あさみとぱつ -赤い文字盤-
さて、この度の案件は質に入れていた夫の腕時計だった。ゾーラ・カシミアの「バーナム」というシリーズの自動巻き・・・・・・それは手元に戻ることなく流れた。いやわざと流したのだ。
大、小ペアになっていた時計を腕に巻いていたのはあさみの母親ではなく、父親と度々仕事をしていた現場監督の女だった。そういう話を母親が耳にしたのは半年後のこと。
隣町の団地で年金暮らしの両親と暮らす日雇い業の弟は、今も我が「町」に残る幼友達と酒を飲んでいた。そのときに、腐り続けることでしか生き延びられない、腐った連中から「お前のねぇちゃんの死んだ旦那って、誰それ先輩とダブル不倫していたらしいぞ。さすがに指輪は買えないからペアの時計をしていたんだってよ。知ってた?」友達から聞かされたろくでなしの弟がわざわざその話を姉に持って来たのだ。親からの圧を受け、友達からは小ばかにされ続ける未婚の弟は、結婚して娘までいる姉に、本来ならあるいは多くの者には理解不能である、至って必要のない劣等感を抱えていた。どうあれ必要のない、と他人には思える情念を向けるのが身内なので尚更だったろうし、さすがは腐るしか生き延びられない我が「町」の住民だ。
車高の低いセダンに乗って葬儀にも来ていた「何某先輩」を知っていた母親はさすがに冷めたことだろう。夫は娘のあさみがしゃかしゃか鳴る自動巻きを喜び、過剰に振っていたとき、母子が跳ね上がるほど怒鳴りつけたことがあった。大切にするにもほどがある、と思わずにはいられなかった。普段は食事中におもらしをしても、コップに注いだビールを誤って娘が倒してこぼしてしまっても「勘弁してくださいよ」と笑っていたし、少なくとも娘に対してはどれだけ仕事で疲れていようとも寛大な父親が腕時計にだけはなぜにそこまで怒るのか不思議だった。
「たぶんだけど罪悪感からだったんじゃないかな?」エビフライは尻尾が一番うまい、と言うあさみは笑った。
しかしその話は反って母親にエネルギーを与えたのも確かだった。寝込み気味だった母親は夫が一番大切にしていた腕時計だけは質に入れないようしていたが、娘の粗相やいたずらよりも上位にあった謎に合点すると翌日には流す気満々で質へ入れ五万円を手にした。その日、焼き肉を食べに行ったのをあさみは微かに覚えていた。あさみの一番古い記憶らしい・・・・・・荒治療だったとも言える予期せぬ事態により母親はこれからの人生へ立ち上がったのだ。
時が過ぎ、三十年以上も前のことだから言われなければ思い出さないくらい忘れていた母親だったのだが、同じ時計を、代替わりして店構えも立派になっている同じ質屋のショーウインドー越しに見つけた。当時の苦難が蘇ったし、初老にブチギレてやったときの後悔は今や人生の武勇伝になっている。
なんだかんだ言って、あの時計の存在がもしなければ、ひょっとしたら娘を道連れていたかもしれない、と顧みられるようになった母親は「同じ丘の上」で蘇ったとも言えるそれを手に入れたいと願い始めた。でも二十万の値が付いた自動巻きの中古腕時計は、突然の買い物とするには無理がある。そもそも流してしまったときの額は五万でしかなかったのだし。でも以来寝ても覚めても赤い文字盤のことしか考えられなくなった。
「なるほどね」ぼくは言った。
「・・・・・・」あさみは頷いた。
ぱつはテーブルの上に乗っていて、ぼくからおこぼれを貰いたがっていたが、塩っ気のある人間の食べ物を少しでも分け与える行為はあさみが絶対に許さない。
「それくらいなら都合つくよ。でも一つ聞くけど?」
「もちろん」
「ここにきて一年になるでしょ、その間の家賃はかかってないよね。 毎月いくら収入があるのかは知らないけれど、バイトの量はほぼ同じじゃない。昼夜どちらの職場も一緒なんだし・・・・・・余裕があるんじゃないの?」電気代は口にしなかった。
「仕送している額を増やしたのよ。もちろんあなたのおかげで。とても感謝しています」あさみも電気代は言わなかった。
「なら、なんて言うかお母さん自身に、余裕はないのかな」さすがにちょっと言いにくかったが、絶対に聞くまいとした、君のDNAと直接的なDNAを持った「お父さん」が、結婚してなお浮気するなんて・・・・・・つまり容姿的な意味で可能だったの? の方がよほど確かめたかったものだった。
「・・・・・・今の私と変わらないころから未亡人で生きてきた、七十に近い歳の母が、どんな田舎の町でどんな暮らしをしているか、あなたは知らないだけよ。休日でも大して賑わいのない道の駅で、屁みたいな時給で週に三日だけバイトして一人で暮らしている老人には二十万円の時計なんて買えないわよ。娘からの仕送りが増えたからって」
「・・・・・・」
「ってか、これまでは五万送っていたけれど、今は十万送っている。私の手取りは大体十八万円前後。ぱつと生きているだけで人生は十分だから、これ以上の向上心は持てないって言うか、必要を感じないの・・・・・・でもあなたに大きく頼っているのは確か。本当に感謝しているし、申し訳ないとも思っている。だから出ていけと言われればすぐにそうするよ」あさみはぱつの頭を撫でてぱの目を覗き込んだ。猫が「ニャー」と言った。
「出ていけって話なんかしてないだろ?」話をすり替えたのは明らかだ。すごく嫌な気持ちになった。だから言ったのだ。
「現金で用意すればいい?」
「それは面倒でしょうから、スマホに電子マネーで送ってくれたらそれでいいです」
ぱつを撫でながら安堵する表情をちゃんと隠す辺りは、さすが本物だ。
「お母さんに転送するの?」ぼくは不快なまま冗談で言ったのだったが、冗談にはならなかった。
「田舎のじじばばって案外スマホを使いこなすのよ。こっちよりもよほど不便だから覚えるのを苦労がらないらしい」
「質屋で買う時は?」
「今のご時世、路地販売する野菜以外はどこも可能よ」




