第4話 猿の成長
ジパングの城門をくぐると、街道で聞いていた勝鬨とは違う声が、ヒデヨシたちを迎えた。
子供が跳ね、老人が手を合わせ、店先の女たちが籠いっぱいの果物を差し出す。
帰ってきた兵の名を呼ぶ者も、
列の向こうに家族を捜す者もいた。ヒデヨシは腰の剣へ手を添えた。
鞘の中には、ヨシモーンの大刀を逸らした時の亀裂が残っている。
掌の布にも、乾いた血がこびりついていた。
「兄上!」
人垣の向こうから、ヒデナガが駆けてきた。トモとアサヒもやって来た。
アサヒが飛びつき、手の包帯に気づいた。
「その手、どうしたの?」
「少し擦っただけだよ」
「少しで、そんなに血がつくわけはありません。ヒデヨシ、手を見せてください」
トモが兄の腕へ触れ、肩から足元まで確かめる。ヒデナガは兄の顔を見上げた。
「帰ってきてくれて、本当によかった。兄上、まずは座って手当てを受けてくれ」
ヒデヨシは、返す言葉を一瞬失った。
父と母は帰ってこなかった。その記憶を抱えて待つ三人には、勝敗よりも大事な事だった。
「待たせたな。皆は無事か?」
「それは俺たちが聞くことだろ」
ヒデナガの苦言に、ヒデヨシは笑った。王城で帰還の報告を済ませると、兵たちには休息が命じられた。
褒賞の沙汰は後日となり、ヒデヨシもまず傷の手当てを受けた。
亀裂の入った鉄の刀は点検のため預け、掌には新しい布を巻いてもらった。
指を動かすと痛むが、握れぬほどではない。
泥を落とそうと装束を払っていると、帰還兵の一人が城下を指した。
「猿殿、湯へ行くなら大浴場がよい。城下の者も使うが、湯は戦傷にはよく効くぞ」
「へえ、湯に浸かれるのか」
「そうだ。今日は俺達もお世話になる」
湯の一言で、ヒデヨシの顔がほころんだ。
戦場では濡れた衣が肌へ張りつき、夜風が骨まで冷やした。
ようやく無事に戻ったと分かると、疲れが脚へ出る。
「じゃあ、とりあえずまずは風呂だな」
【官兵衛… よいお考えです。御館様、傷の手当てを優先し、今日は身体を休めましょう】
『ようやく、ひと息つけるか』
〖半兵衛… 身体を休めることも、次の働きに必要です〗
〚金兵衛… 儂は釜と水路に興味があります! この人数を温める焚き口、見事な仕事でしょうな〛
『今は、まず風呂じゃ』
城下町の大浴場は、広い通りから少し入った場所にあった。
軒先に掛かった布が風に揺れ、裏手から薪の煙が上がっている。
入口では桶を抱えた男たちが、戦の噂と明日の商いを同じ調子で語り合っていた。
ヒデヨシは籠手と腹当てを外し、鎖帷子を脱いだ。着替えと一緒に置いて、湯気の立つ戸を開けた。
石で囲まれた大きな湯船。梁にこもる熱。桶を置く音と、流れる湯の音。その響きが柔らかく届く。
泥と汗を洗い流し、傷のある手を湯船の縁へ置いたまま、ゆっくり腰を沈めた。
「ふう……生き返るな」
温かさが腹から背へ広がった。脚の強張りがほどけ、気づけば肩まで落ちていた。
向こうでは帰還兵が、隣の男へ身振りを交えて戦を語っている。
「王様が、金色の鎧の前へ飛び出したんだ」
「それで、噂の猿が助けたのだろう?」
「おう。まだ若いのに、あいつは凄いぜ――」
ヒデヨシはそっと顔を反対へ向けた。
裸で湯に浸かっているところへ、英雄として指をさされるのはどうにも落ち着かない。
「今くらいは、ただの猿でいたいな」
湯の縁へ背を預け、目を閉じた。
その途端、意識の奥へ、聞き覚えのある澄んだ声が響いた。
湯面へ落ちた雫の音に重なって、声が続いた。
《システム… 天啓・覚醒機能を解放しました》
《システム… 天啓・誓約機能を解放しました》
《システム… 天啓・召喚機能を解放しました》
聞き終えたヒデヨシは、自分の胸へそっと手を当てた。
「ぶはっ!」
ヒデヨシは湯の中で身を起こした。膝が桶に当たり、縁へ引っかけていた手拭いが落ちた。
「おい、兄ちゃん。熱かったか」
隣の老人が覗き込む。
「いえ、ちょっと考え事をしていて」
周囲に光も文字も見えていない。ヒデヨシは手拭いを拾い、小さく息を整えた。
『三兵衛。今のは何じゃ』
〖半兵衛… 覚醒、誓約、召喚の三つが解放されました。順に確かめるのがよいでしょう〗
【官兵衛… 御館様、周囲には見えておりません。落ち着いて、一つずつ告知を確かめましょう】
『いきなり耳元へ話されたら、誰でも驚くわい』
〚金兵衛… 驚かれたことでしょう。御館様、手拭いを拾って、腰を落ち着けてから確かめましょう〛
『うむ。まずは落ち着かねばな』
口に出さずに問いかけても、三兵衛の声は変わらず返ってくる。
ヒデヨシは再び湯へ身体を沈め、意識の中の告知へ目を向けた。
《システム… 覚醒機能の名称を決めてください》
『今度は名付けか。そなたらの時と同じじゃの』
〖半兵衛… 名前を考える前に、御館様がこの力へ何を望むかを整理しましょう〗
『強くなることじゃ。あの大刀へ割って入った時、余の身体を白銀の光が包んだ。
あれが何か関わっておるかもしれぬ』
【官兵衛… 関わっている可能性はございます。しかし、今の告知だけでは同じ力と断定できませぬ】
掌が微かに疼いた。光を纏った一瞬は、夢ではない。
その証は、痛む手と、亀裂の入った剣に残っている。
『使い方も分からぬまま助かった、では次が危うい。
今度は自分の意志で、あの時の力を使えるようになりたい』
〖半兵衛… ならば、その志を思い出せる名はいかがでしょう〗
〚金兵衛… 御館様が忘れぬ名がよいでしょう。力を磨くたび、その志へ立ち返ってくだされ!〛
『忘れぬ名か……』
ヒデヨシは湯面を見つめた。
名。前世で幾度も変わった名。百姓の子から、草履取りへ。
戦場を駆け、城を築き、ついには天下を望む身となった。
その歩みの果てに、背負った名がある。
『豊臣……』
湯面を渡る光が、ゆっくり揺れた。
『前世の余にちなむなら、豊臣じゃ』
〖半兵衛… 御館様が歩んだ道を、ご自身で忘れぬための名でもありますね〗
栄光だけではない。力を得るほど遠ざかった人の顔。失った者。守り切れなかったもの。
それらも、その名と共に胸に残っている。
『今世では、同じ過ちを繰り返しはせぬ。天下を望んでも、その先で誰もが笑える世にせねばなるまい』
【官兵衛… 某も、その志に沿って助言いたします。
力を得た後の使い方こそ、共に確かめてまいりましょう】
〚金兵衛… では決めましょう。御館様が歩く道の名です。中身はここから鍛えていけばよいのです!〛
『覚醒の名は、豊臣。これに決める』
《システム… 覚醒機能の名称〈豊臣〉を登録しました》
《システム… 第一段階の名称を〈覚醒・豊臣〉に設定しました》
告知が消えても、湯船に変化はなかった。腕から光が噴き出すことも、湯が沸き立つこともない。
ヒデヨシは胸を撫で下ろした。
『風呂を壊さずに済んだの』
【官兵衛… 使い方が分かるまでは、人のいない所で確かめましょう。
今日は名が定まったところまでで十分かと存じます】
続いて、誓約へ意識を向けた。目の前の湯気とは別に、意識の奥へ円卓の幻が浮かんだ。
円の軌道に沿って、それぞれの球体が色を帯び、
七つの球体で虹を思わせる七色に輝き、ゆっくり巡っていた。
それぞれ回転しているが、名や用途を示す文字はない。
『この色が付いた球体は何じゃ。何かを選ぶのか』
〖半兵衛… 現時点では、あの光景が何を意味するのか分かりません〗
『官兵衛、鑑定ではどうじゃ』
【官兵衛… 七つの球体が巡ることは分かります。ですが、用途までは見極められません。
無理に触れるのはお控えください】
〚金兵衛… 儂にも仕組みは見えません。御館様、何か分かるまでは、無理に手を加えぬことです〛
『そなたらにも分からぬものがあるのか』
〖半兵衛… 分かっていることと、分からないことを分けるのも私の役目です〗
ヒデヨシは頷き、円から意識を離した。今度は召喚の働きを思い浮かべる。
再び円と虹色の七つの球体が現れた。
『同じように見えるのに、別の機能なのか』
【官兵衛… 似た姿でも働きが同じとは限りません。
御館様、今は何を呼び、どう呼ぶ力なのかも分かっておりません】
〖半兵衛… 焦らず、新たな情報を待ちましょう〗
ヒデヨシは湯面へ視線を戻した。桶が流れてきたので、隣の老人の手元へ押し戻す。
『分からぬものは置いておこう。まずは、明日もこの手を使えるようにせねばな』
〖半兵衛… ええ。先ほど、ご家族も手の傷を心配しておられました。
帰還しても、すぐ次の仕事へ向かえるとは限りません〗
『戦の最中は、握れておった。湯へ来てからの方が、指を動かすたびに痛むわい』
【官兵衛… 気が張っている間は、傷や疲れに気づきにくいものです。
今は、その痛みを無視せずお休みください】
ヒデヨシは湯船の縁へ置いた手を見た。新しい布の端が、少しだけ濡れている。
指を一本ずつ開く。小指のつけ根が引き攣った。傷をかばって握り直すと、今度は手首まで重くなる。
湯の温かさで脚は楽になったが、掌の痛みが消えたわけではなかった。
『明日は刀を確かめねばならぬ。だが、傷んだ手で振れば、また同じところを裂くか』
【官兵衛… その恐れがあります。刀を受け取る際に傷も診てもらい、握ってよいか、
手当てをする者へお尋ねください】
『刀が無事なら、すぐ稽古できると思うておった。手の方も見ねばならぬのじゃな』
〚金兵衛… 道具ばかり整えても、それを握る方が傷んでは働けません。
御館様、刃の亀裂も掌の傷も、両方を確かめましょう〛
点検に預けた刀が脳裏に浮かぶ。王の前へ差し入れた時の重さと、骨まで響いた衝撃。
あの一度を防げたからといって、もう一度防げるとは限らない。折れなかった刀へ、つい甘えていた。
『金兵衛。戻ったら、あの亀裂を見てくれるか』
〚金兵衛… もちろんです。ただ、何を使って直せるかは、実物と手に入る材料を見てからでございます〛
『金も、材料も要るのじゃな。勝った褒賞を、飲み食いで使い切ってはならんの』
〖半兵衛… 私は、まずご家族と相談なさるのがよいと思います。暮らしの支度もございますから〗
ヒデナガが出陣前に数えていた食料を思い出す。
自分が軍議へ出ている間も、弟は三人の暮らしを整えていた。
〚金兵衛… 刀を確かめる間も、無理に振り回さぬようお願いいたします。
亀裂の先まで、傷みが広がっているかもしれませぬ〛
『分かっておる。命を拾わせてくれた刀じゃ。粗末にはせぬ』
隣の帰還兵が、湯へ沈めた肩をゆっくり回していた。背には古い傷の跡がいくつも残っている。
『余だけが、明日のことを考えておるわけではないの』
【官兵衛… はい。勝って戻った方にも、休む場所と次の暮らしが必要です。
御館様も、そのお一人でございます】
ヒデヨシは、湯に映る自分の顔を見た。
天下人の記憶を持っていても、掌は裂け、脚は疲れ、熱い湯には思わず息が漏れる。
強さを確かめようと焦るより先に、この身体で何を引き受け、
誰のもとへ帰るのかを考えるべきなのだろう。
力に名を与え、分からないものを分からないまま置いておくこともできた。
『一度に天下人へ戻れるわけではないのじゃな』
【官兵衛… 戻る必要がおありですか。今世には、今世で果たすべき仕事がございます】
ヒデヨシはしばらく黙り、やがて小さく笑った。
『そうじゃのぉ。余はここから、歩めばよい』
〚金兵衛… 御館様、まず湯から上がってくだされ。顔まで赤くなっておりますぞ〛
〖半兵衛… 長湯で倒れては、休息の意味がなくなります〗
『分かった、分かった。続きは上がってからじゃ』
ヒデヨシが立ち上がると、隣の老人も目を開けた。
「考え事は済んだかい」
「ひとまずは」
「なら、外で水でも飲みな。この湯は明日もあるからな」
その言葉に、ヒデヨシは湯船を振り返った。
明日もある。戦場で剣を振るったのは、こういう何気ない一日を失わせぬためだった。
「ありがたいですね」
老人へ頭を下げ、濡れた足で石床を歩く。戸の向こうから、城下町の声と涼しい風が入ってきた。
湯を上がった猿の胸には、新しい名が一つ刻まれていた。
覚醒・豊臣。
その力の使い方も、二つの円の意味も、まだ知らない。ヒデヨシは水を飲み干し、
家族の待つ方角へ顔を向けた。
今度は、無事に帰ったことだけではない。明日からの自分を、少し楽しみにしながら歩き始めた。




