第22話 猿の誓魂獣
「いざ参る!」
白銀の雷を纏うヒデヨシを、レヴェロンは見下ろしていた。
裂けた口が、ゆっくり歪む。街道の兵たちは、まだ立ち上がれずにいた。
その姿を見渡し、邪魂は喉の奥で笑った。
「少し光ったくらいで、我に歯向かうか。よいぞ。そなたの望みも、聞いてやろう」
黒い邪気が渦を巻いた。ヒデヨシは返事をしなかった。刀の向こうに敵を捉え、足元を確かめる。
セリーンは背後へ下がっていた。王と弟、車を囲む仲間たちも、刃を向ける先にはいない。
『皆は、余の背におるな』
〖半兵衛… はい、御館様〗
【官兵衛… あの者の内に、異なる魂の気配がございます。邪気を見失わぬよう】
ヒデヨシは息を吐いた。白銀の魂気が、玉鋼刀へ集まる。
「王になりたいか。世界が欲しいか。それとも、そなたもあの男の眼差しを――」
「一閃」
雷光が、街道を走った。
レヴェロンは笑った姿勢のまま、口を開いていた。ヒデヨシの刀は、既に振り抜かれている。
一拍遅れ、邪魂の胸へ白銀の線が現れた。
「……何だ」
線が、縦に裂けた。黒い邪気の内側から、白銀の雷が噴き上がる。
兵の一人が、目を閉じたまま肩を竦めた。
叫びも衝撃も、自分には届かなかった。恐る恐る顔を上げると、巨体がひび割れていた。
ハンベータは、開きかけた口を閉じられなかった。
カンベロンも地へついた手を動かせず、裂けていく闇を見つめている。
ヒデナガは王の亡骸を庇ったまま、兄の背を見た。これほどの敵を一撃で。
誰も、勝鬨を上げなかった。
「我が……この、我が……」
レヴェロンの肩が崩れた。邪気を集め直そうと腕を曲げるが、指の間から白銀の光が漏れる。
紫の目が、青年を睨みつけた。
「我が消えようと、これは始まりに過ぎぬ……これより我らが世界を統べる。覚悟しておけ!」
ヒデヨシは刀を下げ、見据えていた。胸は苦しい。涙の跡も、まだ頬に残っている。
その沈黙に、レヴェロンの顔が歪んだ。
「しかし、おまえはいったいなんなんだ! なぜおれの前で普通でいられる?」
崩れかけた腕が、兵たちへ向いた。
「あいつらを見てみろ! 震えて漏らしてやがるぜ!
おまえはなぜおれを見て漏らさない? そんなのおかしいだろう!」
喚く口から、闇がこぼれた。ヒデヨシは答えなかった。
怯えていた仲間を指すその手が、光にほどけていくのを見ていた。
レヴェロンが両腕を広げた。
天を仰ぐ。己の邪気で覆った空へ向け、裂けた喉から咆哮を絞り出した。
「いったい今日は……なんて日だ!……」
白銀の雷が、巨体の奥を貫いた。
紫の目が消え、笑い声も罵声も途絶えた。
空へ伸びていた闇が千切れ、薄くなった雲の向こうから光が射した。
《システム… 嫉妬の邪魂レヴェロンの浄魂を確認しました》
ヒデヨシは、静かに息を吐いた。
「是非も無し!」
風が戻った。土の匂いがする。遠くで、馬が小さく鼻を鳴らした。
「……生きてる」
兵の声だった。隣の兵が自分の手を見た。指を曲げ、開き、握っていた槍を落とす。
拾おうとして膝が崩れ、そのまま顔を覆った。
別の兵は、そばの者の肩を抱いた。名を呼び、返事を聞くと、何度もうなずく。
泣き声が少しずつ広がった。
ヒデヨシは、白銀の魂気を収めた。
腕に重さが戻ってきた。刀を持ち上げようとすると、肩が軋む。
足を確かめてから、セリーンのもとへ歩いた。
彼女は駆け寄ろうとして、膝へ手をついていた。立てぬまま顔を上げ、近づく彼を見つめる。
「ただいま」
セリーンの手が伸びた。先ほど離した陣羽織の縁へ触れ、そこに彼がいることを確かめる。
「……おかえりなさいませ、主様」
ヒデヨシはうなずき、彼女の肩へ手を添えた。
小さな金属音がした。
玉鋼刀の刀身に、亀裂が走っていた。ヒデヨシが目を落とした時、刃が折れ、土へ落ちた。
握った柄に、振り抜いた時とは違う軽さが残った。
『金兵衛……』
〚金兵衛… あの出力には、耐え切れなかったのでございます〛
彼はゆっくり膝をついた。セリーンが布を取り出す。
地へ落ちた刃を布越しに拾い、細かな破片も確かめた。
港へ持ち帰った日も、湖国へ向かった日も、この刀が腰にあった。
何度も手を掛けた柄を撫で、折れた刃と共に包む。
〚金兵衛… 御館様。その刀は、最後まで御役目を果たしました〛
『うむ。……よう、守ってくれた』
ヒデヨシは包みを懐へ収めた。新しい刀を求める言葉は、まだ出なかった。
立ち上がろうとした時、告知が意識へ届いた。
《システム… 天啓の成長段階が2から3へ上昇しました》
《システム… 天啓「先見」を解禁しました》
《システム… 誓約権現を解禁しました》
続いて、三つの声に結びついた働きが告げられる。
《システム… 検索・鑑定・創造が各一段階上昇しました。
半兵衛は参謀、官兵衛は軍師、金兵衛は名匠としての機能が上昇します》
半兵衛。官兵衛。金兵衛。
ヒデヨシは内心で、その名を一人ずつ呼んだ。
『そなたら、変わりはないか』
〖半兵衛… はい。御館様のお声も、こうして聞こえております〗
【官兵衛… 某も、変わらずお傍におります。新たな働きは、確かめながらお伝えいたします】
〚金兵衛… 儂も、金兵衛のままでございます。御館様こそ、お身体をお休めください〛
『分かっておる。……皆、礼を申す。そなたらがおったから、戻ってこられた』
三つの気配が、静かに応じた。
先見が何を見せるのか、まだ分からない。
今ここで試そうとは思わなかった。目の前には手を貸すべき人々がいる。
「主様。あちらを……」
セリーンの指す方へ、顔を向けた。
レヴェロンが消えた場所に、白金色の光が残っていた。
薄れていく邪気の向こうで、長い尾が一本、ゆっくり揺れる。
二本、三本。数えるうちに九つの尾が開き、巨大な狐の姿が現れた。
白金色の毛に、同じ色の魂気が煌いていた。
細く伸びる鼻先と、立った三角の耳。切れ長の目に宿る白金の瞳が、人々を見渡す。
兵が息を呑んだ。マサムネルが身を起こし、ヒデナガも顔を上げる。
狐は彼らへ迫らず、四肢を折って身を低くした。
「恐れるでない。童は、不知火キュウビ。あの邪魂に、身を奪われておった」
ヒデヨシは、官兵衛の告げた異なる魂の気配を思い出した。
「あなたも、あいつに囚われていたんですね」
「そなたの刃で、ようやく己の身へ戻れた。礼を申す」
白金の瞳が、ヒデヨシと、その傍らのセリーンへ向いた。
「人は、人を守るために、あれほどの力を振るうこともできるのじゃな」
ヒデヨシは一度、王の方へ目をやった。
「守れなかった人も、います」
キュウビは黙った。風が、その首の豊かな毛を揺らす。
「それでも、これから守れる人を、守りたいんです」
「……ならば、童も、その歩みに加えてはもらえぬか」
ヒデヨシが顔を戻した。
「共に生きる、ということですか」
「うむ。そなたを誓約主とし、その者を誓印主に。
童も、誓魂獣として共に在ろう。ただし、そなた一人の願いでは結べぬ」
狐の目が、セリーンを見た。
「そなたも、この者と共に生きると願うか」
セリーンはヒデヨシを見上げた。白銀の雷は既に消え、疲れの滲む顔がそこにあった。
彼が戻った時に触れた陣羽織の縁を、指先でそっと撫でる。
「はい。主様と共に、生きてまいります」
それから、狐へ向き直った。
「あなた様も、これからは御自身の願いで、お傍にいらしてください」
九つの尾が、ゆっくり下がった。
「よいのか。守り神とも、傾国の大妖とも呼ばれた身じゃぞ」
「今、ここであなた様のお言葉を聞いておりますから」
セリーンは怯まず、返事を待った。
狐の目元が、柔らかく細まった。
「……それで、よいのじゃな」
ヒデヨシはセリーンの手を取り、キュウビへうなずいた。
「俺たちと、一緒に帰りましょう」
三者の意思が重なった。
ヒデヨシとセリーンの胸の中心に、白金色の誓約紋が灯る。
衣の下からあふれた光に、二人は互いの胸元を見た。
《システム… 三者誓約が成立しました。
誓約主:ヒデヨシ。誓印主:セリーン。誓魂獣:不知火キュウビ》
告知を聞いたヒデヨシは、握った手へそっと力を込めた。
キュウビの大きな身体が、白金色の光に包まれた。九つの尾が内へ寄り、輪郭が小さくなっていく。
光がほどけた時、そこにいたのは、両腕に抱ける小さな九尾狐だった。
セリーンが身を屈めた。狐は小さな前脚を彼女の腕へ載せ、抱き上げられるまま胸元へ収まる。
白金の尾が、袖へ柔らかく触れた。
「この姿で、そなたと暮らすことになろう。本来の姿は、召喚の時だけじゃ」
「では……タマ、とお呼びしてもよろしいですか」
白金の耳が、ぴんと立った。
「タマ? 童は大妖九尾狐、その化身は玉藻前とまで呼ばれた身じゃぞ。それを、タマとは……」
小さな胸を反らすと、九つの尾がセリーンの腕からはみ出した。
「玉藻前様ですから、タマ様ではいかがでしょう。とても愛らしいお姿ですし」
「愛らしいのではない。威厳があるのじゃ」
ヒデヨシが口元を押さえた。白金の瞳が、すぐにそちらへ向く。
「そなた、今、笑ったな」
「いや。立派な名前だと思いますよ。でも、これから一緒に暮らすなら、呼びやすい方がいいでしょう」
「むう……大妖を、家の狐のように……」
セリーンが、腕の中の顔を覗いた。
「お嫌でしたら、別のお名前を考えます。ですが……私は、タマとお呼びしたいのです」
キュウビは返事をせず、鼻先を横へ向けた。しばらくして、小さく息を吐く。
「……仕方あるまい。そなたがそこまで申すなら、許してやろう。
ただし、童が大妖九尾狐であることは、忘れるでないぞ」
「はい。ありがとうございます、タマ」
セリーンが嬉しそうに背を撫でる。キュウビはもう一度何か言いかけ、結局、口を閉じた。
白金の瞳が閉じた。小さな身体が、彼女の腕の中で息をしている。
セリーンはその重みを支え直した。強張っていた指がほどけ、ようやく頬へ笑みが戻る。
そばで見ていた兵の口元も、わずかに緩んだ。ヒデヨシはその顔を見てから、周囲へ目を向けた。
「動ける人は、隣の人を確かめてください。怪我をした人から手当てを。
急がなくていい、声を掛け合ってください」
カンベロンが立ち上がり、医師と兵を呼んだ。
ハンベータは車の状態を確かめ、マサムネルが散った馬を落ち着かせる。
空が明るくなっても、亡くなった者は戻らなかった。
ノレイオンの傍らへ戻ったヒデヨシは、ヒデナガと共に王の衣を整えた。
医師と兵の手を借り、亡骸を車へ移す。
ヒデナガはイナリヒメを見た。彼女の傍らには、チャゲヤスの遺体を載せた車がある。
「俺は、このままイナリヒメ殿とスルガルドへ行く。兄上、上様を頼む」
「ああ。ハンベータも、一緒に行ってくれるか。負傷した人たちにも、無理をさせないでほしい」
「承知いたしました。道中の支度は、私が整えます」
ヒデナガが自分の腕の布を巻き直した。兄はその手元を見て、顔を上げる。
「お前も、ちゃんと手当てを受けろよ」
「兄上こそだ。立っているのも、楽じゃないだろう」
言い当てられ、ヒデヨシは苦く笑った。二人は短く肩へ手を置き合う。
コシヒカリへは伝令を出した。
邪魂を退けたこと、王が亡くなったこと、今後の行先を記した書付を託す。
ユキムランにはエゾリアへの帰還を願い、ケンシロンにはコシヒカリへの駐在を頼んだ。
既に預けた民の保護を続け、残兵の扱いも確かめてもらう。
国全体が落ち着いたとは、まだ言えなかった。
マサムネルはビワコネーゼへ戻る支度をしていた。
「ルイボスを、お願いします」
彼は答えかけ、言葉を止めた。父母に続き、後見の伯父も失った娘へ、何と告げればよいのか。
ヒデヨシも、すぐには続けられなかった。
「……俺からも、必ず会いに行きます」
マサムネルは深く頭を下げた。
「承知いたしました。それまで、私がお傍におります」
カンベロンは、ヒメノワールへ帰す兵と荷をまとめていた。ヒデヨシは彼を呼び止める。
「ヒメノワールを頼む。戻ったら、皆の飯を頼む。温かいものを食べさせてやってくれ」
カンベロンは一度、目を伏せた。それから、まっすぐ顔を上げる。
「承知いたしました。殿も、お戻りになりましたら、必ず」
ヒデヨシはうなずいた。
それぞれの道へ進むために、兵たちが手綱を取った。勝った軍の帰路に、歓声はなかった。
けれど、動けない者を置いていこうとする手もなかった。
セリーンが、タマを抱いて隣へ来た。
「主様。お疲れになりましたら、車でお休みくださいませ」
「うん。少し、そうさせてもらうよ」
ヒデヨシは王の亡骸を乗せた車へ手を添えた。
「上様。帰りましょう、ジパングへ」
返事はなかった。
隣で、小さなキュウビが身じろぎした。セリーンがそっと背を撫で、その歩調を彼へ合わせる。
車輪が、ゆっくり回り始めた。




