第15話 是非も無し
黒い陣羽織の裾を払って、ヒデヨシが本陣へ入った。
シンゲルと交わした撤兵の約束を報告すると、ノレイオンはすぐに各地の斥候へ確認を命じた。
翌朝から、エゾリアの旗が下がり始めた。街道を押さえていた騎馬が北へ戻り、谷の見張りも退く。
約束どおり使者が来て、追撃を行わぬための手順を定めた。
「こちらも退く。王都へ戻るぞ」
ノレイオンの命に、陣の中へ安堵の息が広がった。
帰り支度をする兵の間で、猿が門を開けた、戦を止めたと声が上がる。
ヒデヨシは荷を積む兵を手伝いながら首を振った。
「約束を守ってくれたのは、エゾリアの王だ。皆も、最後まで気を抜かずに帰ろう」
少し離れた場所で、ミツヒデンはその声を聞いていた。
自分が兵糧を繋ぎ、前線を保った日々には、誰もそんな顔をしなかった。
青年が通ると、疲れた兵まで顔を上げる。
握っていた書付に、深い皺が寄った。
『また、猿か』
王都へ戻る列の向こうで、黒と銀の背が揺れていた。ミツヒデンは目を逸らし、丸めた書付を伸ばした。
それから、およそ一年が過ぎた。
湖国に残していたヒメノワール軍も、暮らしと警備の引継ぎを終えて帰還した。
ルイボスは故国に残り、マサムネルが近衛隊長としてその傍らを守る。
ノレイオンの後見とヒデヨシの代理の務めは続き、書付と使者が湖と港を行き来した。
ヒデヨシもヒメノワールへ戻っていた。
港では船を待つ荷が増え、働く者の呼び声に、ようやく慣れた日々が戻る。
その頃、エゾリアから二つの知らせが届いた。
ユキムランとカイロヒメが婚姻し、シンゲルが王位を譲ったこと。
そして、その一月後、先王が病で世を去ったことだった。
最期を待たず、二人が国を継ぐ姿を見たい。シンゲルは、あの夜の内約を自ら改めていた。
ヒデヨシは報せを読み終え、しばらく紙を置けなかった。
『……見届けられたのじゃな』
〖半兵衛… はい。お二人が並んで国を担う姿を、御覧になれたのでしょう〗
窓の外で、港の鐘が鳴った。
シンゲルが保っていたウジザンネンとの同盟は、代替わりを機に継続されなかった。
新王はジパングとの正式な同盟を申し出て、王妃と共に王都を訪れるという。
ノレイオンから、ヒデヨシにも来訪の命が届いた。
「ハンベータ、カンベロン。留守を頼む」
「承知しました。湖国からの報告も、こちらで受け取ります」
ハンベータが書付を揃え、カンベロンは出立後の荷の受入れを確かめた。
「こちらのことは御心配なく。ガラシャン殿も、どうぞ御一緒に」
ヒデナガとケンシロン、ガラシャン、セリーンが旅支度を整えた。
カイロヒメとの再会を前に、ガラシャンは幾度も手荷物の結び目を直していた。
ケンシロンがその荷を受け取る。
「もう、ほどけない」
「……分かっているわ」
彼女は笑いかけ、結び目から手を離した。ジパングの王宮には、両国の旗が並んでいた。
ノレイオンとユキムランが同盟の文書へ印を置く。
争いを止め、往来する民と荷を守るための約束が、読み上げられた。
印を乾かす間、ユキムランはノレイオンへ、短く内々の話を願い出た。
ヒデヨシには、少し離れた所で頭を下げる新王の姿が見えただけだった。
式が終わり、広間を出たところで、ユキムランが歩み寄る。
「兄者。ようやく、お会いできました」
ヒデヨシはその呼び声に、思わず肩の力を抜いた。
「王様になった弟を、どう迎えればいいか考えていたところです」
「どうか、以前のままで」
差し出された手を、ヒデヨシが握った。
その横で、カイロヒメとガラシャンが向き合っていた。
互いの顔を確かめるように見つめ、どちらからともなく腕を伸ばす。
「ガラシャン……!」
抱き締めたまま、しばらく離れなかった。
カイロヒメが肩越しに目元を拭う。
ガラシャンは背へ回した腕に力を込め、小さく何度もうなずいていた。
その晩、ヒデヨシの館には賑やかな声が集まった。
ユキムランとカイロヒメを迎え、食卓を囲む。セリーンが皿を渡し、ヒデナガが酒を注ぐ。
ケンシロンは、並んで座る二人の娘を少し眩しそうに見ていた。
玄関の方で足音がして、従者が慌てて廊下へ出た。
「楽しそうだな。俺も混ぜてくれるか」
ノレイオンだった。ヒデヨシが椅子を引いて立つと、王は片手で座れと示した。
「膳を一つ足せばよい。今日は堅い挨拶は、もう十分に聞いた」
ヒデナガが場所を空け、セリーンが杯を運んだ。王は娘たちの顔を見て笑い、ケンシロンへ酒を勧める。
その王へ、ヒデヨシが少し困った顔で膳を寄せた。
「上様。それでは、お料理が置けません」
「猿の家の膳は、王には狭いな」
「俺の膳も、同じ大きさですよ」
笑い声が上がった。ユキムランは二人を見て、あの日、城門で聞いた先王の言葉を思い返した。
天に愛されている者というのは、あいつのような者のことを言う。
今はその青年のそばで、皆が肩の力を抜いていた。
「シンゲル様にも、この席を御覧いただきたかった」
ユキムランの声に、食卓の笑いが静かになった。
カイロヒメが杯へ目を落とす。ガラシャンは隣の友へ顔を向けた。
「シンゲル様は……最期は、苦しまれたの?」
「眠る時間が増えて。でも、私たちが顔を出すと、いつも何か仰りたがったわ」
娘が微笑もうとした。その手元を見てから、ユキムランがガラシャンへ向き直る。
「先王から、御父君のお話を伺っております。お伝えしても、よろしいでしょうか」
ガラシャンは膝の上で指を重ね、うなずいた。
シンゲルとケンシーンは、初めから友だったわけではなかった。
まだそれぞれが国の軍を率いていた頃、境の道と砦を巡り、幾度も向かい合った。
山へ兵を隠せば、相手は糧道を外す。渡河を装えば、対岸の陣は夜のうちに退いている。
いくら策を巡らせても、相手は簡単には崩れなかった。
ある年、エゾリアの収穫が落ちた。コシヒカリから来たのは、攻め手ではなく穀物を積んだ車だった。
翌年、今度はシンゲルが、荒れた村へ食を送った。
「戦はする。だが、腹を空かせた子まで敵にはせぬ」
そう語り合った男たちは、やがてシンゲルがエゾリアの宰相、ケンシーンがコシヒカリの王となった。
軍の使者が通った道を、商人が通い始めた。小競り合いの話より、荷と水路の相談が増える。
娘たちも行き来し、互いの国の土産をねだるようになった。
「ですが、それを好まぬ者もおりました」
ユキムランは杯へ触れず、続けた。
エゾリアと同盟していたスルガルドのヨシモーンは、豊かなコシヒカリを狙っていた。
領土と富を分けようと、当時のエゾリア王へ共闘を持ちかける。
シンゲルは反対した。国交を重ねた相手を襲えば、これまで守ってきた民の暮らしまで失うことになる。
王は聞かなかった。侵攻が始まり、コシヒカリの城が落ちた。
シンゲルが駆けつけた時には、ケンシーンとエゾリア王は相討ちとなり、共に倒れていた。
土と血に濡れた友の前で、シンゲルが膝をつく。
「ケンシーン!」
抱き起こす腕へ、男が目を向けた。
「来るのが、遅い……」
「喋るな。今、手当てを」
「お前は来るのも、王になるのも……いつも一歩、遅いのだ。シンゲル」
友は微笑んでいた。シンゲルが何か返す前に、その指が腕へ掛かる。
「……娘を、頼む」
握る力が、消えた。ユキムランの声が止まった。ガラシャンは唇を押さえていた。
「シンゲル様は王位を継がれましたが、あなたを見つけられなかった。
その後悔を、ずっと抱えておられました」
「父が、私を……」
隣でカイロヒメが手を握った。
「この前、ヒデヨシ殿から、あなたが笑って暮らしていると聞いた晩です。
先王は仰いました。『あの猿は、わしより先に友の娘へ届いておった』と」
ガラシャンが顔を伏せた。肩が震え、握られた手を握り返す。
「だから今度は、私があなたに会いに来たわ」
カイロヒメの声に、彼女はもう一度うなずいた。
ヒデヨシは、湯を掬って落としていた王の手を思い出していた。
病を隠し、豪快に笑った人。その胸に、あの言葉にできぬ悔いがあった。
『国を継いでも、友への約束は残ったままだったのじゃな』
【官兵衛… はい。王という立場でも、叶えられぬことを抱えておられたのでしょう】
ユキムランは、先王が同盟を断ち切れなかったことも口にした。
「スルガルドと争えば、今度は自国が潰れる。
そう考えて結び続けたことを、先王は後悔されていたのかもしれません」
ノレイオンは黙って聞いていた。ヒデヨシも、王の責めを軽くする言葉を探さなかった。
ガラシャンが、息を整えた。
「私にも、聞いていただきたいことがあります」
ケンシロンが顔を上げる。城が破られた日、ウジザンネンは逃げる王女を追っていた。
傾国の美女を逃すなという声が、背後から幾度も聞こえた。
ケンシロンは一人で道を開いた。振り向けば彼が兵を押し返し、また走れと促す。
だが、押し寄せる人と槍に隔てられ、次に振り向いた時には姿が見えなかった。
「探しに戻れば、あなたが命を懸けてつくった逃げ道を無駄にしてしまうと思って……」
ケンシロンは首を横へ振った。それでも、彼女の声を遮らなかった。
その後、ガラシャンを匿ったのは、チャゲヤスだった。
妹イナリヒメの屋敷へ通し、二人で暮らせるよう手配した。
追われる身で眠れぬ夜、隣の部屋に灯があることが、どれほど心強かったか。
「イナリヒメは、私が眠るまで、時々どうでもない話をしてくれました。
何も話せない日でも、そばにいてくれたの」
けれど、その居場所もウジザンネンに知られた。
チャゲヤスは兵が屋敷へ来る前に、王女を逃がした。
残れば兄妹にまで追手が及ぶ。ガラシャンは礼も尽くせぬまま、また逃げた。
「それから先は、以前お話ししたとおりです。国々を逃げて……奴隷商に捕まって」
言葉が細くなった。ケンシロンの指が、卓の縁で強く曲がる。
ガラシャンは、その手へ触れた。
「離れてからも、私を守ってくれた人がいました。だから、あなたにまた会えました」
ケンシロンは顔を伏せた。
「……お二人にも、礼を申し上げねば」
卓の下で、彼女がその手を握った。彼も握り返す。言葉の代わりに、しばらく二人でそうしていた。
セリーンが静かに手巾を差し出した。カイロヒメも受け取り、目元を拭ってから笑った。
「今度イナリヒメに会ったら、私からもお礼を伝えるわ。
あなたを独り占めしていたことには、少し文句も」
ガラシャンが瞬き、泣いた顔のまま笑った。
「かくまってもらっていたのよ」
「分かっているわ。でも、羨ましいもの」
ケンシロンも、ようやく息を吐いた。ヒデナガが料理の皿を寄せる。
「話を聞いていたら、冷めてしまったな。温め直してもらおう」
「いや、これはまだ食える。猿、そっちを寄越せ」
ノレイオンが手を伸ばすと、ヒデヨシが皿を渡した。膳の上を器が行き交い、酒を注ぐ音が戻ってくる。
〚金兵衛… 御館様も、お召し上がりください。まだ一口も手を付けておられぬ皿がございます〛
『うむ。皆と囲む膳じゃ。余も、いただこう』
「兄者。杯が空いております」
ユキムランが酒を差し出した。その呼び声に、ノレイオンがわざと顔を上げる。
「ほう。エゾリア王は、猿の弟なのか」
ヒデヨシの手が止まった。
「上様。黙っていて、申し訳ございません」
ユキムランが視線を寄せる。
式の後、王へ先王の密談と盃を打ち明け、
その意思を継ぐために来たと告げたことを、青年はまだ知らなかった。
「何も聞こえてはおらんぞ、猿」
ノレイオンはとぼけた顔で杯を出した。
「兄弟で、わしの酒を空にする気か」
「上様が、一番お飲みになっておられます」
思わず返したヒデヨシへ、王が笑う。カイロヒメが吹き出し、ガラシャンも口元を押さえた。
ユキムランは困ったように笑いながら、二人の杯へ順に注いだ。
その顔を眺めていたノレイオンが、ふと手を止めた。
「……あやつらにも、見せてやりたかったな」
ヒデヨシには、誰を思っているのか分かった。杯を包む指へ、力が入る。
ノレイオンは娘たちの笑顔を見ていた。
「今こうして、全てを背負い、倒れては起き、泣いては笑い……皆、よう生きておる」
杯を、少し持ち上げ、遠くビワコネーゼの空を見た。
「……是非も無し……」
ヒデヨシも杯を上げた。湖の回廊で握った戦友の手と、その傍らにいた王妃の笑顔が浮かぶ。
ユキムランも、静かに杯を持ち上げた。城門で遠い背を示した先王の声が、その胸に戻っていた。
三人は言葉を重ねず、杯を傾けた。ヒデヨシは、ふと王を見た。
ノレイオンの瞳は、笑い合う者たちの向こうを見つめていた。
誰にも埋められぬ悲しみを湛え、それでも、今ここにいる一人ひとりを、温かく包む目だった。
ヒデヨシは杯を下ろした。その眼差しと、今聞いた短い言葉を、胸へ深く留めた。
ガラシャンとカイロヒメの笑い声が、夜の館に続いていた。




