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ネコゴ  作者: ハクノチチ
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あさみとぱつ -意図的に言葉のブレーキとアクセルを踏み間違えて-

 老人を殴りつけてしまわぬよう、自分が自分でいられる限界点での行動だった気がする。ぼくよりも背の高かい老人ではあったけれど、さすがにやられるとは思えなかったし、彼はぼくに殴られても致し方ないほど「腐った」男だったのだ・・・・・・いやむしろその場で、たとえば脳の血管が切れたり、心臓が止まって死ぬべきだった。何年か前に死別しているらしい妻やどこかにはいる息子たちのためであり、もっと言えば彼の先祖のためにも、他人の尊厳を穢して喜ぶ、残飯のような醜態を晒す老人はその場で突然に倒れ周りがーつまりその場にいたぼくがージタバタしようが何しようが、そのまま逝ってしまった方が魂の腐食は止まるってものだ。あの老人は意図的に言葉のブレーキとアクセルを踏み間違えて、ぼくをひき殺しにかかったのだ。

 今日二つのアルバイトを休んだあさみは水色のワンピースに黄色いカーディガンを羽織って、おろしたての白いスニーカーを履き、これまで見たことのない高価な革のショルダーバッグを肩にぶら下げると、鼻骨のでっぱりなど意に返さぬ、ルンルンな鼻歌を唄い出かけていた。予約した銀座のすし屋で「吉野さん」とランチするからだった。でも風呂上りによった久しぶりの酒屋の奥には、白いフレッドペリーのパーカーを腕まくりしてワイングラスを手にワイワイ飲んでいる吉野さんがいた。ぼくは一年振りの、その代わりない「一コマ」に目を見開いた。そしてまるで見えない誰かの拳でガツンと頭を叩かれただけでもなく、瞬きする前に見えない誰かの、たぶん大きくて意地悪な手は、あるいは指はぼくのスマホへLINEすべく、あさみに代筆させたとしか思えない一文を送って来たのだ。このタイミングを偶然などと誰が言えよう?


 せっかくだから少し飲んで帰えるので、予定より遅くなります。その旨ぱつによろしくね。


 了解。吉野さんによろしく。


 同棲していること彼女には秘密なので了解いたしかねます。


 了解。


 既読。

「運命の一日」の代筆者けん当事者のあさみは最後に「既読」と書いて寄こした。



 あさみに嘘をつかれるのは日常的だから、それはそれで耐性のようなものはある。でも、バレている、いわばライブ状態で嘘をつかれるのは初めてだったし、こちらもそのような状態で(もちろん動揺していた)すっとぼけるのは初めてだった。

 LINEを打ち終えると「ヤス」さんと目が合った。ぼくたちは会釈しなかった。ぼくはテンパっていたし、彼はどうしてかこれまでとはまるっきり違って、見下しているような角度の口角をキープしていたのだ。黙していても怒りは目に、侮辱は口元に出る。

 そんなわけで空いているテーブルの隙間には収まらず、よく冷えたオリオンビールの500ml缶を持ったまますぐ煙草を吸いに出た。

 誰とどこに行っていても構わない、とまずは思った。嘘ばかりつくのだから、そう思わなければならないぞ。あさみはバカだから嘘をつくことで自身にもぼくにもベストな選択をしているつもりなのだ。でなければ、賢すぎて人生には恐れるものなど何もないのかもしれない。

 あさみが銀座で寿司を食べるのだから、ぼくも普段とは少しだけ違う一色を加えようと、正月しか吸わないセブンスターにしていた。たったそれだけでもこっちは特別感を味わえた。でも、このライブ状態で発覚したあさみの嘘により、加えた「一色」は反って悲しくなっていたところに、口角を下げたヤスさんがやって来た。腐れ老人は後に発芽するぼくの暴力の種にたっぷりと水を与える、信じられないことを教えにやってきたのだった。

 家の方の風呂屋が臨時休業だったので、こっちまで足を伸ばしたついでにここへ立ち寄ったのは、ヤスさんが怨念の如く願っていた以上の、最高の偶然だったかもしれない。



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