」
「るせぇ、他に集れ」
ガハハと豪快に笑いながらばしばし背中を叩かれ、席に着く。
そこには既に出来上がった屈強な男達がジョッキを片手にしており、久々に顔を出した男に飲めよ喰えよと卓上の皿を差し出してくれる。
乾き物のナッツの殻を割り終わる頃には傍らにドンとジョッキが供される。
「ん」
「で、どうだ最近は」
「どーもこーも、変わらず。そっちは?」
「ああ?あー、やっぱ西の方が稼ぎが多いが長期の仕事が多いぞ」
「行ってんのか」
「行くわきゃねーだろ!女の質がちげぇ」
「ドニはお高く留まった女が好きだからな!」
此処での会話など、専らどこの働き口が稼げるか、どの地域の女が良いか、そんな話ばかりだ。
王都の下町で生まれ育った彼等は時に遠方へ稼ぎにも出るが、やはり育った土地の水が合うのかこうして戻って来てはあの街はどうだ、上の貴族様がどうだのボヤキながら酒を煽る。
「ドニはなー、そのツラでお預けが好きだからな」
「んだよ変態みたいな言い方すんなや」
「ケヴィンのおぼこ食いよりは理解が出来るよ」
「おい聞き捨てなんねーなぁジャンノ!」
「お前さん、東の方で相当遊んでんだってな?」
「げ」
「ハッハー!マジか!?おいケヴィン狩場変えたのか!」
別の酒場で聞いた話をちょっと投げてみればこの反応である。
いや、そもそも彼の話だとは断定できない噂話だったが思い当たる節があるのか。
へーやだー軽蔑するー。
「ちげぇ、ちげえよって!確かにちっと前まで東で仕事してたけどよぉ」
「やっぱおめーじゃねぇーか」
「そんなに稼ぎの良い仕事でも無かったんだよ!毎晩買える程じゃねぇよ!」
「だから宿屋の娘に」
「とっかえひっかえ」
「ひでぇ男だ」
「短小の癖に」
「おめぇら!!」
東の農村地帯がわざわざ王都まで人材を応募する仕事を出していたのは知っていた。
というのも、地域の男手が東の国境沿い警備に人を採られているからだ。
寧ろ警備に当てる人間を王都から派遣すれば良いものを、長期運営を視野に入れているのか住民を多めに採用しているというのだからこうもなろう。
かといって財源が農村にしっかりある訳でもなく、人流もまばら。
荷運びに女性や高齢の男の姿がちらつくようになったのもこれが原因だろう。
今の東の防衛は先代とのお家騒動のいざこざがあった家だ。
若い当主の代替わりと共に台頭してきたとも耳にした気がする。
転換期はどうしたって皺が生じやすいところだがあまり良い兆候ではない。
「で、何人?」
「は」
「それともこっち連れて来たのか」
「んな甲斐性コイツにあるかよ」
「お前ら好き勝手言いやがって…」
「お前が無下にした女の子へ悔い改めるまで俺は酒を頼むぞ」
そう言い終わる前に私は酒の追加を頼む。
ついでにツマミも頼んでしまおう、肉詰め食べたかったんだよねー。
「おおそうだな、その額が贖罪への布施だ」
「俺も俺も」
そう乗ってくれると信じていたので、看板娘が満面の笑みで両手に持てる限りのジョッキを運んで来たのだからケヴィンの顔色もすぐに変わった。
残念だったな、初動の速さは師匠にもお褒め頂いているのだ。
早々に降参した男は項垂れながら、ちびちび新しいジョッキに口を付けていた。
いやぁ人の金で飲む酒は美味い。
ケヴィンは顔立ちはそこそこスッキリしつつ優しいからな、田舎娘はころっと落ちる。
才能と外見、そしてそこに悪趣味が噛み合った結果が彼だとするならこれはもう、不幸というより奇跡に近いのだろう。
一時の甘い夢をどう思うかは彼女達にしか分からないが、一年後に顔出しに行くと良い。
面白そうだから私だけでもこっそり見に行きたい。
いやぁー、東は王都より避妊が疎かな上に意外と強かだぞ。
遊ばれたのは果たして彼の方だったかもしれない。
後は西の物価が少し上がった話や、北は未だガラスペンの売れ行きはあるが徐々に落ちてきているとの話も聞けた。
この酒場に集まる男達の多くは行商人の荷運びや護衛を務める者が多い。
そこに陰険な顔をした自分が居るのはまぁ浮くのだが、商店の奥でそろばんを叩くような男は得てして皆このような男ばかりだ。
実際、ドニとの縁は紛れ込んだ行商隊で私が経理仕事をしていた時だった。
ケヴィンの性癖の話に引っ張られたのかどいつもこいつも、どの女が良かったのか己の武勇伝を語り出すのを片手間に聞いていたがツマミのナッツが無くなったのでと帰る事にする。
今後の彼の養育費に同情しながら、ジョッキ一杯分だけの小銭を握らせた。
「これだけかよ」
「ご祝儀は弾むよ」
「やめろ!」
「ごっそさん」
他の飲み仲間に宥められる彼を尻目に出口へと向かう際、擦れ違う人と肩がぶつかる。
狭い店内ではよくある事だ。
軽く手を挙げ、互いに目も合わせずその場を去る。
思ったよりも長居をしていたようだ。
店を出ればぐっと夜の空気は色濃く、冷たくなっていた。
私は足早に、より人通りの少なくなった道を猫背で進んでいく。
まだまだ他の店からは飲み騒ぐ笑い声が聞こえる道は、なんとなく好きだ。
何気ない平穏や日常がすぐ傍で私を気に留めずに織りなされていく感覚。
(…焦っているのかな)
あまり、今までは抱かなかった感傷が今日は随分浮かんでくる。
踵に仕込んでいた針金で詰め所の鍵を開き、無人の部屋を手慣れた様子で進む。
衣装箱に片付けてある布をひっつかんでそのまま流しに向かう。
誰かがここで食事を摂った後だろう、洗ったままの食器が拭かれもせずに置きっぱなしになっている。
何となく、それを拭いて戸棚に仕舞ってから鬘を外し、頭から水を被る。
ざぁざぁと流れ落ちてはくるくる回り、吸い込まれていく水の流れを、窓から入る細い月明かりが照らしていた。
手早く布で顔や頭を拭き、そのまま化粧を石鹸で落とす。
食器用じゃない石鹸だと分かっているのに食器をこれで洗うのは、本当無頓着なあの人らしい。
首から濡れた布を下げたまま部屋の奥へと向かい、衣装箱に畳まれた制服に袖を通す。
晒の替えまで入れてくれている。優しい。
有難くここで一度外し、身体を拭き、巻きなおす。
糊の効いた白いシャツ、上質な生地で作られたズボン、ベスト。
背中や袖には普段使いの暗器を仕込み直し、折った襟裏にも差し込むのを忘れない。
石鹸を付けた水で口を漱ぎながら髪を整える。
少し水っぽいが、その内乾くだろう。
歯ブラシで念入りに汚れを取り除き、歪んだ鏡にぼやりと浮かぶ白さを見つめる。
爪の間の汚れは落とせても荒れた指先はすぐには戻らない。
引き出しから軟膏を取り出し塗り込み、厚手の手袋をはめればほぼ仕度は終わりだ。
玄関に立てかけてあった荷と衣装箱を抱え外套を纏って外に出る。
部屋は、戸を閉めれば勝手に鍵がかかる仕組みだ。
この時代にオートロックがあるなんて最初は驚いたが、仕組みはアナログだ。
意外と多いようだ。
いや、この仕事に携わっているから目にするだけか。
数件隣の庭に繋がれている黒毛馬に手綱を回し、荷を括りつけ跨る。
あまり時間的な猶予はない。
ただでさえ遅刻しているので、戻ったら『母ちゃん』が怒っている事だろう。
案の定、屋敷に戻って急いで自室に戻ろうとした矢先、廊下にランプを持ったオスカーが佇んでいた。
恐いわ。お化けかと思ったじゃん。
「オスカーに似たお化けだ」
「誰がお化けだ」
「喋った」
「遅い」
ホラやっぱりー。
『母ちゃん』は門限に厳しいのだ、見事にお冠である。
だがそれも慣れたものなので私は気に留めずに自室に向かい、抱えていた荷を開いた扉からベッドの上へと投げ込んだ。
「おっと」
ぐいと背中を押され、たたらを踏む。
何をするんだ乱暴者めと脱ぎ途中だった外套を相手へと投げ付けた。
「悪かった、悪かったって遅れて」
「謝意が見えない」
「そりゃ外套被ってるからな、オスカー」
剥ぎ取れば良いものを。
外套掛けよろしく突っ立ったままで頭から被っている男の、不満に満ちたくぐもった声しか聞こえない。
肝っ玉母ちゃんは時折こうして、少年のような態度をとる。
夜警の交代が遅れる事など城で勤めていた頃から間々あった事だ。
恐らくそれだけで、これ程拗ねている訳ではないのだろう。
「どした?ついにデボラにしゃぶられた?」
「やめろ、縁起でもない」
年上巨乳メイドのデボラは虎視眈々とオスカーを狙っている。
可愛そうに、そうかついにぱくっとされてしまったか。
私は無表情らしいのだが、それなりに関係を築けているオスカーや双子には感情が察せるようで、こうしてわざとらしく話を逸らそうとする時、相手は本当に嫌そうな顔をするのだ。
外套で見えないのだが外してやれば、ほら、やっぱり凄く嫌そうな顔をしている。
「嫌よ嫌よも…って、何?」
痛みを堪えた顔をしてオスカーの指先が私の目元をなぞる。
「隅、酷くなってる」
「…化粧すんの忘れてたわ」
おっとそういえば顔の仕上げが終わって無かった。
オスカーの手を払い除け、私は引き出しから普段使いの化粧道具を取り出す。
光源をと、明りを近づけてくれる彼の身体が思ったより近い。
意図せず吸い込む呼気に彼の香りが混じる程。
歪んだ鏡越しにじっと、深淵の如く深く黒い瞳が私を見ている。
「それより引継ぎは?」
「ん」
紙を差し出してきやがったコイツ。
最初から尋問するつもりだったか畜生。
「守備は?」
とか言いつつ、拘束するでもなしに後頭部の髪を弄られる。
ああそろそろ染め直さないといけない頃合いか。
「キミに報告義務は無いよ」
念入りに隅を隠す。
今は暗い宵闇だが、朝までは表仕事だ。
鏡の中の黒い瞳はいつの間にか外されていた。
「ハイハイ、お迎えありがとな。あと遅れてごめん」
「シャラム」
「自室に戻るのが怖いなら此処で寝てて良いから」
荷物で塞がれたベッドを指させば胡乱な眼をしていたオスカーが深い溜息を吐いた。
「ランプは?」
「いらんわ、そんなもん」
「ハイハイ」
「返事は一度で良いと…」
「はぁーい」
「…」
「あ」
荷を寄せるだけで降ろしもせず、狭いベッドで横になるオスカーを尻目に私は自室の扉へと向かう途中、ふと思い出して歩みを止める。
忘れるところだった。
小さく声を上げた私に反応したのか背後で身動ぎをする気配。
顔を上げれば、薄い月明かりの中で彼の眼がこちらを見ているのが分かる。
機嫌はまだ悪い様だ。
「ほい、お土産」
「…賄賂だろ」
「懐柔されてくれんの?」
ポケットから取り出したラスクを放り投げた相手を見据える瞳が、ふと外される。
「ちょろ」
「うるさい」
何だかんだとオスカーは甘い。
私が立ち去った後にでも、一人気難しい顔をしてラスクを食べている姿がありありと浮かぶくらいには絆されてくれているのは分かっている。
だがこれから向かう先の人は、そうもいかない。
(ああ、どうか我が主は健やかに寝ておりますように)
自己保身からなる祈り程、届かないものは無いと知っていても祈らずには居られなかった。




