20:八歳の婚約
―――季節は移り変わり、雪の名残は山脈の頭だけとなった緑の時期。
豪奢な黒塗りの馬車が我がストラス邸の玄関前に静かに止まった。
降りてきたのは上品で明るいシルバーグレイの髪をしたよく似た一組の親子。
彼等の仕草も相俟って周囲の空気がピンと張り詰める。
ダブグレーの瞳をした少年が、ひたと私に視線を縫い留めた。
本来私はまだ高位貴族の出迎えには至らぬ歳だが、今回ばかりは許された。
いや許されなくても良いのだが。
でも今後の付き合いを考えると顔は出しておかなければという処世術は前世の記憶のお陰でも何でもない。
この日までに叩きこまれた淑女教育の賜物である。
今日も猫をたくさん連れております。
「――キミが、私の婚約者のリーシャ・ストラス嬢か」
先程からずっと見られていたのは分かっていた。
勿論お父様達との挨拶の際はそちらを向いていたが、事ある毎に彼の視線は私へ向かってくるのだ。
何ださっきから、同年代女子がそんなに珍しいのかい。
それとも一目惚れでもされたかな?
ハッハー!今日のおめかしは自画自賛する程可愛い仕上がりだぜ!
お兄様達もめちゃくちゃ可愛いって何度も言ってくれたからね!
今、私の自己肯定感は限界突破して無敵状態なんだぜ!上がるぅー!
やめよう、内心で思っていてもあまりにバカらしくて笑いそうだ。
ちょっともにょもにょ口が動いてしまう!猫!お猫様!隠して!
「リーシャ」
そんな心の葛藤をしていたせいで出遅れた私をお母様がそっと微笑みながら促す。
ごめんなさいお母様。
娘はこんな時でも馬鹿な事を考えて自爆しそうでした。
未遂だと思いたい!と願いつつも、先生から花丸満点を頂いた楚々とした笑みを浮かべ礼を取る。
「お初にお目にかかります、ユーデス・アウグ・ネウストラ公爵子息様。
リーシャ・ストラスと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
「ユーデスで構わない。私もリーシャ嬢とお呼びしても?」
「はい、光栄でございます。ユーデス様」
凄い、此処までのやり取りで彼は瞼と口しか動いてない。
表情もほぼ無感情に等しいクールな御方だ。
驚くくらい精巧なお顔立ちをしているが、その美しさは完全に男性らしいものだ。
アロイーズはもうちょっと柔和な美しさだよなと思い出してちょっと寂しくなる。
わっ!私、婚約者の目の前で他の男の事考えるなんて悪女!
やめよう、また笑いそうだ。
なんでこう現実逃避したくなると余計な事ばかり考えるかな。
集中していないのがお母様には丸分かりだから、先程から固定された微笑みと視線が横からめちゃくちゃ刺さっている。
「長旅でお疲れでしょう?お茶をご用意しておりますのでご案内致します」
「ありがとう」
小さく頷くもやはり表情はビタとも動かない。
凄いなぁ何考えているのか相手に伝わらせない能力、それ私も欲しい。
邸内を移動中に話を振っても全く彼の表情は動かない。
だが少しだけ、視線が私から外れる機会が増えたのは幸いである。
なお玄関ホールに飾ってあるあの見事な刺繍布は一時的に片付けてもらってある。
流石に恥ずかしいだろ!親しい方になら御見せできるけどさぁ!
勿論私の進言もそうだが、お父様も即座に肯定したので思いは同じだろう。
と、いう事はあんまりお父様も公爵閣下とは仲良くなれそうにないんだなーと察する娘なのです。
まぁそりゃ婚約を証として取り付けてくるような家とはね。
例え名高い公爵家だとしても我々には畏れ多すぎるし、大分価値観違うしな。
でもユーデス様は思いの外、高圧的ではない御方だ。
どっかの殿下みたいにさも取って付けた愛想笑いとか、藪から棒に傲慢な物言いをするような気配は今のところお見受けしない。
かと言って返答が短い訳でもないのだ。
ちゃんと話をしようと意識が私に向けられていると分かる接し方をして下さる。
よくよく見れば、彼の灰色の瞳は少し紫がかっていて温かみがある。
瞬きの合間に僅かながらも揺れ動く様子は、ユーデス様も緊張しているのだと私に教えてくれる。ちょっと安心した。
ネウストラ公爵閣下はもっと冷たい印象の、まさに高位貴族!と言った風格を纏った御方だったから、私も知らず知らずのうちに身構えていたのかもしれない。
挨拶冒頭で笑いそうになっていた癖にな。
自分でも相変わらず豪胆なのか繊細なのか分からん。
ユーデス様を案内した先は庭の見える大きいガラス窓を備えた明るい茶室だ。
緩やかに差し込む日差しと見渡す木々の緑、白樺の樹皮の美しさは何度見てもほっとさせる風景である。
大体のお客様は此処に入っただけで、ほぅと息を零すのだが流石のユーデス様は無反応だった。
凄いね!本当にそのコントロール力!特殊な訓練積んでるの?!
お父様と公爵閣下は鉱脈開発事業の提携についてお話している。
それを待つ間、ユーデス様は私と暫しご歓談のお時間である。
なお同じテーブルにお母様とお兄様達という鉄壁の布陣がカバーに入って下さるのでめちゃくちゃ安心だ。
某王子以上の待遇である。
でも正直、ユーデス様となら私一人でも問題なさそうだ。
とか気を抜いていたらアレだったのをハッと思い出し、背筋を伸ばす。
隣に座っていたギランお兄様がちょっと笑っている。
内心が筒抜けであったかー。流石私の愛するお兄様である。
「道中何か不備は御座いませんでしたか?」
「恙無く。ただ、ストラス領内は村にまで休憩所を設けているのには驚きました」
「我が領でも近年設置運営を始めたばかりなのですよ」
ユーデス様が話しやすいようにギランお兄様が声を発する。
その間に最近届いたばかりの美しい茶器がテーブルに並べられてゆく。
このブランド可愛いからもっと欲しいんだよなぁ。
でもお値段がなぁ可愛くないんだぁ。あるあるだよねぇ。
「ギラン殿のご提案事業なのですか」
「いえ、主に此方は弟のギレムが担当しております」
「ユーデス様のお目に留まって光栄です」
すっと着座のまま美しい目礼をギレムお兄様が見せる。
はぁかっこいい。日差しが後光のようだ。
「興味深く拝見させて頂きました。
外の手摺まで磨かれていた細やかさは来客層を意識されているので?」
「ええ、他家の皆さまにもお寛ぎ頂けるようにと妹が心配りを」
「リーシャ嬢の気遣いでしたか」
ふとユーデス様が私を見て会話を促す。
ちゃんと此方にもお話を振ってくれるのか。
お兄様達とご歓談の方が気楽そうだったのに、マメな御方だ。
「領民への指導を根気よく続けたのはギレムお兄様ですし、その熱意に応え続けて実際に働いているのは領民達ですわ」
「良い領地経営をされていらっしゃる」
「畏れ多いです」
今度はギランお兄様が目礼を返す。
何か婚約者同士のお茶会っていうより、上司と部下の報告会のようだ。
勿論上司が御年九歳になられるユーデス公爵令息である。
「休み休みとは言え、ストラスまでは長かったでしょう。
馬車の中では閣下とどのようにお過ごしに?」
「双方仕事や読書ばかりで王都と変わらなかったな」
あちゃー私のパスミスである。
というか馬車の中でまで仕事されているのか閣下。
流石稼ぐ男は違うな。
「ユーデス様はどのような書物をお読みに?」
ギレムお兄様ナイスフォローです!
「王都の邸から持ち込んだものばかりですが、主に帳簿を」
これはボケなのか?帳簿は読書に入るのか?
寧ろ仕事していたのはユーデス様で、読書は閣下なのか?!
ああー!ギレムお兄様の笑顔が少し悲し気になってしまった!
妹だから判る程度ですがね!他の人から見たら完璧な微笑みですとも!
「勤勉でいらっしゃる。流石ネウストラ公爵家の御嫡男ですね」
「他に読み物と呼べるものが我が家には少ないのです。
…リーシャ嬢は書物はお好きですか?」
わー!待って!ユーデス様良い人じゃないか?!
ギレムお兄様の話題を拾ってこっちに広げようと、ちゃんと交遊にしようと頑張ってくれているよぉ!
持て成すのは私達の筈なのに!この気遣い!これが一歳の差なの!
「私は我が領の伝承や植生に関する書物をよく読みます。
ユーデス様、街中に竜を象ったものが多かったのはお気づきになられました?」
「竜?」
ぱちりと眼を瞬かせたユーデス様の表情は全く変わらないが、ちょっと興味をお持ちになったのを敏感にストラス家は察知致しましたよ!
ええ、ええ!この最強布陣が見逃す訳ありません!
「竜とは伝承上の?」
「我が領の伝承もご存じでしたか」
「いや、寡聞にして知らないな」
「では今日は是非、帳簿以外の読書をしませんか?」
私の提案にまた目を瞬かせたユーデス様は、少しだけ小首を傾げ考える素振りを見せた。
何か気になる事でもあるのだろうか。
今度は私が目を瞬かせる。
それを見た彼が徐に口だけを動かす。
「…読書では」
「はい」
「リーシャ嬢が退屈しないか?」
うわめっちゃこの子優しいな?!どうした公爵家!
三大公爵家なのにこんな優しい子に育つ教育施して大丈夫?!
寧ろそれが策略?!私はもう完全に構えを解いているよ!
「大丈夫ですよ、お気遣いありがとうございます。
それこそユーデス様が他にしたい事などありましたら、是非」
と言ってもストラス領にあるのは大自然くらいだがな。
王都のように建築が見事な教会も、様々な芸術が飾られた美術館も、手入れの行き届いた植物園も無い。
まぁ閣下が対談中の合間だけなのでそう遠くにも行けないが。
「いや、他家の蔵書にも興味があるし、それこそ伝承を詳しく聞きたい」
「ではご案内致しましょう」
ギランお兄様が案内の筆頭として進み、その後を私とユーデス様が続く。
後ろにはギレムお兄様とお母様が付いた。
今のところ完全に我が領初体験コースの流れに乗ったので、慣れた様子でギランお兄様の足はある一室へ向かっている。
懐かしいなー。
ヴュルテンベルク辺境伯領の双子が初めて邸に来た時も同じコース辿ったな。
「街には色んな竜が飾られておりましたでしょう?」
「すまない、窓の外は見ていなかったんだ。
そんなに目に付くのならば見ておけば良かったな」
「お帰りの際にでも是非、探してみてくださいな」
お気づきだろうか。
ユーデス様、ちゃんと私とお話する時口調をちょっと砕けてくれている。
お兄様達とお話する時よりも幾分か柔らかいのだ。優しい。
何と言うかこの方、やはり多くの人の目に触れる機会が多いのか、相手にどう自分が見られるのかを分かっているような気がする。
どちらかと言えば悲しい理由で。
別に私は気にしていないのだけれどなぁ。
「この部屋は?」
「ふふ、まずは我が領に伝わる伝承を御覧頂こうと思いまして!」
ちょっと楽しくなってきてしまった私の元から猫が脱走している。
いや、今は日向ぼっこしているだけだ。
それでもユーデス様は気を悪くされている様子もない。
マジでこの人は良い人なのでは?本当にアロイーズ達と確執あるの?
両開きの扉を開き切り、ユーデス様を通した部屋は宝物室だ。
どう見ても図書室ではない。
彼はぐるりと一通り視線を回した後、一か所に視線を止めた。
そうですそうです、それですよ。
「これは」
「竜の骨だと伯爵家には伝えられております」
ガラスケースの中、椿色の台座の上で堂々と鎮座する巨大な太い骨。
確かにこの地域の動物では有り得ない大きさである。
ユーデス様もそう思ったのか、そろりと興味深そうに顔をケースへ近づけてその骨をじっと見つめている。
よしよーし!ほらやっぱり興味沸いちゃうよねぇ!ロマンだよねぇ!
アロイーズとオリアーヌなんか開いた口が塞がらなくて、宝物室から出た瞬間めちゃくちゃに騒ぎまくって凄かったんだから!
「信じられない大きさだな。確かにこのような大きく太い骨を持つ動物が存在したなら、竜くらいしか思い浮かばないかもしれない」
「この骨はあの山脈の万年雪の中から氷漬けで発見されたそうです」
私は窓の外で悠然と聳える山頂を指さす。
そうすれば、ユーデス様も骨を見ていた顔を上げて山脈の美しさに見惚れていた。
相変わらず表情は変わらないけれど、心の動きが滲んでいるように私には充分感じられた。
「この大きさの生物があの標高に生息していたと?」
「不思議ですよね。あの大きな骨を有するならば、その身体はきっともっと巨大だった事でしょうに」
「空を飛ぶにも相当な翼が無ければ巨体は支えられない」
「ええ、その通りです。
だから私は思うのです、竜は魔法を使えたのではないかと」
「まさか」
今度こそ本当にその表情が動いた。
驚愕と、興奮。
色づくように花開く感情に、私だけでなくお兄様達も微笑ましげに表情を緩めた。
大人っぽい子だけど充分まだ可愛い子どもだ。
「ユーデス様はどう思われますか?」
「魔法を使えるのは、神に言葉を届けられるのは人だけだと思っていた。
現に魔法を使う生き物は存在しないだろう?滅びたのだろうか?」
「ふふふ、気になりますよね。それでは我が家の図書室へご案内いたしましょう」
もう完璧である。完璧に気になる子モードである。
案内のし甲斐があるなー!
そこからはもう、図書館に籠り切りだ。
竜の伝承を記した書から始まり、先程の骨の発掘記録を見たり、先人達が記した竜の痕跡についての調査書や論文などをユーデス様は飽きもせずずっと真剣に読んでいた。
普段から書類などを見ているためか読むのが早い。
だがストラス領民がせっせと記した竜伝説関係の書物はそれを凌ぐ量がある。
これは気になって帰れなくなるコースだよ。
因みに双子はそうだった。
ユーデス様は博識だが、癖のある領民の文字で記された調査書や補足などを、一緒に覗き込んだ私やギレムお兄様が行うという布陣に切り替わり、いつの間にかお母様は席を外していた。
ギランお兄様はいち早く次に何を読んでもらうか選書していた。
またそのチョイスが素晴らしいんだな、これが。
絶対ギランお兄様がこのコースを最初に切り開いたんだと思う。
瞬く間に時間が過ぎ、気が付けば寧ろ公爵閣下をお待たせしている状況だった。
お母様お父様、これはやらかしでしょうか。
でも婚約者としては正解な気もするんですが。
いずれ解消の方向だとしても、蟠りを残すのは悪手だと思うのですよ。
なんて私が考えている事にはユーデス様は勿論気付かず、寧ろ驚くほど時間が過ぎていた事にやや呆然とした顔をして窓の外を見ていた。
影の長さは随分とぼんやり伸びていて、やがて訪れる夜を示唆していた。
「…すまない、リーシャ嬢」
「何がでしょうか?」
そっと丁寧な仕草で本を閉じながらユーデス様が静かに零した声音は、本当に心の奥から申し訳ない気持ちが溢れたかのように聞こえた。
「婚約者なのに碌な会話もせず、読書に没頭してしまった」
「私も本を読んでおりましたし時折お話は致しましたでしょう?」
「それでも…女性は、話す方が楽しめるだろう?」
ギレムお兄様が気を利かせてユーデス様から本を受け取り席を外す。
少しだけ大人達の視線が外れ二人きりの空間が出来上がると、私は早速猫を取り払った笑顔を浮かべた。
「人それぞれでしょう?私は楽しかったですよ。
ユーデス様は楽しく無かったですか?」
「これだけ夢中になったのは初めてかもしれない」
「それは最高の誉め言葉ですね!」
やべっ流石に口開けて笑うのはマナー違反だ。
慌てて笑顔を収め、その口元を誤魔化すように手で覆い視線を泳がせると、意外にも隣から小さな笑い声が零れる。
「そうか…うん、そうか」
何かを噛み締めるように、彼の美しい顔が緩む。
その微笑みが見れたのならもう本当に、私は充分だった。
「リーシャ嬢」
「はい」
顔を戻した彼が私を見つめたまま、暫く動きを止める。
表情は残念ながら無表情だが、最初に見た時の印象よりもずっとそれが柔らかく私には感じられた。
「また会いに来ても良いだろうか」
「本に?」
「はは、そういう事も言うのかキミは」
「気に障ったのなら」
「そうじゃない、全く嫌じゃない」
私の言葉に被せるように彼はまた穏やかな笑顔を浮かべ、漸く立ち上がる。
つられるように私も立ち上がれば、そっと彼の手がエスコートの形を取った。
わぁ初めての家族以外のエスコート相手が婚約者だ。何か照れるね。
「今度は父上は置いてくるから」
「ふふ、ユーデス様もそういう事仰るのですね」
「嫌?」
「全く」
ふ、と最後に吐息の笑いを零して彼は表情を戻す。
何だか双子とも違う関係性は、心地良さの中に少しの気恥ずかしさがあった。
ネウストラ公爵閣下のお仕事の関係もありユーデス様達は我が邸を発たれたが、彼にはギランお兄様が選書した竜伝説や、ギレムお兄様がその中に出てくる関連動植物の書物をお渡しした。
手紙も寄越して下さるそうだし、読み終えたらすぐ送ると仰っていたが私は首を横に振った。
「次に来た時で構いません。お手紙は別ですが」
「…ありがとう」
無表情のままで静かにユーデス様は頷いた。
その瞳はやはり、温かい色合いに私には見えた。




