第5話 猿の名刀
大浴場の戸を出ると、夕風が火照った頬を撫でた。
ヒデヨシは籠手の留め具を確かめ、家族の待つ通りへ足を向けた。
湯でほぐれた脚は軽い。掌の包帯だけが、オケハザードでの痛みをまだ覚えていた。
『風呂とは、ありがたいものじゃの』
【官兵衛… 次からは、告知があっても桶に膝をぶつけぬようお願いいたします】
『帰り道までその話をするでない』
〚金兵衛… 桶も御館様もご無事。儂は、それが何よりと思います!〛
家へ帰れば、アサヒが今日見たものを話したがるだろう。ヒデナガには働きの様子を聞きたい。
トモの作る夕餉も待ち遠しかった。だが、その前に受け取るものがある。
通りの先から、槌の音が響いてきた。
点検を頼んだ刀を取りに寄ると、鍛冶場の亭主は作業台に横たえた鞘へ目をやった。
「戻ったか。やっぱり刃に亀裂がある。今のまま使えば、次は折れるぞ」
「そうか。直せそうかな」
「手は入れられるが、今日中には無理だ。急ぎでなければ預かるぞ」
ヒデヨシは鞘を持ち上げた。ヨシモーンの大刀を逸らした一瞬が、掌の痛みとともによみがえる。
その時、足元の黒い塊が目に留まった。炉の脇には、砕けた鉱石や灰の混じる屑が寄せてある。
一つだけ、割れ目に鈍い光を抱いた塊が転がっていた。
〚金兵衛… 御館様、右足の先の鉱石をご覧くだされ!〛
『これか』
〚金兵衛… あれがあれば、刀を修復できます。せっかくです、名品へ作り替えてご覧に入れましょう!〛
『この残りかすでか?』
〚金兵衛… 表は屑でも、中には使える部分が残っています。御館様、儂の見立てをお確かめくだされ〛
ヒデヨシは石の前にしゃがんだ。煤に覆われた表面はざらつき、持ち上げると見た目より重かった。
「その鉱石、譲ってもらえないか」
「それか? 残りかすだぞ。まとめて捨てるところだったんだ。欲しけりゃ、くれてやる」
「ありがたい。刀も、ひとまず持ち帰るよ」
「そのまま使うなよ、次は折れるぞ。そうすれば、怪我ではすまない」
「分かった。ありがとう」
刀を腰へ戻し、鉱石を布で包む。亭主はもう槌を取っていた。
再び響き始めた音を背に、ヒデヨシは通りへ出た。
家への道から少し外れると、荷を降ろしたあとの空き地があった。
木箱が壁際に積まれ、通りの声は遠い。
奥まで見渡して、人影のないことを確かめる。
『金兵衛。ここならよかろう。どうすればよい』
〚金兵衛… 刀と石を箱の上へ。御館様、儂の仕事をご覧くだされ!〛
『ずいぶん気軽じゃな』
〚金兵衛… 腕を振るう時です。震えていては、よい仕事はできません!〛
ヒデヨシは鞘ごと刀を置き、隣に鉱石を載せた。
刃へ触れる必要はないのかと考えた時、二つがふわりと浮いた。
『おおっ』
箱から離れた刀と鉱石が目の高さまで浮いた。細い光が鞘から伸び、黒い塊の割れ目へ結びつく。
〚金兵衛… 亀裂を塞ぐだけでは、また傷みます。中まで整え、使える鋼を足すのです!〛
光の中で鉱石の表面がほどけた。煤をまとった屑が落ち、その内側から銀色の粒が引き出される。
粒は光の筋を伝い、刀へ吸い込まれていった。槌も炉もない。
それでも、どこかで鋼を打つような澄んだ音がした。
ヒデヨシは息を呑んだ。明るさが増し、鞘の輪郭さえ見えなくなる。
包帯を巻いた手で目を庇うと、金兵衛の声が弾んだ。
〚金兵衛… さあ、仕上げです!〛
まばゆい光が、空き地を満たした。
一瞬遅れて風が頬を撫で、光は細かな粒となって消えていく。
その中心には、一振りの刀が浮いていた。
柄巻きは乱れなく締まり、鍔には落ち着いた艶がある。
鞘も傷んだ箇所が整えられ、夕日を受けて柔らかく光っていた。
ヒデヨシが両手を差し出すと、刀は静かに降りてきた。
《システム… 名品・玉鋼刀を獲得しました》
『名品?』
〚金兵衛… 玉鋼刀です。御館様、儂の仕上げを、とくとご覧くだされ!〛
鞘から少しずつ刃を引く。現れた刀身は、澄んだ水のような光を帯びていた。
亀裂は跡形もない。刃の縁に沿う模様を、ヒデヨシは目で追った。
『見事じゃ。あの刀が、こうなるとはのぉ』
刃先を人の来ない方へ向け、そっと持ち上げる。
手に馴染む重みは残っているのに、構えた時の収まりが違った。
〖半兵衛… 名品とは、装備の品質と希少性を示す位列の一つです〗
『刀にも位があるのか』
〖半兵衛… はい。位列は下から、名品、絶品、真品、極品の四段階に分かれます。
武器だけでなく、防具や装飾にも適用されます〗
【官兵衛… 名品は、優れた品質を持つ装備にございます。絶品となれば、一万本に一振りほど。
真品は十万本に一振り生まれるかどうかという、伝説級の域です】
『では、極品は』
【官兵衛… 百万本に一振りという域さえ超え、存在するかどうかも怪しい神話級。
そうそう目にできるものではございませぬ】
ヒデヨシは刃の向こうに、夕空を見た。
『名品でもこれほどじゃ。上には、どんな刀があるのじゃろうな』
〚金兵衛… 上の位列を見る楽しみも残しておきましょう。
御館様、まずはその一本を使いこなしてくだされ!〛
【官兵衛… 刀の位列が上がっても、扱う技まで急に上達するわけではございません。
御館様、まずは手に馴染ませてください】
『分かっておるわい。大事に使う』
刃を確かめながら顔を上げた時、空き地の入口から声が届いた。
「失礼。オケハザードの英雄、ヒデヨシ殿ですか」
凛々しい青年が立っていた。背筋はまっすぐに伸び、整った顔には穏やかな微笑みがある。
だが、こちらを見る目は、刀の輝きよりもヒデヨシ自身を確かめているようだった。
ヒデヨシは刀を鞘へ収めた。
「ヒデヨシは俺だけど、英雄かどうかは分からない」
「では、ヒデヨシ殿と。私はハンベータと申します」
「ハンベータ殿。俺に何か用か?」
「お見かけしたので、ご挨拶を。あの戦の策を考えた方に、一度お会いしたかったのです」
「考えただけじゃ勝てない。兵が走って、陛下が斬った。それで勝てたんだ」
青年の目が、わずかに細くなった。
「そのお話を、もう少し伺ってもよろしいでしょうか」
「構わないよ。ただ、家族が待ってるから、歩きながらでもいいか」
「ええ。途中まで、ご一緒させてください」
二人は並んで通りへ戻った。同じ青年でも、ハンベータはひどく落ち着いて見えた。
「落ち着いてるな。俺なんか、さっき風呂で大騒ぎしてきたよ」
「湯が熱すぎましたか」
「まあ、似たようなものかな」
【官兵衛… 御館様、あの時は突然の告知でした。今は、お身体も落ち着かれたようで何よりです】
ヒデヨシは内心で頷き、ハンベータとの会話へ戻った。
ハンベータは兵数や隊列を尋ねた後、足を緩めた。
「雨が降らなければ、どうなさるおつもりでしたか」
最後の一撃より、起きなかった場合を見ている。ヒデヨシは青年へ向き直った。
「同じ策は押し通せない。敵の様子を確かめて、陛下に考え直してもらったよ」
「一度決めた策でも、ですか」
「雨が降るつもりで走って、晴れた道で討たれては、兵がたまらないだろ」
ハンベータは頷いた。
「策に兵を合わせるのではなく、状況に策を合わせるのですね」
〖半兵衛… この青年は、策の成否を分ける条件に目を向けています〗
『なかなか鋭いのぉ』
「ただ、敵が陛下の方へ詰めてきた時は、考える余裕などなかった。
刀を差し入れるので精一杯だったな」
包帯を見たハンベータの表情が、少し曇った。
「それでその傷ですか」
「ああ。無茶をしたって、ずいぶん叱られたよ」
「それでも、お入りになった」
「目の前で陛下が斬られそうだったから。間に合ってよかった」
しばらく、二人の足音だけが続いた。
やがてハンベータは、谷で兵を動かすならどこへ目印を置くかと問いかけた。
ヒデヨシが答えると、今度は伝令が遅れた場合の話になる。
気づけば、家へ曲がる角に着いていた。
「話してると、もう一度あの谷へ戻ったみたいだ」
「私はあの谷を見ておりませんから、ヒデヨシ殿のお話を頼りに、兵の動きを思い描いているのです」
「また話そう。俺も、君の考えを聞いてみたい」
「ぜひ。今日は、ご家族がお待ちですのでこの辺りで」
青年は丁寧に一礼した。ヒデヨシも手を上げ、家へ続く道へ入る。
振り返ると、ハンベータはまだその場で見送っていた。
ジパングで今孔明と呼ばれる天才に出会ったことを、ヒデヨシは今はまだ知らない。
ただ、また話したいと思う相手が一人できた。それだけで、帰り道は少し楽しかった。
「兄上、遅かったな」
戸を開けると、ヒデナガが膳を並べていた。
トモは鍋の蓋を取り、アサヒは待ちきれずにヒデヨシの腕へしがみつく。
「お風呂で眠っちゃったの?」
「眠ってないよ。刀を受け取りに行って、人と話しながら帰ってきたんだ」
「ご飯はできていますよ、ヒデヨシ。手を洗ってきてください」
トモの声に促され、ヒデヨシは玉鋼刀を壁際へ置いた。
ヒデナガの視線が、鞘で止まる。
「その刀、直ったのか?」
「ああ、見てくれよ。いい具合に仕上がっているだろう?」
「嬉しいのは分かるけど、今日は抜くなよ。ここにはアサヒもいるんだから」
「分かっている。お前、年々口うるさくなるよな」
「兄上が、年々心配を増やすからだろ」
トモが笑い、アサヒもつられて笑った。
夕餉の汁は熱く、煮た野菜は柔らかかった。ヒデヨシが一口飲むと、腹が大きく鳴った。
「英雄様も、お腹は鳴るんだね」
「アサヒ。英雄様ほど、よく腹が鳴るものだ」
「じゃあ、私も英雄様になれるかな」
「それなら、まず野菜を食べようか」
ヒデナガが椀を指すと、アサヒは急に真剣な顔で箸を取った。戦の話は、少しだけにした。
代わりにヒデナガが働き先で失敗した話をし、トモが隣家から教わった料理の話をした。
アサヒは、兄の帰りを迎えた通りで、誰より大きな声を出したつもりだったらしい。
「アサヒ、ちゃんと聞こえたぞ」
「ほんと?」
「ああ、帰ってきたなって分かったよ」
アサヒは満足そうに笑った。膳を片づけたあとも、話は途切れなかった。
やがて妹が眠そうに目を擦り、トモに連れられて寝床へ向かう。
ヒデナガは灯りのそばで、兄の包帯を確かめた。
「明日は王宮へ行くのか?」
「ああ、そのつもりだ」
「今日は、ちゃんと早く寝ろよ」
「お前もな」
弟が戸締まりへ立つと、ヒデヨシは壁際の刀へ目を向けた。
新しくなった刀がある。話したい青年がいる。そして、この家には待ってくれる者がいる。
『金兵衛。刀のこと、礼を申す』
〚金兵衛… 儂も嬉しく存じます。今夜は鞘に納めたまま、身体を休めてくだされ〛
『分かっておるわい』
今度の返事には、笑いが混じった。
翌朝、ヒデヨシは家族と朝餉を済ませ、黒い袖なし鎖帷子と銀の腹当てを着けた。
金色の組紐を締め直し、名品・玉鋼刀を腰へ差す。
掌には、まだ痛みがある。無理に柄を握らず、鞘の位置だけを整えた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい、兄上」
戸口の三人へ手を上げる。朝の城下町では、店の戸が開き、荷車が動き始めていた。
その向こうに、王宮の門が見える。
ヒデヨシは新しい刀の重みを腰に感じながら、門へ向かって歩いていった。




