第3話 猿の初陣
伝令が駆け込んでから半刻も経たぬうちに、ジパング王城の軍議室には重臣が集められた。
地形盤の南東から、赤い駒が街道を埋めるように並んでいる。その先にはここ王都ジパングがあった。
次の伝令が、国境砦陥落の追加報告を携えて入った。
「スルガルド軍、およそ一万。ヨシモーン自ら総大将として率いております。
国境砦を落とし、北西へ進軍しております」
「こちらで動かせる兵はいくらおる」
ノレイオンが問う。
「五千。各地の守備兵を呼び戻しても、到着まで五日はかかります」
「籠城すべきです」
老将が進み出た。
「城壁と水堀なら十日は耐えられます。その間に援軍を求めれば――」
「食糧が持ちませぬ」
文官が遮った。
「避難民を含め、城内は三万人を超えます。備蓄は七日が限界です」
壁際に立つヒデヨシは、黙って丘陵の間を見つめていた。
〖半兵衛… 敵の進路にオケハザードがあります。
谷が狭く、大軍が一度に展開するには不向きな地形です〗
【官兵衛… 平地では兵数の差に押し潰され、籠城では民が飢えてしまいます】
〚金兵衛… 東風が湿り、西の雲も低くなっています。御館様、雨を見込んだ仕込みができそうです!〛
ヒデヨシは窓へ目を向けた。旗が西へ靡き、遠い丘の稜線が霞んでいる。
〖半兵衛… 明日の夕刻には谷へ雨雲が達し、雷雨となる見込みです。視界と合図が遮られましょう〗
【官兵衛… ですが、あくまで見込みです。
雨だけを頼りに三千を谷へ向かわせることは、お勧めできません】
〚金兵衛… あの辺りは粘土です。雨を吸えば車輪も兵も足を取られます。
御館様、降る前に仕込みを済ませましょう!〛
〖半兵衛… 敵王の位置と降雨を現地で確認し、条件が揃った時のみ攻める。
それならば、予測の誤差を作戦から切り離せます〗
【官兵衛… 撤退の判断を残すなら、某も異存はございません。
御館様、現地で条件を一つずつ確かめましょう】
ヒデヨシの口元が僅かに上がった。
雨で気配を絶ち、泥で進軍の足を止める。大軍の強みを、そのまま弱さへ変える道が見えた。
ヒデヨシは地形盤へ歩み寄り、敵軍の中央にある金色の駒を指した。
「陛下。狙うのは一万の兵ではありません。ヨシモーン、ただ一人です」
軍議室がどよめいた。
「敵本陣のヨシモーンをどう討つ!」
「農民の浅知恵で兵を死なせる気か!」
「説明してみせろ」
ミツヒデンの声が響いた。
「ヨシモーンを討つと申すならばそこに至るまでの策を示せ」
ヒデヨシは赤い駒を谷に沿って引き離した。
「先鋒を王都へ誘い、本陣との間を空ける。こちらが退いたと思えば、ヨシモーンは追撃を急がせる。
ヨシモーンがオケハザードへ入ったところへ、雨に紛れた三千で首級をあげる」
「残る二千は」
「王都の城門と民を守らせます」
「雨が遅れれば。ヨシモーンがオケハザードへ入らなければ」
「悟られる前に退きます。敵王の位置と雨、その両方が確かめられなければ、
斬り込むべきではありません」
ヒデヨシは金色の駒を取り上げた。
「首を取れば指揮が途絶える。長く伸びた隊列が混乱すれば、
逃げ道を残して敵を退かせることもできましょう」
嘲笑が消えた。ノレイオンは盤上の谷を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「ただ、必ず勝てる策とは言えません」
ヒデヨシは重臣たちの顔を見渡した。
「勝機を拾うための、大きな賭けです」
ノレイオンが立ち上がり、腰の剣を抜いた。
「面白いではないか猿、ならばヨシモーンの首は俺があげる」
「陛下自ら奇襲へ加わるなど、なりません!」
ミツヒデンが声を強める。
「陛下を失えば、ジパングの明日が絶たれます」
「兵だけを死地へ送り、自身は城壁の中でただ待てと言うのか」
剣の切っ先が、金色の駒のあった場所を指した。
「猿めが申した博打とやらに俺はのってやる。あとは我が天命に従って進むのみよ」
「なら、俺がヨシモーンまでの道を開きます」
ノレイオンは頷き、ミツヒデンへ向き直った。
「三千を率いる。足が速く屈強な兵を選べ。残りはミツヒデン、お前に預ける。
俺が戻るまで王都と民を守れ」
「配置と正面の千は猿、おまえだ。各隊はその指図に従え。全軍に命を伝えよ」
ミツヒデンは唇を結び、やがて深く頭を下げた。
「御意。必ず、お戻りください」
出陣の支度に、ヒデヨシは武器庫から鉄の刀と防具を支給された。
高い襟の黒い袖なし鎖帷子に腕を通し、銀の腹当てを締める。肩と上腕は覆わず、肩当ても着けない。
金色の太い組紐を腰で結び、黒い革と金属板を重ねた籠手、指先の出る手甲付き手袋を着けた。
黒い長袴の裾を脛で絞り、編み上げの革靴の紐と留め具を確かめる。腹当てには、まだ紋はない。
村を出た時の衣は、家族の荷へ畳んで残した。鎖の重みを肩に受け、青年は刀の柄へ手を添えた。
翌日の夜明け前、王都の東門が静かに開いた。
出撃前、合図役を集めた。雨の中でも笛を聞き取れる間隔で伏せ、三度の短音を隣へ渡す。
西隊と東隊の末端へ届いてから攻撃する手順を確かめた。
三千の兵は鎧の金具を布で包み、松明を持たずに街道を離れた。
先頭を進むノレイオンの隣には、支給された剣を腰に佩いたヒデヨシがいた。
「その剣、まだ手に馴染まぬか」
「はい。剣は苦手で……手にも余計な力が入ります」
「初めから得意なものなどいはしない。お前は知恵で勝機を拾え。」
ノレイオンは手綱を引き締めた。オケハザードは、低い丘陵に挟まれた谷地である。
街道は森と岩場の間を曲がり、前後の見通しが利かない。
ヒデヨシは千ずつの兵を西の森、東の丘、正面の窪地へ分けた。
西隊の千には、先鋒を誘う小部隊も含まれていた。
彼らは王都へ逃げるように見せて敵を引き離し、脇道から森へ戻る。
合流しても、西隊の兵数は千を超えない。
「敵が通っても手を出すな。合図までは動くな。金旗の本陣を狙うぞ!」
昼過ぎ、スルガルドの先鋒が谷を抜けた。
街道の先で、ジパングの小部隊が旗を捨てて逃げる。追撃の怒号と馬蹄が遠ざかっていった。
〖半兵衛… 誘導部隊は追撃を振り切り、西隊へ戻りました。
先鋒は北西へ進み、本陣との間隔が広がっています〗
夕刻、金旗が谷へ入った。ヨシモーンは輿に腰を下ろし、酒杯を傾けていた。
「ノレイオンも城へ逃げ帰ったか。先鋒を止めるな。そのまま進軍せよ」
護衛の一部が追撃へ回された。金色の鎧を囲む槍の列が、目に見えて薄くなる。
【官兵衛… 本陣の護衛は千に届きませぬ。ですが見つかれば、こちらが谷の底で袋叩きです】
ヒデヨシは低く垂れ込めた雲を仰いだ。森の葉裏が風に返り、湿った土の匂いが濃くなる。
〚金兵衛… 風が冷えてまいりました。縄と滑り止めの支度は済んでいます。
御館様、後は降り方をお確かめくだされ〛
〖半兵衛… 雲は谷の上へ達しました。敵先鋒との間隔も十分です。
本陣が雨で混乱したことを確かめてから、合図をお出しください〗
【官兵衛… 雨が来ても、敵の備えが崩れたかをお確かめください。
首級を取るまでは、まだ策の途中にございます】
ヒデヨシは合図筒から指を離し、兵たちへ伏せたまま待つよう示した。
最初の雨粒が頬へ落ちた。次の瞬間、雷鳴が丘陵を揺らした。
雨はたちまち白い幕となり、街道を泥へ変えた。荷車が沈み、馬が立ち往生する。
前列が止まっても、後列は押し寄せた。怒鳴り声も伝令の笛も、雨音に潰された。
〖半兵衛… 後軍が停止。本陣への接近路も、敵の視界から外れています。今が好機です〗
ヒデヨシは合図筒を握り、ノレイオンへ目を向けた。
「いくぞ猿!ヨシモーンの首へ案内せえぇぇ」
「御意!」
甲高い笛が三度鳴った。近くに伏せた合図役が同じ音を返し、次の者へ繋ぐ。
西の森と東の丘へ、短い笛音が順に渡った。
西の森から矢が飛び、護衛が盾を向けた。その背へ、東の丘から丸太と岩が落ちた。
悲鳴と泥水が噴き上がる。ヒデヨシは正面の千を率い、藪を突き破った。
「金旗を狙え! 雑兵に構うな! 陛下の道を開け!」
槍がぶつかり、盾が砕ける。敵の護衛は踏みとどまり、狭い道へ盾を重ねた。正面の隊の勢いが鈍る。
〚金兵衛… 右手の溝を塞ぐ板へ雨水が溜まっています。手前の留め具が腐っていますぞ。
槍の石突を差し込めば、板を外せます!〛
「右の兵、槍の石突で板を外せ! 残りは盾を支えろ!」
兵が板の隙間へ石突を差し込み、隣の兵と力を合わせて押し上げた。
留め具が抜け、板が外れる。斜面に溜まった濁流が盾兵の足元へ流れ込んだ。
「押せえ!」
ジパング兵が体当たりした。足を滑らせた敵が折り重なり、盾列に裂け目が生まれた。
「東隊、旗を上げろ! 西隊、伝令を通すな!」
丘の上に幾本もの旗が立った。雨に霞む旗影へ、兵が叫ぶ。
「ジパングの援軍だ!」
「背後にも敵がいるぞ!」
護衛が振り返った隙を、黒い外套の一騎が駆け抜けた。
「ヨシモーン!」
ノレイオンが馬を降り、剣を抜く。
「ジパング王ノレイオン、貴様の首、もらい受ける!」
ヨシモーンは輿を蹴って立ち上がった。
「小童が!三千ばかりで、この首が取れると思うたか!」
大刀が鞘を離れた。最初の一撃を、ノレイオンは横へ流した。
二撃目には踏み込み、金色の肩当てを削る。
鋼が噛み合う音が、雨の中で続いた。ヨシモーンは重い大刀を軽々と振るい、
ノレイオンは半歩ずつ身を外して剣を返した。
周囲でも兵は戦っている。王を助けようとする護衛を、ジパング兵が必死に押し留めていた。
ヒデヨシは剣を握り、二人へ近づいた。ノレイオンの剣が、ヨシモーンの脇腹を裂いた。
「貴様に、ジパングの地は踏ません!」
金色の巨体がよろめいた。勝機が見えたその時だった。
ヨシモーンの全身から、正体不明の黒い邪気が、薄く滲んだ。
雨の冷たさとは違う悪寒がヒデヨシの背を走った。
「この……小童が!」
ヨシモーンが踏み込んだ。傷を負ったとは思えぬ速さだった。
大刀を受けたノレイオンの腕が跳ね上がる。続く蹴りが胸当てを打ち、ノレイオンの片膝が泥へ沈んだ。
剣を構え直すより早く、ヨシモーンが頭上へ刃を掲げる。
【官兵衛… 陛下が間に合いませぬ!】
ヒデヨシは走っていた。ヨシモーンの腕と大刀に、黒い邪気が細く絡む。
渾身の力を込めた、首を断つ会心の一撃が振り下ろされた。
逃げればノレイオンが死ぬ。ヒデヨシは二人の間へ飛び込み、両手で握った剣を斜めに差し入れ、
大刀の軌道を外へ流そうとした。
「させるかあぁぁ!」
その一瞬、ヒデヨシの全身を白銀の魂気が包んだ。雨粒が弾け、黒い刃が僅かに逸れる。
鋼が軋み、ヒデヨシの剣に亀裂が走った。衝撃で柄が掌を擦り裂き、血が滲んだ。
足が泥へめり込み、全身の骨まで震えた。
それでも、ヒデヨシは退かなかった。大刀はノレイオンの肩先を掠め、泥へ深く食い込んだ。
力を振り切ったヨシモーンの上体が前へ流れる。白銀の光は、もう消えていた。
「陛下あぁぁ!今だあぁぁ!」
ヒデヨシが叫んだ。ノレイオンは立ち上がり、敵の懐へ踏み込んだ。
「うおおおおおおッ!」
両手で握った剣へ、残る力のすべてを乗せた。剣閃が雨を断ち、金色の鎧の隙間を深々と斬り裂いた。
ヨシモーンの目が見開かれる。大刀を引き抜こうとした指がほどけ、巨体が泥の上へ崩れ落ちた。
黒い邪気も雨の中で消えた。ノレイオンは荒く息を吐き、倒れたヨシモーンを見据えた。
そして血に濡れた剣を高く掲げた。
「スルガルド王ヨシモーン、討ち取ったぞぉぉ!」
腹の底から絞り出した雄叫びが、オケハザードに響き渡った。
「我々の勝利だあぁぁ!」
「えい! えい! おぉぉ!」
三千の兵が剣と槍を掲げ、勝鬨を上げた。
西の森から東の丘へ、谷の奥から街道へ、歓声が幾重にも重なった。
ヨシモーンの死を知った護衛が退き始める。
戻ろうとする先鋒と逃げる本陣が街道でぶつかり、スルガルド軍の旗が泥へ倒れた。
「追うな! 深追する必要はない!」
ヒデヨシが命じた。
「武器を捨てた者は斬るな! 俺たちは国を守りに来たのだ!」
退路を得た敵兵は、我先に谷を離れた。王を失った一万の軍は散り散りになった。
雨が弱まり、ノレイオンはヒデヨシの腕を掴んだ。
「おい猿、その手を見せろ」
「深い傷ではありません」
「血を流しながら言うな」
王は自分の外套を裂き、青年の手へ巻きつけた。
「猿よ、お前が割って入らなければ、俺は死んでいた」
「陛下に道を開けるとお約束致しましたから」
「ふんっ、こざかしい猿よ」
「少し、近道をしすぎましたね」
ノレイオンは呆れた顔で笑い、強く青年の肩を叩いた。
ヒデヨシは包帯代わりの布を見下ろした。先ほどの白銀の光も、腕へ湧いた力も、今はない。
ただ傷の痛みと、激しい鼓動だけが残っていた。
青年は亀裂の入った剣を慎重に鞘へ収め、腰の帯を締め直した。
「陛下。王都へ戻りましょう。皆が待っています」
「ああ。皆で帰るぞ」
勝報を携えた早馬が、北西へ走り出した。決戦の地、オケハザード。
その谷を満たした勝鬨と共に、ヒデヨシの名は、初めてジパング全土へ駆け巡っていった。




