あさみとぱつ -気泡のようなキス-
「若いよね。努力してるみたいだけど」
「折角だし一杯やってく? 俺はここでいいんだけど」でも不思議と開き直れもしたのだった。
「もっと若いころ、地元の駅前で一人で飲んでたらすごく嫌な目に遭ったんだよ。クソみたいなオヤジに絡まれて。それ以来、駅前の広場で酒を飲んでいる奴は誰でも嫌なんだ。トラウマみたいなもんだと思う」
「・・・・・・初めて聞いた。何があったの?」
「お前みたいなブスは誰も買わねぇよ、って抜かしやがったんだ」
「なんだそれ」確かに一理あろうとも、そんなことは誰に対したって口にしてはいけないはずだ。言いたいことと言ってはいけないことがあるから、人には言葉があるはずだ。
「でもオジさんのハゲって好みだし、よかったら千円でいいよ、って言ってやったんだ」
「えっ?」
「そいつはその気なったからホテルに入って、先にシャワーを浴びさせている隙に財布とスマホを盗ってそのまま逃げてやった。財布には二、三万入っていたけれど、小銭で千円だけ抜いて残りは全部路地のお地蔵さんの賽銭箱に入れた。財布は川に捨てたよ。スマホもね。そしたら地元を離れる気持ちが固まったんだ・・・・・・高校を卒業してから、地元の地場野菜を専門に扱う会社の作業所で野菜の袋詰めとかをしていたんだけど、母に相談するよりも先きに、専務って人に相談したら東京の多摩支店に空きがあるから紹介してくれてさ」
「・・・・・・そんでやがてこっちに出て来てぱつと出会ったんだ?」上京してからしばらく多摩で暮らしていたのは知っていた。
「まぁ、そうだね。結果的には」
あさみがぱつと出会ったのは十年前こと。ある夜に煙草を買いに出たとき、鬱蒼とする木々と雑草に埋もれた平屋の空き家の前を過ぎると、突然現れた三色の子猫は、二人の運命のように、あるいは二人の運命の歌を唄うように鳴きながら後を付いてきたのだった。野良で生まれた孤独な四つ脚の衛星は、おそらく予感していた通りの惑星を見つけ、クソのような田舎を捨てた惑星は、後先考えず突発的に衛星を拾ったったわけだ。だからそれは実際、二人の運命だった。
「で、俺とも出会った」・・・・・・ぼくは彼らの恒星ではないし、誰の恒星でもない。でも家賃に関しては二人の恒星なのかもしれない・・・・・・もしかするとそのうち通り過ぎるだけの彗星なのだろうか? 密かに自分を星にたとえてしまったこのことは、恥ずかしすぎて誰にも言えない。
「まぁ、それもそうだね・・・・・・だから駅前で酒なんかを飲んでもらいたくないんだ」
「そいつ以外誰もあさみにそんな酷いことを言うバカはもういないよ。たぶんこの世にはもう誰もいない。もし誰かが似たような酷いことを言うとしたら、それはあさみじゃない誰かに対してだけだ。たとえば俺にとか」
「だったらあんたには悪いけどありがたいかな」あさみは笑った。
「なんか買ってくるから待ってて。ここで二人で飲もう」
「はぁ?」
「あさみの不運は俺とぱつが被るんだよ。既に被ってるって言うか」
「ぱつは絶対ダメ。あんた一人でよろしく」
「煙草でも吸ってなよ」
ぼくは甘くてアルコール度数の高い缶酎ハイをコンビニへ買いに行った。あさみは顔をしかめてちょっとむっとした。
「寒いし、飲むならどこかに入ろうよ」ベンチに座るあさみは350mlの缶酎ハイを持ったまま言った。
「それでもいいよ。でもこれを飲んでからの方が、たぶんいいんだ。今年の、もっと春らしい春が来る前にこれまでの諸々を捨ててやりなよ」
「・・・・・・」
「でも絶対に無理なら、それは今夜じゃないのかもしれない」酔っているわけでもないのに、少し強引過ぎたと今更気が付いた。
派手な色彩の缶酎ハイを暫く見つめていたあさみは肩をすぼめてプルリングを開けるのだった。
いつかぱつが人間に生まれ変わったらやはりブスで可愛いのだろうか? 等と話している流れで、自分に来世があるとしたら誰の感じがいい、って話になったので、ぼくはカート・コバーンを選んだ。あさみはニルヴァーナを知らなかった。繊細過ぎたすごくかっこいいバンドマンのジャンキーで、ショットガンを使って自ら死んじゃっている旨をサクッと教えた。あさみはスマホでカート・コバーンを検索した・・・・・・すると顔が青ざめるほどの絶句をして、後ろにひっくり反ってしまうくらい大笑いしながら足をバタバタ踏み叩いた。どちらかと言えば寡黙だった辺りに起きた突然の奇声のような甲高い爆笑に、ちびちびと一人缶の酒を飲んでいる周りの人たちが一斉にこっちを見た。それでもぼくはちっとも恥ずかしくなかったし、むしろ迷惑上等とすら思えた。ぼくの前で、あさみが・・・・・・いや誰だろうと、こんなにも笑い転げる姿は初めてだった。過呼吸のように誰かが笑うなんて初めてだった。
「いや、さすがに無理だろ」笑いつかれて肩で息をするあさみは涙を拭った。
「それは誰にも分からんよ。だって死んでから生まれ変わるんだぞ」ぼくもゲラゲラ笑った。
「私には分かる。たぶんあんたの親も分かると思うぞ」
「カート・コバーンが無理だったらスティングでもいいけど」ぼくは調子に乗った。
「スティングの前世があんたみたいだったことってある?」あさみはこっちに身体を寄せ再び笑い転げた。手に持っていた、二人とも飲みかけの缶酎ハイがぼくのズボンにだけ零れた。
「あさみは誰がいい?」
カート・コバーンやスティングから何光年も離れた男の顔を見て、目の奥で弾ける準備を整えていた。
「あんたがスティングならテーラー・スイフトしかないっしょ」
心の底からぼくらは笑った。あのひと時は、これまでのぼくの人生のハイライトに違いない。
笑い疲れて帰るとき、久しぶりにホテルへ誘ったけれど秒で拒まれた。でもぼくたちは手を繋いで歩いた。
家の手前にある広い駐車場まで来るとそこは空が開けていて、なんとなく見上げれば銀色の小さな点が遥か上空をゆっくり横切っている。飛行機のような識別灯を点滅させているでもなく、見たことはないけれどUFOみたいに忙しなくあり得ない動きをしてもいなかった。もちろん星よりも遥かに速く動く銀色の光。
「あれ、人工衛星じゃない?」ぼくは指を差した。
「・・・・・・」
「見える?」
「真っ直ぐに飛ぶんだね」あさみも見つけられたようだ。
「直線て結局は大きな曲線の一部分なだけらしいよ」ぼくは昔何かの本で読んだことがある誰かの詩を思い出した。
あさみは真っ直ぐ飛ぶ光に手を振った。そのとき初めて思った・・・・・・155cmの男と150cmの女の視界の差は180cmの男と175cmの女の視界の差と同じだし、何光年も離れた星じゃなくても、たとえば100㎞上空の人工衛星からしてみても、地上にいる155cmと150cmのカップルの頭までの距離と180cmと175cmのカップルの頭までの距離は誤差どころじゃなくジャスト以外のなにものでもなかろ?
立ち止った期を逃すまいとキスしようとしたら、アロアナのような受け口は不意を突かれながらも秒で逃げた。やるせない気持ちと笑いたい気持ちが半々だったけれど、部屋のドアを開ける前に、避けるための反射神経に長けているアロアナは水面に出て呼吸するような、あるいはとても小さなまるで気泡のようなキスをしてきた。ぼくたちはドアの前で気恥ずかしくて、どこか新鮮な気分で向き合ったまま、二人の帰宅を察知しているぱつが、甘える声で今夜もママに呼び掛けているのを聞いた。




