第20話 覆水盆に返らず
スルガルドへ続く街道の空が、黒く染まった。
コシヒカリへ向かうヒデヨシは、手綱を引いた。馬が前脚を止める。
背筋を這った冷たさは、ヒサマールのいた丘で感じたものよりも深かった。
振り返ると、別れたばかりの軍列の方から、禍々しい邪気が立ち昇っていた。
『上様のいる方角じゃ』
〖半兵衛… まだ遠くへは進んでおりません。道を戻れば、分岐から追いつけます〗
「ケンシロン、ユキムラン殿。コシヒカリを頼みます。俺は上様の所へ戻ります」
ユキムランが馬首を返しかけた。ヒデヨシは彼を見て、首を振る。
「残った兵が民を襲うかもしれません。そちらを任せられる人が必要なんです」
一瞬、唇を結んだ義弟が、方天画戟を握り直した。
「承知しました、兄者。こちらはお引き受けいたします。どうか御無事で」
ケンシロンも短くうなずいた。
セリーン、ハンベータとカンベロン、マサムネルが、ヒデヨシに続いて馬を返す。
駆け出すと、黒い雲の下で鳥が散った。
『官兵衛、あの邪気は、ウジザンネンから移ったものか』
【官兵衛… 同じ根源の可能性はございます。ただ、今は誰が呑まれたのか確かめられません。
味方の軍列です。近づくまでは、斬る相手をお決めになりませぬよう】
『分かっておる。生きている者を、助けに行くのじゃ』
〚金兵衛… 御館様、馬の脚も御覧ください。
道に車輪の深い跡がございます。そこで転べば、助けに届きません〛
ヒデヨシは手綱を引き、轍を避けて道の端へ寄せた。その横を、マサムネルが追いついてくる。
「先で軍列が崩れております。車が道を塞いでいるかもしれません」
「人がいたら止まってください。踏ませずに、抜けられる所を探しましょう」
返事を聞くより早く、風に交じって馬の嘶きが届いた。
街道では、ノレイオンが立ち尽くしていた。
落馬したミツヒデンが、黒い邪気の中から起き上がる。
肩の鎧が押し広げられ、握った刀に、濡れたような闇がまとわりついた。
王は既に馬を下りていた。目の前の顔を確かめようと、一歩、近づく。
「ミツヒデン。俺だ。分かるか」
刀が持ち上がった。ノレイオンは動かなかった。
刃が振り下ろされる直前、横から一振りの剣が割り込んだ。
ヒデナガだった。銀の魂気が刃を包み、黒い刀の腹を斜めに押し流す。
切先が王の肩を外れ、街道の土へ突き刺さった。
巻き直したばかりの布に、血が滲んだ。ヒデナガは歯を食いしばり、王を押し退ける。
「上様、しっかりしてください! もはやあれはミツヒデン殿ではございません!」
ノレイオンの目が、刀を握る手へ向いた。
ミツヒデンの腕が震えていた。土から抜けぬよう、自分の刀を押さえつけている。
「……逃げ、てくだ……さい」
喉を裂くような声だった。ヒデナガが剣を構え直す。その姿を捉えたミツヒデンの顔に、苦痛が走った。
『違う。その者ではない。上様でもない。私が斬る者など、ここにはいない』
『そなたを見ているぞ』
甘かった声が、今は耳の奥で笑っていた。
『望みどおりだ。ノレイオンは、そなたから目を離せぬ』
『こんなことを望んだのではない!』
両手で柄を押し込む。刀を捨てようと指を開いても、黒い筋が関節を締め上げた。
身体の内側から、別の力が腕を持ち上げていく。ノレイオンが兵へ腕を振った。
「車を下げろ! 負傷者を先に、道を空けよ!」
王の声に、止まっていた兵が動き出した。ヒデナガも車の方を確かめる。
イナリヒメは兄の遺体を載せた車のそばで、立ち上がろうとしていた。
「イナリヒメ殿、そのままで! すぐにそちらへ行きます!」
黒い刀が土を抉って抜けた。
ノレイオンが身を引く。切先は喉へ届く寸前に曲がり、陣羽織の端だけを裂いた。
ミツヒデンの歯の間から血が落ちる。必死に捻った手首へ、邪気が幾重にも巻きついた。
王は、裂けた布を見なかった。その手だけを見ていた。
「お前が、止めたのか」
ミツヒデンの唇が動いた。声の代わりに、黒い息が漏れる。
次の一撃は、王の腹へ向かった。王が刀で受けると、重さが肩へ食い込んだ。
押し返した先で、見慣れた顔が歪む。
「ミツヒデン。刀を離せ」
離したい。王の声へ返事をしたい。
その願いさえ奪うように、邪気が顎から頬へ這い上がった。
『そなたは、受け入れた』
レヴェロンの声が、奥深くで響いた。
ミツヒデンは一度だけ、王へ顔を上げた。涙が頬を伝った。その目を黒い影が覆い、刀の震えが止まる。
膨れ上がった邪気が、王を押し退けた。
それまでわずかに逸れていた刃が、今度は真っ直ぐ、ノレイオンの胸へ来た。
王は受け流し、踏み込む足を止めた。相手の口元には、もう苦悶さえ浮かんでいない。
「……待たせたな、ミツヒデン」
低い声と共に、王の全身へ金色の魂気が灯った。
ヒデナガがイナリヒメの車まで下がり、兵と共に支える。
彼女は王へ駆け寄ろうとする足を止め、震える手で車の縁をつかんだ。
金の光の向こうで、二振りの刀がぶつかった。
ノレイオンは踏み込み、刃を返した。
邪魂将となったミツヒデンが、刀身を黒く伸ばして受ける。金色の火花が散り、足元の石が砕けた。
王は右へ回った。刀を払う癖を知っていた。ミツヒデンがまだ若かった頃、幾度もその剣を見ていた。
だが、黒い刀は払われた勢いのまま折れ曲がり、王の脇腹を裂いた。
ノレイオンが息を詰める。踏みとどまった足へ、血が落ちた。
「俺の大事な家臣の身体で……好きに暴れてくれるな」
返事は、低い笑いだった。王は間合いを詰めた。
突き出された刃を弾き、肩をぶつけるほど近づいて刀を振るう。
黒い鎧に亀裂が入り、その隙間から邪気が噴き出した。
ミツヒデンの身体が傾いた。支えようと伸びかけた王の手へ、黒い刃が跳ね上がる。
ノレイオンは腕を引き、刀を握り直した。
呼びかければ戻るのではないか。もう一度、名を呼べば。
けれど、先ほどまで刀を逸らしていた男は、自分の意思で腕を動かすことすらできなくなっていた。
王の唇が、強く結ばれた。
「……お前を、そのままにはしておけぬ!」
金色の魂気が刀へ集まった。黒い刀の周囲では、蛇のような邪気が幾筋も鎌首を上げる。
ノレイオンが腰を落とした。向かいの影も、同じように踏み込む。
「魂術・天下布武!」
「邪術・汚邪蝮!」
金の斬撃が、街道を覆う黒い筋を断った。ちぎれた邪気の間から、刃が何重にも捻れ、王へ迫る。
王は退かなかった。ミツヒデンの胸へ、金の刃を通す。
同時に、黒い刃が王の胴を貫いた。
ヒデナガが叫んだ。土煙が二人を包み、イナリヒメが口元を押さえる。
金の光が細くほどけていった。ノレイオンが膝をつきかけ、刀を地へ突いて踏みとどまる。
その前で、黒い鎧が崩れ始めた。
ミツヒデンの顔が現れた。瞳に残った黒いものが引き、見開いた目が、王の傷へ止まる。
「……私が……」
刀を離した。今度は、指が開いた。
膝から崩れた身体へ、ノレイオンが手を伸ばす。肩をつかんだ掌から、薄い霧が漏れた。
「上様……その、お傷を……」
ミツヒデンは傷へ手を当てようとした。王がその腕を取る。
手当てを命じる声を聞いて走ってきた兵へ、ヒデナガが布を求めた。
二人の周囲では、まだ黒い邪気が土を這っていた。王はそれを見据え、刀を離さなかった。
だが、倒れた戦友へ向ける声だけは、静かだった。
「お前のそういうところは、変わらんな」
ミツヒデンが顔を上げる。
「いつも真っ直ぐに俺を見て、必要なものを揃える。足りぬものを見つけ、無駄を省く。
どれほど助けられたか、知れぬ」
「私は……」
「だが、いつからかお前は、人が立ち止まる理由を考えず、無駄だと切り捨てるようになった。
猿は、そこに足を止める」
王は浅く息を吸った。血に濡れた指で、戦友の肩を握り直す。
「お前は、無駄なく先を考える。猿もお前からなら学べる。
二人が競えば、この国はより豊かに先へ進めると思っておった」
ミツヒデンの唇が震えた。猿の働きを数えるたび、自分の働きが減っていくように感じていた。
同じ国を豊かにするための力を、いつから奪い合うものと思ったのか。
「俺はな……ミツヒデン、ジパングをお前に任せようと考えておった」
「……ジパングを私にですか?」
「荒れた国を収め、民の暮らしを戻す。ジパングの王として、国々を束ねてもらうつもりだった」
ミツヒデンの視線が、地へ落ちた包みを探した。ノレイオンもそれを見た。
「俺には、海の向こうを見たいという夢がある。
だが、今ある国を放り出して行くわけにはいかぬ。お前と未来を語らねばならなかった」
王は息を整えた。その間も、手を離さない。
「続きは向こうでと、申したであろう。スルガルドへ着けば、お前の考えを聞けると思っておった」
王が口にした未来には、自分がいた。
新たな務めを競い取らずとも、誰かを遠ざけずとも、この人は自分との日々が続くものと思っていた。
「……私は、いったい何という事を……」
言葉が途切れた。自分の手が薄れている。王の血が、指の間をすり抜けた。
ミツヒデンはその指を握り込み、詫びようとした。猿を妬んだ。王の笑顔を独り占めしたかった。
そのために、差し出されたものへ縋った。
「私は、猿殿を……妬んでおりました。
あなた様の目が、あの方へ向くたびに……自分は、もう必要ないのだと……」
ノレイオンは黙って聞いていた。涙が、ミツヒデンの顎から落ちた。
「上様が私を見なくなったのではない……私が、上様を見失っていたのですね……」
風が、落ちた包みの布をめくった。ヒデナガが拾い上げ、そっと王の傍らへ置く。
王が紐を解いた。濡れた指ではうまくほどけず、ミツヒデンが手を伸ばした。
いつものように紐を外そうとした指先が、布を通り抜ける。
ノレイオンが、その手の止まった場所を見た。
それから自分で紐を外し、地図を広げた。先ほど伸ばしてあった端には、新しく土がついていた。
「この先も、お前と共に歩めるものだと疑うことはなかった」
「……上様、そのお話の続きをお聞きしたかった……」
地図の上へ落ちた涙が、スルガルドの印を濡らした。
あの晩も、こんなふうに地図を広げた。兵糧の数が合わず、二人で夜を明かした。
王が眠ってしまい、起こすか迷っているうちに、自分まで机へ突っ伏したことがあった。
朝、先に目を覚ましたノレイオンが、冷めた茶を飲んで顔をしかめた。
その顔に、声を出して笑った。もう一度、その朝へ戻れれば。
ミツヒデンは顔を覆おうとした。霧となった指では、涙すら拭えなかった。
「申し訳、ございません……上様は、ずっと……私なんかを……」
「見ておった。お前が、俺を見失っておる時もずっとな」
王の声が掠れた。兵の足音が止まった。ヒデナガは受け取った布を握りしめ、二人を見つめていた。
隣でイナリヒメが、こぼれる涙を拭っている。
ミツヒデンは、王の顔へ目を戻した。見失うまいとするように、ひたすら見つめた。
「お許しを……いったい何とお詫びを。私は、上様の信頼を……」
「ミツヒデン……いや……戦友よ!」
若い頃と同じように王は自分の名を呼んだ。
ただ、目の前の王の声を聞いていた。ノレイオンが手を伸ばした。
肩をつかんでいた指が、霧の中で空を切る。それでも、手を引かなかった。
「……是非に及ばず」
王は最後まで自分を戦友と呼んでくれた。涙を流したままミツヒデンは微笑んだ。
ミツヒデンが伸ばした手は、王の指へ触れる寸前にほどけた。頬が、肩が、淡い霧となって消えていく。
ノレイオンの手だけが、そこに残った。
街道を駆け上がったヒデヨシは、地に広げられた地図と、宙へ伸びた王の手を見た。
ミツヒデンの姿は、もうなかった。
《システム… 邪魂将ミツヒデンの撃破を確認しました》
告知に重なり、王の足元から黒いものが離れた。
ちぎれた邪気が街道の先へ流れ、残る闇の向こうへ消えていく。
〖半兵衛… 御館様、上様が……〗
ノレイオンが地図を畳もうとしていた。指が折り目を捉えられず、紙が滑った。
その膝が、崩れた。ヒデヨシは駆け寄り、王の身体を受け止めた。
腕に触れた陣羽織が、重く濡れていた。
「……上様」
王の顔が、わずかにこちらへ向いた。何か命じようと唇が動き、閉じる。
しばらくして、声が落ちた。
「猿。……少し、肩を貸せ……」
ヒデヨシはうなずき、背と肩を支え直した。ヒデヨシの肩に、ノレイオンの額が触れた。
王の指は、まだ、いなくなった戦友へ差し出した形のままだった。




