第19話 水魚之交
いつからだろうか。こんなにも、遠くに感じるようになったのは。
ミツヒデンは、傍らに立つノレイオンの横顔を見ていた。王が手を伸ばせば届く場所に、自分はいる。
兵を動かす時も、書付へ目を通す時も、まず呼ばれるのは自分の名だ。
それなのに、王の心だけが遠くへ行ってしまったように思えた。
そんな自分が、分からなかった。ノレイオンが顔を向ける。
「どうした、ミツヒデン。先を急ぐぞ」
「はっ。失礼いたしました。すぐに支度を整えます」
手元には、負傷者と残る兵の報告があった。数字は読めていた。
次に何をせねばならぬか、分かっている。
ただ、顔を上げるまでに、一呼吸遅れた。
仮の本陣では、戦の後の片付けが続いていた。
兵が担架を運び、散った荷をまとめ、折れた槍を道の端へ寄せている。
ノレイオンは卓の上へ、スルガルドの地図を広げた。
「もうすぐだ、もうすぐここでも、ようやく次に進める話ができる」
街道を辿った指が、王都の印で止まる。
「ミツヒデン。ここからだ。この先もお前にはしっかりと働いてもらう」
ミツヒデンの目が、王の指へ向いた。その時、外から足音がした。
「上様。戦況の御報告に参りました」
ヒデヨシだった。黒い陣羽織の裾には土がつき、籠手にも荷を運んだ擦れが残っていた。
「ウジザンネンは、ケンシロンとユキムラン殿が討ちました」
「そうか。よくやった」
王の口元が緩んだ。その顔を、ミツヒデンは見た。
「チャゲヤス殿は、イナリヒメ殿を守って亡くなられました。今は、ヒデナガが付き添っています」
ノレイオンの笑みが消えた。地図へ置いていた手を、ゆっくり戻す。
「……妹は、無事か」
「傷を負っていますが、ご無事です。チャゲヤス殿と共にこちらに向かわれています」
王はしばらく黙った。それから、脇に控える兵へ顔を向けた。
「丁重にお連れしろ。チャゲヤスを、故国へ帰すぞ」
ヒデヨシが頭を下げる。
「ヒデナガも、同行させていただけますか。妹君を守ると、チャゲヤス殿に約束しましたので」
「許す。あやつも傷を負っておろう。道中で無理をさせるな」
「ありがとうございます」
王の目が、再び青年へ戻った。
「猿。お前はコシヒカリへ向かえ。主を失った兵が残っておる。民を巻き込ませず、収めてこい」
「承知しました。ユキムラン殿とマサムネル殿にも、力をお借りします」
「うむ。ヒメノワールでやってきたことを忘れるな。戻って暮らせる国にしてやれ」
「はい。民の暮らしを、優先させます」
言葉を交わす二人の間へ、ミツヒデンは入れなかった。
王が自分へ向き直った時も、笑いかけた顔ばかりが、目の奥に残っていた。
「ミツヒデン。俺とスルガルドへ来い。お前と決めねばならぬことがある」
ノレイオンは地図を畳み、彼へ渡した。
「続きは、向こうでな」
「……承知いたしました」
受け取った紙の端が、少し折れていた。ミツヒデンは指でそこを伸ばし、巻き直した。
湿った手袋で傷めぬよう、乾いた布で包み、紐を掛ける。若い頃から、幾度もしてきた手つきだった。
ヒデヨシが礼をして下がった。ここでも、猿なのだな。
そう思った瞬間、袖口に残っていた冷たさが、腕の奥へ潜った。
黒いものが、脈を辿って胸へ入り込む。
『あと、わずかだ……』
ミツヒデンは息を詰めた。だが、呼ぶ相手を探すより先に、抱えた地図の包みを押さえた。
奪われてはいけないものを、守るように。
出立を待つ馬のそばで、ヒデヨシは弟と向き合っていた。
ヒデナガの腕には、新しく巻いた布があった。
「手当ては、受けたんだな」
「ああ。兄上こそ、向こうで無理をするなよ」
ヒデヨシは布の端を確かめ、手を離した。少し先では、イナリヒメの乗る車の支度が進んでいる。
チャゲヤスの遺体も、共に運ばれる。
「イナリヒメ殿を頼む。お前も、休める時にはきちんと休めよ」
「分かっている。コシヒカリの方は、頼んだぞ」
兄弟は肩へ手を置き、短くうなずき合った。
ケンシロンが車のそばへ進み、深く頭を下げた。イナリヒメは顔を上げ、何か返そうとして、声を失う。
彼は返事を待たず、もう一度頭を下げた。
ヒデナガが車の傍らへ立った。彼がいるのを確かめてから、ケンシロンはヒデヨシの方へ戻った。
ユキムランとマサムネルが待ち、ハンベータとカンベロンも馬の手綱を取っている。
ヒデヨシはセリーンと共に、コシヒカリへ続く道を見た。
『戦に勝っても、終わりではないのじゃな』
〖半兵衛… 兵が去った後の暮らしを、確かめる必要がございます〗
【官兵衛… 降る者への扱いを揃え、民への略奪を防ぎましょう。
前の統治を知らぬまま命じることも、避けねばなりません】
〚金兵衛… 御館様、井戸や倉もお確かめください。人が戻るには、水と食が要ります〛
『うむ。皆の力を借りよう』
「行こう。まず、向こうで暮らす人の話を聞く」
ヒデヨシの一行が、道を分かれていった。
その背を見送ってから、ノレイオンも馬へ乗った。
ミツヒデンが隣へ進み、スルガルドへ向かう列が動き出す。
揺れる鞍の上で、地図の包みが腕に触れた。
まだ家の蔵に、古い書物が並んでいた頃のことを、ミツヒデンは思い出していた。
彼は、貴族の家に、次男として生まれた。
兄は、何をさせても覚えが早かった。書を読めば意味をつかみ、剣を取れば教える者の目が変わる。
両親が客へ兄の話をする時、その顔には、家の将来への期待があふれていた。
ミツヒデンは、その隣で同じ書を開いた。一度では覚えられない。
二度読んでも、兄のようには答えられない。
皆が寝静まってから灯をともすと、昼には気づかなかった一行が、ようやく理解できた。
翌朝、それを話そうとすると、兄はもう次の頁へ進んでいた。
悔しかった。けれど、兄を嫌いにはなれなかった。
稽古のあと、うまく立てない弟へ手を貸すのも、その兄だった。
「明日も続ければよい。今日できなかったとしても、明日できるかもしれない」
ミツヒデンはうなずき、痛む掌へ剣を戻した。
いずれ兄が家を継ぐ。その時に役に立てるよう、せめて帳面の間違いだけは見逃すまいと思った。
その兄が、事故で死んだ。
若かった。家を継ぎ、これから幾つもの仕事を果たすはずだった人が、突然、いなくなった。
父は兄の書付を机から片付けられなかった。母は食卓に椀を一つ多く置き、気づくたびに黙って下げた。
ミツヒデンは、空いた場所を埋めようとした。
家の仕事を覚え直し、訪ねてくる者に頭を下げた。
夜には帳面を繰り、朝には人を訪ね、兄が残した約束を果たそうと走った。
うまくいったことを報せれば、両親の顔が少しでも上がる。その一瞬が欲しくて、疲れを隠した。
だが、両親は悲しみから立ち直れず、家の仕事も滞りがちになった。
兄を失ったことを境に、家は傾き始めていた。
売り払う品が増え、訪ねる人が減った。家は没落の一途を辿り、蔵の棚が空になった。
ミツヒデンが尽くしても、最後には家名さえ守れなかった。
家が断絶したあと、両親は自ら命を絶った。
残されたミツヒデンには、帰る屋敷も、仕事を報せる相手もいなかった。
兄の代わりになれなかった。
その思いが、何をしていても胸の底に残った。
路頭に迷い、日ごとの仕事を探した。荷の数を合わせ、書付を写し、人の代わりに使いへ走る。
家柄を名乗っても、食にはならなかった。
ある日、運び出す荷と受取の書付が合わなかった。
片付けを急ぐ者が、少しくらいと取り合わない。ミツヒデンは残り、薄暗くなるまで数を確かめた。
書き間違いの箇所を見つけ、渡す先へ知らせた時には、皆、帰っていた。
翌朝も、彼は同じ場所へ来た。その姿を、何度も見ていた男がいた。
「お前が、ミツヒデンか」
顔を上げると、ノレイオンが立っていた。まだ王冠を戴く前の、若い顔だった。
ミツヒデンは慌てて膝を折った。家の名を口にし、兄の話をしようとした。
「兄は、私などとは違い、何事にも優れた者で……」
「お前の兄の話を聞きに来たのではない」
言葉が止まった。ノレイオンは、彼がまとめた書付へ手を伸ばした。
「お前が直したのであろう。誰も見ておらぬところまで、よく確かめた」
ミツヒデンは、返事ができなかった。
「ミツヒデン。お前に頼みたい」
自分の名が、もう一度呼ばれた。兄の代わりでも、失われた家の次男でもない。
目の前にいる男は、ミツヒデン自身を見ていた。
「俺の元で働く気はないか?俺には、お前のような者が必要なのだ」
差し出された手を見てから、彼は顔を上げた。
「……私などが必要なのですか?私なんかでお役に立てるのでしたら喜んでお仕えいたします」
ノレイオンが笑った。その笑顔を、忘れたことはなかった。それからの日々、ミツヒデンは走り続けた。
前線へ送る糧が足りなければ、倉の残りと道の長さを確かめた。
雨で車が止まると、運ぶ順を変え、兵が戻れる道を残した。
ノレイオンは、彼が整えた糧を食べ、彼が知らせた道を進んだ。
勝って帰った晩、皆の前で名を呼んだ。
「ミツヒデン。お前が繋いだ道で、帰ってこられたぞ」
彼は頭を下げた。顔を上げると、こちらを見て笑う男がいた。
王座を継いだ日も、その務めは変わらなかった。
幾つもの書付を抱えて王のもとへ行けば、王は空いた椅子を示した。
夜が更け、灯を足しながら、翌日の兵と民の食を相談した。
ミツヒデンが言いにくいことを告げると、ノレイオンは眉を寄せた。
反論し、考え込み、最後にはもう一度彼を呼んだ。
「ならば、どうする」
その問いへ答えることが、彼の生きる場所になった。
王が進むために、自分がいる。自分の仕事の先に、王の夢がある。
水と魚のように、共にあって初めて進める日々だった。
今も、同じ場所にいるはずだった。馬の蹄が石を踏み、ミツヒデンは現在へ戻った。
隣のノレイオンは前を見ている。
自分に預けた地図を気にする様子もなく、落ち着いた手で手綱を握っていた。
「スルガルドへ着いたら、まず人と倉を確かめるぞ」
「はい。残る役人から、帳面も集めさせます」
返事は、昔のように出た。ノレイオンがうなずき、横顔に笑みを浮かべる。
「お前が後ろにおれば、俺はまだ先へ行ける」
胸が、痛むほど熱くなった。その熱へ、別の声が触れた。
『……猿は隣で、お前は後ろか……』
ミツヒデンの指が、地図の紐へ掛かった。
『お前はいつまで、あの男の背中を見て生きるのだ』
そんな意味ではない。上様は、自分を必要としておられる。
そう思おうとした。だが、目の前に戻るのは、猿へ向けられたあの笑顔だった。
『あの男を支え続け、この国を整え、皆の帰る場所を守り続けているのはいったい誰だ』
『……黙れ』
ミツヒデンは声にせず押し返した。隣には王がいる。今すぐ呼べばよかった。
けれど、何を告げればよいのか。
猿への賞賛を自分にも……。昔のように、自分の名を呼んでほしい。
そんなことを、国を担う重臣筆頭が口にできるはずもなかった。
『我はレヴェロン。慈愛を宿すものなり』
名を聞いた瞬間、腕を這っていた冷たさが、甘い温もりへ変わった。
『我を受け入れよ。ノレイオンの眼差しを、再びそなたへ向けてやろう』
慈愛。
家を失ったあと、この王が自分へ注いでくれたもの。
その言葉が、差し出された手の記憶と重なった。
『上様を、傷つけるつもりはない』
『ならば、取り戻せ。お前だけを見続けていた、あの眼差しを』
ミツヒデンは地図を抱き直した。
まだ、王から託されたものがある。続きは向こうでと、約束された話がある。
『私は……上様から、大事な務めを与えられている』
『大事な務めなら、あの猿にも与えられている』
喉が詰まった。
『そなたが欲しいのは、次の仕事か』
違う、そうではない。
否定した瞬間、自分が何を願っていたか、隠せなくなった。
功を認められたいだけではなかった。誰かの代わりに置かれたくなかった。
あの人にまで、自分でなくてもよいと思われることが、怖かった。
『もう一度、こちらを向いていただきたい』
それだけだった。
レヴェロンは、答えを急がなかった。馬の揺れに合わせるように、胸の奥で温もりを広げた。
『そなたの願いを、受け止めよう』
ミツヒデンは、地図を包む布へ額が触れそうになるほど、顔を伏せた。
『……あの方の眼差しが、他者へ向くことなど自分には許すことができない』
自分で口にした願いに、胸が震えた。
『ならば、我を受け入れよ』
長い沈黙のあと、内心でうなずいた。
『あの眼差しを……取り戻すことができるのなら……』
胸の温もりが、突然、重くなった。満たされるはずだった場所へ、黒いものが流れ込む。
地図を握る指から、感覚が消え始めた。慈愛ではなかった。
誰かを大切に思う心を装い、他へ向く眼差しを憎ませていた。それは、嫉妬だった。
ミツヒデンが息を吸おうとした。喉が鳴り、声にならない。
布の包みが、指から落ちた。地図が道へ転がる音に、ノレイオンが振り返った。
「ミツヒデン。どうした」
返事の代わりに、鎧の隙間から黒い邪気が噴き出した。
馬が嘶く。周囲の兵が手綱を引き、列が乱れた。
ノレイオンは馬を止めた。槍へ手を掛けた兵より早く、隣へ身を乗り出す。
「ミツヒデン。こちらを見ろ」
その声に、彼が顔を上げた。王は自分を見ていた。
仕事の先でも、遠くの猿でもない。目の前のミツヒデンへ、その目を向けていた。
かつて差し出された手が、今も自分へ伸びている。
「……上様、お逃げください」
呼び返した顔が、ほんの一瞬、若い日のようにほどけた。
手を伸ばそうとした。その腕を、黒い邪気が包んだ。
次の瞬間、顔までもが禍々しい闇に呑まれた。




