あさみとぱつ -リアネイキッドチョーク-
三月に入り、もうひと月すれば同棲して一年になる、そんなある日ぼくは仕事中に、たとえば吐しゃ物で洗顔する行為と比較できるくらいの嫌な目に遭ってしまっていた。
配達をしている時、隣のハイエースがスマホをいじりながらトロトロ走っていて、車間距離は十分空いていたし、この先の交差点を右折するのでちょうどいいや、とウインカーを点けて車線変更した。そしたらどうだ、お前の車のフォグランプが切れるぞ、くらい大きなクラクションを鳴らされたのだ。霊柩車であれば一考したのかもしれないけれど、あれだけの車間距離(大型バス二台分くらいだったはず)があったのだから、マジかよ、と驚いたは驚いたものの、可能性としては違う車が違う車に鳴らしたのかもしれない。でもぼくは取りあえずソーリーな感じでハザードの挨拶をした・・・・・・なくはない可能性は否定され、追撃してくる光速のパッシングが止まないまま次の信号で止まると、後ろから四、五十代で身体のごつい、薄毛の金髪が飛び出て来てこちらの運転席の窓をドンドン叩いた。なめてんのか、降りてこい、殺すぞ、等々を今にも泣き出しそうなくらい真っ赤な顔をしてまるで血が沸騰している猟犬の如く吠えたてた。事故にも交通トラブルにも結構気を付けている方だから、まぁよくあることではないけれど、極たまには発生する(ぼくにしてみれば理不尽な)スクランブルだ。
車から降りず、窓も開けずに謝り倒して収めるしかないのでそのようにしたけれど、前をチラチラ見ながらいじくっていたスマホの内容のせいかは不明だが、透けて見える頭皮までピンク色になっている薄毛の金髪は、むしろ性癖的なまでに激昂して今や空に向かって吠え続けた。
信号が青に変わっても進めない後続車がリズミカルに三回クラクションを鳴らした。曇り空へ向かい性癖を楽しむ、人生半ばの薄毛金髪はすかさず後の後ろにいるプリウスに怒鳴散らした。いま自分の怒りだけがこの晴海通りを支配しているのだ。また自分の怒鳴り声がいわゆる燃料投下となり更なる怒りの高みを軽々越える最新の火が炎と化した。
このままだとウインドーを割られかねない。ぼくは震える手でスマホを掴み110番に掛けますよ、とガラス越しにアピールした。動画を撮られると思ったのか、相手は身体を纏った邪悪な性癖の全てで薄笑いした。見たことのない本物の殺人鬼の目と、いま目が合っている薄毛の薄ら笑う目の奥の透明度に差は無いだろう、と恐怖の中でそれだけはしっかりと思えた。
「お前を殺すところをこっちが撮ってやるから待ってろ」
そいつは言って自分の車に戻ったので、このまま逃げるかを迷ったとき、サイドミラーに映ったのは、薄毛が若い坊主頭に足払いされ完璧に組み伏せられる場面だった。
信号は再び赤となり、目の前の横断歩行を行く歩行者は途中で立ち止まり、渡れ渡れ、と見物者にクラクションを鳴らす左折車だったが、車線にはみ出して転がる巨漢と細身の長身の横を自分もトロトロ避けながら見物するのだった。
「運転手さん下りてきて」仰向けの巨漢に絡まる坊主頭がぼくを呼んだ。
二人は互いの頬をくっつけんばかりに寄せ合い、背後から首を絞めている坊主の説明によれば、リアネッキドチョークが死ぬほど決まっているらしく、締め落とされる前に「このお兄さんへ謝れ」と巨漢に囁いた。ぐっぐっぐっ、とだけ声を出していた薄毛が「ばびばっびば」と言った。「悪かったな」と言ったつもりのようだ。
そんなわけで、ぼくを相手に「射精」できなかっただけではなく、あからさまな天罰を体験して解放された薄毛はどれだけ怒っていても青白い顔(頭皮も色を失っていた)で自分の車に戻り、ぼくも正義の坊主に礼を言って戻ろうとしたら、えっ? と驚かれたのだ。
「五千円でいいですよ」ぼくの頭の遥か上から坊主は言った。「お兄さんは小さいから特別に半額でいいですよ」と真顔で言ったのだ。
小さい(背が低いからと言うことだろう)から半額ってなんだ?
「こっちは急いでんだ、ハゲにさっさと払えチビっ!!」薄毛のハゲが自主的なハゲをハゲと呼び、ドアを開けて叫ぶと、坊主がハイエースに向かって人差指を自分の口に持っていき、お前は黙ってろ、のジェスチャーを示した・・・・・・ぼくにしてみたら死ぬべきだった薄毛はドアを強く閉めた。
「みんなに迷惑になるからそこを曲がったところで一旦停まって下さい」坊主がぼくの肩を叩いて言った。
財布に三千円しかなかったので、それじゃぁ一番近くのコンビミでなんたら、と言われていると、プリウスの助手席にいた金髪の女が言った。
「ミキの試合が始まるから急いで」
「姉の試合があるんです。急ぎましょう」
金髪の女はハゲの姉の友達なのだろうか?
ぼくがトラックの運転席に座るとすぐプリウスがクラクションを鳴らして再び坊主が車から下りて、こちらへやってきた。
「顔も可哀そうだから、そこもおまけしてあげなよって言われましたので、三千円でいいです。良かったですね。今日はツイていますよお兄さん」
結局この度の顛末は本来の額から七割引きで終わったのだった。
ぼくには薄毛も坊主も、同乗していた金髪の女もまともな人間にはどうしても思えなかったし、今日がツイているとも思えなかった。




