第17話 賢者の師
ヒメノワールの港には、荷を運ぶ掛け声が戻っていた。
帰還したヒデヨシは居館へ荷を預けると、セリーンと誓堂へ向かった。
隣を歩く彼女は、幾度か袖口を整えている。
「セリーン、緊張しているのか?」
「主様こそ、先ほどから歩くのが遅くなっておいでです」
苦笑いするヒデヨシへ、セリーンが微笑んだ。その手を取って、誓堂の扉をくぐる。
ヒーミコは二人の顔を見て、手にしていた書付を伏せた。
「おかえりなさい。お二人とも、お元気そうで何よりです」
並んで腰を下ろすと、ヒデヨシは背筋を伸ばした。
「義母上。セリーンと夫婦になることを、お許しください。二人で生きていこうと、誓約いたしました」
ヒーミコの視線が、娘へ移る。
セリーンは母の目を見て、微笑みながら深くうなずいた。
「私も、そう願っております。母上」
母はすぐには答えず、重ねられた二人の手を見た。やがて、その上へ自分の手を添える。
「娘を、よろしくお願いいたします。セリーンも、この方を大切になさい」
「はい」
二人の声が重なった。セリーンが頬を染め、ヒデヨシも笑う。ヒーミコの目尻が柔らかく下がった。
王から祝いの衣を授かったことまで報告すると、母は娘の袖へ触れ、よく似合うと喜んだ。
二人の顔が近づき、留め具を確かめる指が動く。ヒデヨシはそっと立った。
「俺は外で待っています。二人で、ゆっくり話してください」
セリーンが見上げると、彼はうなずいて席を外した。
足音が遠ざかったあと、ヒーミコは娘の両手を包んだ。
「幸せですか」
セリーンは唇を結び、一度だけ目を伏せた。母の手へ、温かい雫が落ちた。
「はい。……私も、あの方に甘えてよいのだと、教えていただきました」
ヒーミコは娘を引き寄せた。幼い頃のように背を撫でると、セリーンは少しの間、その肩へ顔を埋めた。
誓堂の外では、ハンベータとカンベロンが待っていた。
「二人とも、俺がここにいるって、よく分かったな」
「お戻りになれば、まずこちらへお越しかと」
ハンベータが微笑み、カンベロンは傍らにつないだ馬へ目を向けた。
「私共の師が、殿に会いたがっております。お時間を頂けますか?」
「二人の師匠か。それは一度会ってみたいな。案内してくれるのか」
面白そうな話に、ヒデヨシの声が弾んだ。
誓堂へ立ち寄る侍女にセリーンへの伝言を頼み、二人と馬に乗る。
街を抜け、海沿いの道へ出た。波の音が蹄の間に入り、潮風が陣羽織を揺らす。
「その師匠はやはり厳しい人なのか」
「お教えになることは、厳しいですね」
ハンベータが答えるより早く、カンベロンが口元を引き締めた。
「ですが、知らぬまま先へ進ませる方ではありません」
「それならば、俺は二人より叱られそうだな」
『さて、どのような御仁じゃろうな』
〖半兵衛… お二人とも、少し背筋が伸びておられますね〗
〚金兵衛… 教わったことが身についておれば、師に会う時にこそ姿勢へ出るものでございます〛
【官兵衛… 御館様も、まずはお話を伺いましょう】
『余だけが叱られる前提で進めるでない』
薄い霧の向こうに、小さな庵が現れた。
三人は馬をつなぎ、戸口をくぐった。ヒデヨシは数歩進み、思わず振り返る。
外から見た壁の位置を、とうに越えていた。
奥には畳が続き、中央の卓で一人の女性が茶を淹れている。
金と銀の長い髪が肩から流れ、金色の瞳が三人を捉えた。
「来たわねー。僕ちゃん、童ちゃん。お客様を立たせたままにしないのー」
二人が揃って頭を下げた。
「師匠。ヒデヨシ殿をお連れしました」
「あなたがサルちゃんねー。私はアベノセーメ。まあ、座りなさいよー」
ヒデヨシは座布団へ腰を下ろした。湯気の向こうで、彼女の姿の縁が淡く透けている。
「驚いた? 今の私は残魂よー。怖がらなくても、お茶は飲めるわー」
「驚きました。でも、怖くはありません。この家も、外から見た時よりずっと広いんですね」
「いいところに気づくわねー。でも、今日は家の話をしに来たんじゃないでしょう?」
『何も尋ねておらぬうちから、手の内に入れられたわい』
〚金兵衛… 御館様、この奥行きは、いったいどのような仕組みで――〛
『そちらは後じゃ』
茶碗を置いた彼女の声が、突然、胸の内へ届いた。
『サルちゃん。中の三人も、少し落ち着きなさいよー』
ヒデヨシの指が止まった。
三兵衛も黙った。隣のハンベータは茶碗を取り、カンベロンは卓の菓子を勧めている。
二人には何も聞こえていない。
『そなた……余の内が分かるのか』
『三つの声が賑やかにしていれば、気になるわー。弟子たちには、聞こえてないから大丈夫だよー』
【官兵衛… お心遣い、感謝いたします】
『礼儀正しい子ねー。三人とも、サルちゃんと一緒によく聞いておきなさいよー』
アベノセーメが手を打った。次の声は、部屋に響いた。
「さて。湖国の戦で、どうやってオーイオチャさんのところへ駆けつけたの?」
ヒデヨシは茶碗を卓へ戻した。
「落ちる姿が見えて……気づいたら、抱き留めていました。瞬雷。その言葉だけは、覚えています」
「同じことを、今ここでできる?」
返事が止まった。あの踏込みを思い出しても、何をどう動かしたか、順序がつかめない。
「……今は、自分の意思では、あの力を使えるとは言えません」
彼女はうなずいた。からかうような笑みは、消えていた。
「なら、まずその力を知りましょう。偶然使えた、理解し使えたでは訳が違うもんねー」
カンベロンが、彼の前へ水を置いた。
「殿。今日は、あの戦にて使った力の神髄を確かめましょう」
ハンベータも静かにうなずく。
「私たちも、師匠に分かるまで教えを請いました。殿も分かるまで幾度でも教えを請うて下さい」
ヒデヨシは水を一口飲んだ。杯の底を卓へ戻す手が、先ほどより落ち着いていた。
「アベノセーメ殿、教えてください、お願いします。次は自分の意思で大切な人を者を守りたいのです」
アベノセーメは指を四本立てた。
「あなたの内には、もともと四つの魂の働きがあるの。幸魂、荒魂、奇魂、和魂よー。
普段は、その時の心に応じて、表へ出るものが移り変わるわー」
指を一本ずつ畳み、最後に掌を閉じる。
「四魂の間には壁がある。その隔たりを取り除き、複数の魂を融合させる。それが天啓覚醒よー」
「なるほど。新しい別の魂が増える訳ではないんですね」
「そう。サルちゃんの内にあるの四つの魂が、共に働くのー」
『余の内にあるもの……』
〖半兵衛… 私たち三人の存在とは、分けて考える必要がございますね〗
『うむ。そなたらを一つにする話ではないのじゃな』
内心へ、彼女の声が重なる。
『ええ。三人を消して一人にする話じゃないわー。サルちゃん、自分の心から目を逸らさないでねー』
再び卓の上へ指を置き、彼女は皆へ聞こえる声で続けた。
「誰かを大切に思い、傷つけば癒したいと願う。その幸魂と、守るために戦う荒魂。この二つの融合が、第一段階の豊臣よー」
ヒデヨシの胸に、王妃の微笑みと戦友の顔が浮かんだ。守りたかった。
目の前の刃を止めたかった。その先を思うと、拳が固くなる。
「怒りが強ければ、力も強くなるんですか」
「怒る自分だけを見ていたら、誰を守りたいのかを見失うわー。
あなたが、あの時どう感じたか。私が勝手に決めることはできないわー」
彼女は握られた手を見た。
「瞬雷と豊臣も、同じだと理解しないでねー。
白銀に光った、それだけで覚醒を使いこなした事にはならないわー」
ヒデヨシは拳をほどいた。
「もっと早く動けたら、とばかり考えていました。でも、速く動けるだけでは足りないのですね」
「その先で何をするか、自分で選べるようにならないとねー」
彼女は弟子二人へ向き直った。
「僕ちゃん、童ちゃん。少し、サルちゃんに目を閉じてもらうわー。身体はここに置いたままよー」
二人が座る位置を直した。
ヒデヨシは促されて瞼を閉じ、茶の香りを残したまま、白い意識の空間へ入った。
アベノセーメが向かいに立っている。三兵衛の声も、すぐ近くにあった。
『壁を焼き、扉を開くための言霊よー。魂そのものを焼くのではないわー』
教えられた言葉を、ヒデヨシは一語ずつ確かめた。
『天啓よ、四魂の扉を啓け――《護摩》』
意識の内で、隔たりの一部に炎が走った。
大切な人の笑顔を思い、その人へ向かう刃を止めようとする。
二つの思いが触れた瞬間、白銀の雷が彼の周囲に細く巡った。
『これが……豊臣か』
光を保とうと力むと、胸の内が乱れた。雷はすぐに途切れ、伸ばした指の先から消える。
【官兵衛… 御館様、深追いはなりません。まずお戻りください】
〚金兵衛… 光を大きくすることより、今の感触をお確かめください〛
〖半兵衛… 今は、ここまででよろしいかと。急ぐ必要はございません〗
『うむ。ここで退くとしよう』
彼女がうなずいた。
『初めてなら上出来よー。でも今のは、意識の中の短いお試し。
外の身体で自在に扱えるようになったとは、思わないことー』
『礼を申す。まだ、余には分からぬことが多い』
『だから教わりに来たのでしょう? 焦らず、一つずつ覚えていけばいいのよー』
瞼を開くと、ハンベータが彼の顔を覗いていた。
「お加減は、いかがですか」
「大丈夫だよ。まだ少しだけど、自分の力がどんなものか分かった気がする」
彼の手には汗が滲んでいた。カンベロンが布を差し出し、アベノセーメは冷めかけた茶を淹れ直した。
「最後に、術との違いだけ覚えて帰りなさいねー。力をどう練り、どう働かせるか。
その形と手順が術式。四魂を融合させる覚醒とは、区別するのよー」
「術式を学べば、俺も魂術の力を扱えるようになりますか?」
「そのために学ぶのよー。でも、ただ使い方だけ覚えて帰っちゃ駄目だよー」
「術の使い時も、ですか」
「そう。サルちゃん、帰ったら隣に誰がいるのか、忘れないでねー」
門をくぐる時、そばを歩いていたセリーンの顔が浮かんだ。力を使う場所には、守りたい人もいる。
ヒデヨシは開いた掌を見つめ、ゆっくり握り直した。
「分かりました。使う時も、使う場所も、俺の意思で決められるようになります」
ハンベータとカンベロンは口を挟まず、静かに見守っていた。
師が二人へ目を向けると、揃ってうなずく。
「僕ちゃん、童ちゃん。サルちゃんの稽古にも付き合ってあげてねー」
「はい。私たちにも、よい稽古になります」
ハンベータが微笑み、カンベロンはヒデヨシの空になった杯を下げた。
「詳しい練り方も、これから教えてあげるわー。今日は、おしまい。奥方を待たせすぎないことねー」
三人は頭を下げ、庵を出た。
霧を抜けると、海に夕日が映っていた。帰りの馬上で、ヒデヨシは二人を交互に見た。
「二人とも、あの方に教わったんだね」
「はい。今でも、教わることばかりです」
ハンベータの声には、誇りと親しみがあった。カンベロンが続ける。
「殿が御自分の力を知りたいと願われるなら、
師匠にお会いするのがよいと、二人で相談しておりました」
「連れてきてくれて、ありがとう。俺も、ちゃんと学びたいんだ」
街へ入ると、灯のともる店先から夕餉の匂いがした。二人と別れ、居館へ馬を向ける。
門の前には、セリーンが立っていた。
彼を見つけると、一歩進み、ほっとしたように微笑む。
その顔を見て、ヒデヨシは自然に馬を速めかけ、すぐに手綱を緩めた。
通りを歩く親子が、彼の前を横切っていた。
『余も、まだ学ばねばならぬな。三兵衛』
〖半兵衛… はい、御館様〗
【官兵衛… 某も、お傍で学ばせていただきます】
〚金兵衛… 儂も、あの庵では尋ねたいことが山ほどございます〛
『まずは余の稽古じゃぞ』
笑みをこぼして馬を下りた。セリーンが差し出した手を取る。
「おかえりなさいませ、主様」
「ただいま。待たせたね。母上とは、ゆっくり話せた?」
「はい。次はお二人で、もっとゆっくりいらっしゃいと」
「うん。一緒に行こう」
ヒデヨシは彼女の腰へ手を回した。セリーンも身を寄せ、その肩の力が抜ける。
「今日は、どちらへ?」
「二人の師匠に会ってきたよ。面白い人でね。セリーンにも、聞いてほしいんだ」
「もちろんでございます」
二人は並んで自室へ戻った。
ヒデヨシは教わったことを、彼女に話せるところから、ゆっくり語り始めた。




