第21話 啓け護摩
「猿。……少し、肩を貸せ……」
ヒデヨシは、肩へ預けられた重みを抱き直した。
王の顔を見ようとすると、目の前が滲んだ。ノレイオンの手が、青年の陣羽織の前身頃をつかんだ。
「顔を……見せろ」
ヒデヨシが身を引くと、王はその顔をじっと見た。
何かを確かめるように、目元から口元へ、視線が動く。
「猿。そんな顔では、皆が不安になるぞ」
ヒデヨシは唇を結び、震える頬を持ち上げた。
ひどい笑顔だと、自分でも分かった。ノレイオンは、それを見て口元を緩めた。
「うむ。……お前は、そうしておれ」
血に濡れた拳が、ゆっくり上がった。
ヒデヨシの胸へ、そっと当たる。鎖帷子の金属環がかすかに鳴った。
その小さな音が、彼の内にはっきり響いた。
「後は頼んだぞ、猿。俺の夢を、ここに刻んでおけ」
拳が滑り落ちる前に、ヒデヨシはその手を両手で包んだ。自分の胸へ押し当て、何度もうなずく。
「上様に拾っていただいて……俺は、この世界で生きる道を見つけました」
涙が王の手へ落ちた。
「家族を連れて、何も分からないまま王都へ来た俺に……働く場所を、仲間を……」
息が続かなかった。ノレイオンは急かさず、彼を見ていた。
「本当に……ありがとうございました」
王の指が、包まれた掌の中で、わずかに動いた。
「海の向こうにも、人がおる。……まだ、会っておらぬ者がな」
ヒデヨシが顔を上げた。
「刀を交えるばかりでは、つまらぬ。共に飲めば……面白い奴も、おろう」
遠くへ向いていた王の目が、青年へ戻る。ヒデヨシは、今度は目を逸らさなかった。
「上様の夢の続きは、この猿が命を懸けて成し遂げます」
握った拳を、もう一度、胸へ当てた。
「人が笑って暮らせる国を作ります。海の向こうの人とも、手を結びます。
上様に見せたかったと……いつか、そう言える景色を、必ず」
ノレイオンは、少しだけ顎を上げた。気に入った答えを聞いた時の、あの顔だった。
「で、あるか!」
微笑みが、そこに残った。掌の中で、拳がほどけた。
ヒデヨシは手を握り直した。呼びかけるために口を開き、王の顔を見て、動けなくなる。
誰も、すぐには声を出さなかった。
イナリヒメの押し殺した嗚咽が聞こえた。ハンベータが目を伏せる。
マサムネルは膝をついたまま頭を垂れた。
ヒデヨシは、胸にある王の手を見つめていた。
ヒデナガの手が、兄の背に触れた。
「兄上……」
その声に、ようやく息が漏れた。ヒデヨシは王の手を抱えたまま、顔を伏せた。
街道へ、静かな風が吹いた。その風が、止まった。
足元の土が、細かく震え始めた。吊るされた荷が鳴り、馬が耳を伏せる。
遠くから聞こえるものが、雷なのか、悲鳴なのか、誰にも分からなかった。
幾人もの喉を重ね、地の底で絞り上げるような音だった。
兵が空を見上げた。黒い邪気が広がっていく。山の端を越え、街道を呑み、昼の光を隠していった。
ヒューマニアの空を、嫉妬の邪気が覆った。
「邪邪ん邪邪ん邪ん邪ん!贄が阿屁阿屁。」
地響きのような声が、頭の上へ降ってきた。
「邪邪ん邪邪ん邪ん邪ん!贄が阿屁阿屁。」
土の中から、同じ声が突き上げる。兵は耳を塞ごうとした。腕が上がらず、膝だけが折れた。
「邪邪ん邪邪ん邪ん邪ん!贄が阿屁阿屁。」
黒い邪気が渦を巻いた。低く垂れた闇の中に、二つの紫の光が灯る。
「邪邪ん邪邪ん邪ん邪ん!贄が阿屁阿屁。」
地面が大きく揺れた。ヒデナガは王を庇おうとした姿勢のまま、息を詰めた。
すぐそばのイナリヒメへ伸ばした手すら、動かせなかった。
「いい死だな!邪邪邪ん。いい気だな!邪邪邪ん。邪魂三人衆の美味しい喰魂!」
笑い声が、街道を震わせた。闇から現れた顔には、髪がなかった。
黒曜石のような黒灰色の肌に細かな亀裂が走り、紫の光が滲んでいる。
長く尖った耳の下で、大きく裂けた口が鋭い歯をむき出しにした。
人の列を見下ろす巨体が、邪気を押し広げて立ち上がった。
鮮烈な紫の両眼が、倒れた王と、その手を抱く青年を捉える。
「我はレヴェロン。嫉妬を統べる邪魂なり」
名乗りを聞いた兵の槍が、震えた。逃げる道は見えている。
それなのに、足の動かし方が分からなかった。
ハンベータは術を練ろうとした。吸った息が続かない。
カンベロンも唇を動かそうとして、声を失った。
ここで、死ぬ。誰かの命令を待つより先に、その思いが胸へ落ちた。
いくつもの戦場を越えた者も、初めて槍を握った者も、同じ空を見上げていた。
「ヒサマール! 人を思いどおりに動かしたかったか。よく動いたぞ、我の望むままにな!」
口が、さらに大きく歪んだ。
「息子を縛り、女を裂き、それで何を得た。己の身体さえ、己のものではなかったというのに!」
マサムネルは刀へ手を伸ばそうとした。指が、動かなかった。怒りはある。
主君と王妃を笑う口を斬りたかった。それでも、身体は従わなかった。
あの丘が浮かんだ。王妃を貫いた刃と、主君の胸の傷。
自分だけが生き残り、何一つ返せぬまま抱えてきた顔が、笑い声の中へ引きずり出された。
「ウジザンネン! 父に呼ばれれば飛びつくか。あれほど素直な贄も珍しい。
欲しいと喚き、奪えと煽られ、最後は我の腹を満たしただけよ!」
イナリヒメの肩が震えた。兄を奪った力が、勝ち誇っている。口を開いても、悲鳴は出なかった。
ヒデナガは彼女の名を呼ぼうとし、噛み締めた歯の奥で息を漏らした。
「ミツヒデン!」
ジパングの兵が顔を上げた。
「見てほしい、見てほしいと! すぐ傍らで見ていた男を、自分で斬ってどうする!
慈愛と聞けば縋りつく。ああ、なんと扱いやすい心であったか!」
ジパングの兵が槍を握り直そうとした。隣の兵も、同じように指を震わせていた。
誰一人、足を踏み出せなかった。
地面には、まだ地図があった。ミツヒデンが丁寧に包み、王が震える手で広げた紙。
その端が、邪気に押されてめくれた。
レヴェロンは、それすら面白そうに眺めた。
「三人とも、よい贄であったぞ。そなたらの願いなど、我には味を変えるための――」
その声は、遠く離れた地の空気まで重くしていた。
ヒメノワールの誓堂で、ヒーミコの手が止まった。
茶碗の水面が細かく震えている。外へ目を向けると、昼の明るさが失われていた。
胸へ冷たいものが沈んだ。近くにいた者が何事か尋ねても、すぐには答えられなかった。
「……セリーン」
娘は、あの方と共に出陣している。
祈ろうと合わせた指に、いつもの力が入らなかった。ヒーミコは息を整え、ようやく娘の無事を願った。
コシヒカリへ向かう街道では、ユキムランの馬が突然止まった。
手綱を緩めても進まない。隣のケンシロンも馬を止め、二人は同じ方角へ顔を向けた。
別れてきたヒデヨシたちのいる空が、黒く沈んでいる。
方天画戟を握る掌に、汗が滲んだ。ケンシロンは如意旋棍へ触れたまま、しばらく動かなかった。
先ほど対峙した邪魂将の力を、二人は知っている。
それとは異次元の魂気が、離れたこの道にまで届いていた。
「……兄者」
ユキムランの声に、ケンシロンが唇を結んだ。答える言葉が見つからなかった。
二人は黒い空を睨み、馬の首へ手を当てた。その空の下で、セリーンはヒデヨシの傍らにいた。
干将莫邪を抜かなければならない。主様を守らなければならない。
そう思うほど、指先から力が消えていった。
顔を上げると、ヒデヨシが見えた。
彼女はすぐそこにある陣羽織の前身頃をつかんだ。膝を引きずるように身を寄せ、その胸へ縋った。
「……主様」
助けてほしいとも、逃げてほしいとも続けられなかった。
ただ、この人から離れて最期を迎えたくなかった。
ヒデヨシの片腕が、その背へ回った。
王の手を抱いていた掌に、セリーンの震えが伝わる。
胸に寄せた頬は温かく、途切れがちな息が陣羽織を揺らしていた。
ヒデヨシは彼女を抱き留めた。自分の足も、まだ動かなかった。頭の上では笑い声が続いている。
「大丈夫だ。俺がいる」
最初の声は、少し震えた。
セリーンが衣を握りしめる。ヒデヨシは彼女の顔を見ようと、ゆっくり腕を緩めた。
「俺は、ここにいる」
彼女の目が、ようやくこちらへ向いた。ヒデヨシはその額へ、自分の額をそっと寄せた。
失った王の拳が触れた胸へ、今は彼女の温もりがあった。
ヒデヨシはノレイオンへ目を向けた。王の手を、まだ胸へ抱えていることに気づく。
セリーンを抱く腕と反対の手で、その指を静かに下ろした。
袖を整え、肩の下へ畳んだ布を差し入れる。それだけの動作にも、息を整える必要があった。
「ヒデナガ。上様を、頼む」
弟の目が、兄へ動いた。身体を庇うように丸めたまま、それでも小さくうなずいた。
ヒデヨシはセリーンを支え、ゆっくり膝を伸ばした。
彼女を自分の身体の陰へかばい、一歩だけ前へ出た。
陣羽織をつかむ手は、まだ離れなかった。
『半兵衛。官兵衛。金兵衛……力を貸せ』
三つの気配が、胸の内で応じた。王の最期が浮かび、息が詰まる。
陣羽織に縋る手へ、自分の震えまで伝わりそうだった。
庵で光を保とうとして力み、白銀の雷が途切れた時の感覚が、かすかに戻った。
アベノセーメの言葉を思い出す。怒る自分だけを見れば、誰を守りたいのか見失う。
『この悲しみを、どうすればよいのじゃ』
〖半兵衛… 御館様。泣いたままでも、私どもはお声をお待ちしております〗
陣羽織をつかんだ指が、震えている。
〖半兵衛… その方の震えを、感じておられますね〗
『うむ。……まだ、生きておる』
目の前には闇があった。その下に、負傷した兵がいる。
王を庇おうとする弟も、兄を失ったイナリヒメも、息を詰めたまま耐えている。
【官兵衛… 何を守るために戦うのか。今の御館様には、もうお分かりかと存じます】
〚金兵衛… どうか、儂らにも共に支えさせてください〛
ヒデヨシは、セリーンの背をそっと撫でた。
胸へ回した手を戻し、握り込んでいた自分の指を一本ずつ緩めた。
息を吐く。すぐには整わず、喉が震えた。それでも、もう一度吸った。
胸へ、拳を当てた。鎖帷子の金属環が、かすかに鳴った。涙が、一筋、顎を伝った。
それでも、ここへ託してもらった。自分が生きて、この続きを歩くために。
『……これ以上、誰の願いも弄ばせぬ。余は、生きておる者を守る』
胸に当てた拳を、ゆっくり下ろした。
『待たせたのう。皆、力を貸せ』
【官兵衛… 承知いたしました。御館様と共に】
〚金兵衛… この時のために、儂らがおります〛
〖半兵衛… はい。皆で、同じ時に〗
三つの声が静まり、ヒデヨシの呼吸を待つ。庵で学んだ言霊を、共に確かめた。
『正式の言霊を、内から頼む。余も、共に唱える』
レヴェロンが顔を近づけた。
「今度は、そなたか。何を望む。王か、国か。それとも、死んだ男の声を、もう一度――」
ヒデヨシは、その誘いへ返事をしなかった。
ヒデナガの足元で、黒い砂が舞った。ハンベータは下がれと命じようとして、息を詰める。
カンベロンの掌も、まだ地面から離れなかった。
ヒデヨシは、足の裏で地面を踏み締めた。王へ顔を向け、胸へ拳を当てる。
「上様、行ってまいります」
三兵衛が、同じ一呼吸で言霊を紡いだ。
〖半兵衛… 天啓よ、四魂の扉を啓け――《護摩》〗
【官兵衛… 天啓よ、四魂の扉を啓け――《護摩》】
〚金兵衛… 天啓よ、四魂の扉を啓け――《護摩》〛
三つの声が重なる内で、ヒデヨシ自身も同じ言霊を結んだ。
声へ出したのは、扉を開く最後の一節だった。
「啓け――《護摩》!」
胸の奥で炎が走った。幸魂と荒魂を隔てていた壁が焼け、二つの働きが呼応する。
怒りを抑え込むことも、優しさを捨てることもなかった。守りたい。そのために戦う。
分かれていた思いが重なった瞬間、白銀の雷が全身を駆け抜けた。
土が巻き上がった。凄まじい魂気が竜巻のように立ち昇り、ヒデヨシの髪と陣羽織を激しく揺らす。
黒い陣羽織が翻り、銀の縁取りと両胸の織田木瓜が、雷光の中へ浮かび上がった。
兵が腕で顔を庇った。だが、ヒデヨシは足を動かさなかった。刀を握る手も、もう震えていなかった。
《システム… 天啓覚醒、第一段階「豊臣」の発動を確認しました》
白銀の雷が肩から腕へ巡る。その光を無理に引き留めず、ヒデヨシは呼吸を続けた。
三兵衛の声は、それぞれのまま内にあった。彼らと自分が、同じ意思でこの力を支えている。
〖半兵衛… 保てております、御館様〗
ヒデヨシは静かにうなずいた。
すぐ傍らで、セリーンが瞼を開いた。
雷光に伏せていた顔を上げると、白銀の魂気の中から、ヒデヨシが振り返った。
途方もない力を纏っていた。それでも、自分を見る眼差しは、先ほど抱き留めてくれた人のままだった。
「……お戻りを、お待ちしております」
セリーンの指が、陣羽織からそっと離れた。
ヒデヨシはその手を見て、うなずく。彼女は半歩下がり、胸の前で両手を重ねた。
まだ震えていたが、もう目を伏せなかった。
ヒデナガが、ようやく深く息を吸った。
マサムネルの指が柄へ届き、ハンベータとカンベロンも顔を上げた。
誰も勝利を叫ばない。ただ、白銀の光の中に立つ男を見つめていた。
ヒデヨシはレヴェロンへ向き直った。
胸に残る拳の感触と、離れた指の温もりを受け止め、玉鋼刀を抜いた。
白銀の雷が、刀身へ巡る。
「いざ参る!」




