あさみとぱつ -略奪不倫ゲーム-
二十歳から一人暮らしをしているので、毎日の出掛けや帰宅時に、誰にも声を掛けないのは空気が透明であるようなレベルで普通のことであった。つまりこれまでは。
無言で靴を履き、無言でドアに鍵をかけてちゃんと掛かっているか「ガチャ」っと捻る。金属音はするけれど、間違いなく辻の地蔵より無言のドアに、昨日がどんな日だったとしても、今日がどんな朝であろうと溜息をついて仕事に向かう。帰って来たときはこの手順を遡る。今日一日、何があったとしてもなかったとしても、ドアの前で溜息をつき鍵を開け靴を脱ぐのだ。違うのは玄関の明かりを点けることだけ。
自分が無言で靴を履き鍵をかけ云々をしていたことに気が付いたのはあさみがぱつを連れてきたからだった。ケージから出られるようになったぱつが「あさみ部屋」のドアの隙間(猫が好きな時にトイレへ行けるよう常に閉め切っていなかった)から、何かしらの思いを決めかねている気にさせる、そんなギョッロっとした目で出掛けのぼくを観察していたので「じゃあな、行ってきます」と自然に言葉が出た。そういう日が何日か続いたときにふと気が付いたのだった。
あさみが休みの日には、お疲れ、と声を掛けてくれていたし、ぼくはただいま、と返事をしていたけれど、十年近く無言だったのには気が付かなかった。同居する猫が、朝のぼくを見送るようになってから気が付いたのだ。
暮らし始めた当初はドアの隙間からさえ覗いていなかったけれど、やがて朝も夜も玄関に来て「にゃ~、にゃ~」何かを言い始めた。もちろんぼくも返事をした。玄関に外から鍵をかけるときも開ける時も癖のようになっていた溜息が無くなったのは当然だったのかもしれない。
飼ったり、暮らしたりだけでもなく、野良であれ顔見知りの猫がいたことのある人なら確信しているだろうけれど「彼ら」は彼らの言語で何かしらを語り掛けているし「嘘」という概念は持っていない。意思の疎通の成立は大概がこちらの解釈でしかないのだけれど、それが当たっていようがいまいが彼らの方はこちらの言語を理解しているのだと思う。でもそれは「言語」を理解しているのではなく「意思」そのものを、まさか髭の先からではなかろうが、読み取っているのかもしれない。
ところで、たとえば動物病院へ行くとか、家に残して外泊するとき等々、そんなときに猫に嘘が通じないのは彼らが概念を持っていないからではなく、たぶん人間は猫に対して本気の「嘘」をつこうとはしないからじゃないのかな? とぼくは考える・・・・・・こういうことをあるとき居酒屋であさみに話したら細やかな勃発が起きた。遠回しで、何か嘘をついているでしょ? と疑われているんだな、と向こうは深読みしたのだ。あるいは自ら言い出したのに一度も払ったことのない電気代の暗喩なのかもしれないぞ、と受け取ったのかもしれない。
「・・・・・・ってか、一体何が言いたいの?」相変わらず生返事ばかりしながらいじっていたスマホを伏せて顔を上げると、レモンサワー二杯ではなりようもない感情を露わに目を細めるのだった。
「・・・・・・」瞬間的な空気の変わりようにびっくりした。意図していなかったことや考えてもいなかったことで腹を立てられるとこちらも腹が立つもので、一緒にいてスマホをいじり続けられているよりもはるかに腹が立った。困惑とは違って。
「・・・・・・」あさみはおしぼりで、とっくに見慣れた受け口の口元を拭いた。
「何が言いたいって、今言った通りのことだよ。猫に嘘をつく人間はいないよね? って」
「私があなたに何か嘘をついているってことを言いたいんじゃないの? 何を疑われているのか知らないけれど」
「そんなこと思ってもいなかったし、むしろ何を疑った方がいいのか教えて欲しいくらいだよ。でも結構ムキになってない? それって場合によってはかなりマズイと思うよ。たとえ相手が俺でも」ぼくは腹立ちを抑え、困惑を装った。それにしても何かを隠しているな、と思えて仕方なかった。
「・・・・・・昨日弁当屋でちょっとしたことがあったの。お釣りが合わなくて。それで疑われたのよ。もちろんしてないよ。ぱつに誓える・・・・・・ごめんね、思い出したら腹が立っちゃっただけ。ごめんなさい」あさみはテーブルの上のスマホのすぐ横に手の指を揃えて頭を下げた。
「あっ、そうなんだ。ならいいんだ。あさみはよくないのかもしれないけれど。でもひどいな」ブスだから疑うなんてさ、と心の中で呟き、了解したふりをした。ぼくも「嘘」をついたのだ。
ぼくらは一瞬で変った空気感に「嘘」の風を吹かせ、探り合うつもりがない旨を暗黙で了解しあった。そういう意味では、長く付き合う恋人の秘訣のような意思の疎通が出来ていたのかもしれない。
・・・・・・彼女がレジの金を盗るわけがない。そもそもそんなトラブルは起きていないはずだ。もし本当なら、今夜店に来る途中で、疑った誰かに呪いがかかるくらいぶつくさ言っていたろう。だから胸の内から肌まで確実に何かが引っかかった。でもそれを追求すればするほど引き返せなくなってしまうのは明白だ。どれだけ気になる穴だろうが、覚悟がなければ手を入れるべきではない。それになんていうか「男」の影であるわけがないので、今夜は多少モヤモヤしても、真実がなんであれ結果として「なかったこと」になるはずだと思った。ただ「携帯ゲームの課金」は心配した。ギャンブルはしていないはずだけれどゲームの課金に関しては、ときどきぼったくりだ、きりがないぞ、等と愚痴っていたのだった。
二次元の素敵な既婚男性を落とす「略奪不倫ゲーム」に熱中していた時期があった。そんな社会的有害ゲームに金を払うくらいなら電気代を払ってくれよ、とは口に出さず「そいつは俺よりかっこいいの?」と冗談を言って、ほどほどにしなよ、とたしなめた。
「ねぇ、聞いてよ。前に言ってたゲームのあいつとうとう離婚したからさ、秒で捨ててやりました。はい」
あさみが達成感に満ちた笑顔で自慢してきたのはひと月後だった。そのとき、あぁ、そういえばこの女はブスだったんだ、と久しぶりに思い出したものだ。
次はレベルを上げて「子持ち」を狙う、と言っていたが、どうなったのかは知らないし気にもならない。たぶんぼくはぱつと同じ気持ちなのだ。




