第13話 猿の覚悟
二台の荷車が、国境を越えた。ヒデヨシは先の車に手を添え、揺れるたびに掛け布を押さえた。
後ろの車にはマサムネルが付き添っている。肩の布へ血が滲んでも、騎士はそこを離れなかった。
ナガマールとオーイオチャを乗せた車だった。
丘を離れる時、ヒデナガの送った兵が迎えに来た。殿軍は退路を抜け、追手を離したとのことだった。
二人は兵と共に夫妻の体を運び、退却後のジパング本陣まで戻ってきた。
門の兵が車を見て、槍を引いた。誰も声を上げなかった。
陣の奥へ進む車輪の音が、やけに大きく聞こえた。
幕の前へ出てきたノレイオンが、足を止める。
ヒデヨシとマサムネルが、掛け布を静かに下げた。隣り合った夫妻の顔を見て、王は空を仰いだ。
喉が一度、大きく動いた。
「……皆、外せ」
家臣たちが頭を下げる。マサムネルも一礼したが、王の前から去る一歩を、すぐには踏み出せなかった。
ヒデヨシが騎士へ目を向ける。マサムネルは唇を噛み、幕の外へ下がった。
ノレイオンは妹の前へ立った。衣の端へ手を伸ばしかけ、途中で止める。
「……笑って帰れと、言うたであろう」
返事はなかった。湖国へ嫁いでからも、妹は帰ってくれば兄と呼んだ。
その声を待つように、王はしばらく顔を見つめていた。
やがて、伸ばした手を引いた。その手で、隣に立つ青年の肩を叩く。
「猿。お前は……よう無事に戻った」
声が震えていた。ヒデヨシは頭を下げた。戦場で流した涙は乾いていた。
顔には何の表情も浮かばない。ただ、目を上げた時、その瞳だけは王を真っ直ぐに見ていた。
「上様。妹君は、兄上と夫と娘を頼むと、俺に託されました」
ノレイオンの手が、肩の上で止まった。
「ナガマール殿も、ルイボス殿を守ってほしいと。俺は、命を懸けて守ると約束しました」
ヒデヨシは息を吸った。二人を救えなかったことを、誓いで取り繕うつもりはなかった。
「二人の願いも、上様の夢も、この猿がお引き受け致します。託された想いを置き去りにはしません」
王は何も返さなかった。
肩を叩いた手が、ゆっくり離れる。目尻から流れた涙を、王は拭わなかった。
「疲れておるだろう。……もうよい。下がれ」
ヒデヨシは深く頭を下げた。幕を出る直前、背後で布を撫でる音がした。振り向かず、外へ出た。
自軍の陣へ戻ると、ヒデナガが水を差し出した。
「兄上、手を洗え。傷も見せろ」
言われて初めて、自分の手に乾いた血が残っていることに気づいた。水へ浸けると、指の節が痛んだ。
ハンベータとカンベロンは、戻った兵の数と負傷者の手当てを確かめていた。
ケンシロンは馬を引き取り、兵へ休むよう声を掛けている。
皆が働いていた。ヒデヨシは水を見つめ、しばらく手を動かせなかった。
「少し、外の空気を吸ってくる」
弟は顔を見てから、うなずいた。
「遠くへ行くなよ。食事は残しておく」
陣の近くに、草の短い丘があった。ヒデヨシは緩い斜面へ寝そべり、片腕で目元を覆った。
空は広かった。戦場で見上げた空と、何も変わっていなかった。
『官兵衛。ヒサマールは、消えたのじゃな』
【官兵衛… はい。邪魂将ヒサマールの撃破は確認されています】
『あの城で見た邪気も、これで終わったか』
返事までに、少し間があった。
【官兵衛… 某には、そこまで申し上げられません。
前王の姿が消えたことと、邪気の根源まで断てたことは、別にございます】
『また、誰かがああなるやもしれぬと』
〖半兵衛… 今は、何が前王を変えたのか、分からないことが残っています。
御館様、分からぬまま次の敵を探して走らないでください〗
腕を外すと、指の間に土が残っていた。王妃を横たえ、戦友を抱いた手だった。
『ならば余は、何をしておればよい』
〚金兵衛… まずは、お手を休めてください。刀を握り続けて、指が強張っております。
儂が刃を整えても、御館様のお体までは代われませぬ〛
『休めば、忘れられるか』
〖半兵衛… 忘れるために、お休みいただくのではありません〗
その穏やかな声に、ヒデヨシは口を閉じた。
【官兵衛… ルイボス様を守ると約束なさいました。
その約束を果たす御館様まで、失うわけにはまいりません】
風が草を撫でた。青年はもう一度腕を額へ置いた。
近づく足音がした。草を踏む音が止まり、隣へ誰かが腰を下ろす。
セリーンだった。王女のそばは本陣の侍女と衛兵へ引き継いできた。
双剣を脇へ置き、彼と同じ空へ目を向けた。
「……戻った」
「はい。おかえりなさいませ、主様」
それ以上、彼女は尋ねなかった。
三兵衛も声を静めた。遠くから、馬のいななきと兵の話す声が届いていた。
セリーンの袖が風に揺れ、彼の手に触れる。
ヒデヨシはその布を掴んだ。
「戻ったんだ、俺は」
声が詰まった。空を見ていた目から涙が溢れ、こめかみを伝う。
「俺だけ……生きて」
セリーンが身を屈めた。起き上がりかけた彼の肩を抱き、胸へ引き寄せる。
「主様」
名を呼ばれたように顔を伏せた。息を吸おうとしても、嗚咽が先に出た。
彼女の衣を握り、堰を切ったように泣いた。
セリーンは背を撫で続けた。止める言葉も、強くあれという言葉もなかった。
夕日が傾くまで、二人はそこにいた。
ようやく呼吸が落ち着くと、彼女は手巾で彼の頬を拭った。ヒデヨシはその手へ自分の手を重ねる。
「そばに、いてくれないか」
「はい。私も、お傍にいたいのです」
二人は手を取り、陣へ戻った。
ルイボスには本陣の侍女が付き添っていることを確かめ、セリーンは引継ぎを済ませた。
用意された寝所で、ヒデヨシは彼女を抱き寄せた。
一度目を合わせると、セリーンはうなずき、自分から腕を回した。
唇を重ね、互いの温もりを確かめる。
彼はその夜、幾度も彼女の名を呼んだ。セリーンはそのたびに応え、涙の残る頬へ触れた。
夜が更けても、重ねた手は離れなかった。
ヒデヨシの魂気がセリーンの体内に幾度も、幾度も流れ込み、溢れ出た愛に二人は包まれた。
翌朝、ルイボスが夫妻の前へ来た。
セリーンに手を引かれていた娘は、横たわる父母を見つけると、足を速めた。
「母上」
返事がないことを不思議そうに、母の顔を覗く。
「ルイボス、転んでないよ」
小さな手が母の手を取り、自分の膝へ添えた。
「だから今日は、痛いの飛んで行け、しなくていいよ」
掌が冷たかった。娘は両手で包み、指を擦った。いつもの桜色は灯らない。
「……母上?」
ルイボスは父を振り向いた。
「父上。母上のお手々、冷たいの」
ノレイオンもヒデヨシも、言葉を出せなかった。
娘は母の手を離さず、もう片方の手を父へ伸ばした。指を引けば、起きてくれると思うように。
どちらも、握り返してはくれなかった。
「ルイボス、ここにいるよ……」
声が崩れた。小さな体を折り、母の手へ顔を伏せる。
「お母様……お父様……!」
泣き声が幕の中へ響いた。
ヒデヨシは膝をついたが、抱き上げることも、父母の手を離させることもできなかった。
ノレイオンが傍らへしゃがんだ。大きな手が娘の背へ触れ、そのまま動かなくなる。
二人はただ、娘が泣くそばにいた。
やがてルイボスが顔を上げた時、ノレイオンは濡れた頬を手巾で拭った。
「ルイボス。父と母を、湖へ帰してやろう」
娘は父母を見た。長く見つめてから、小さくうなずいた。
王はヒデヨシへ向き直った。
「猿。ルイボスをビワコネーゼへ連れ帰れ。
ナガマールとオーイオチャを、二人の国へ葬ってやってくれ」
「承知しました」
「前王が国を乱した。残った家臣も民も、次に誰の命を聞けばよいのか分からぬであろう。
争いを鎮め、食と暮らしを守れ」
命令を受けた青年へ、王は娘を抱き寄せたまま目を向けた。
「この子が、父母の国へ帰れるようにせよ」
ヒデヨシは頭を下げた。
「必ず、お連れします」
陣では出立の支度が始まった。
ヒデナガは動ける兵を集め、手当てが必要な者と本陣に残る者を分けた。
「兄上、先に行く隊と荷車の間を空けよう。遅れた車を、兵が急かさないようにする」
「ああ。負傷者のことも頼む。医者の指示を優先してくれ」
ハンベータは湖国へ向かう道と宿営地を確かめた。
カンベロンは王命の書付を受け取り、食糧の支給と沿道への連絡を整える。
ケンシロンは警戒に出す兵を選び、集落へ入る時には武器を向けるなと念を押した。
マサムネルは二つの柩へ付き添った。王と王妃を離さず並べ、車の軸と留め綱を自分の手で確かめる。
「御苦労を掛けます」
手を貸した兵へ頭を下げた声が、途中で揺れた。それでも騎士は、最後の綱を結び終えた。
出立の時、ノレイオンが車の前へ立った。柩へ一度手を置き、ルイボスへ目を向ける。
「伯父も、父と母を忘れぬ」
娘は唇を結び、うなずいた。セリーンがその肩を支えた。
ヒデヨシが馬上から手を差し出すと、ルイボスは自分から腕を伸ばした。
娘を前へ座らせ、落ちぬよう片腕で支える。もう一方の手で手綱を取り、ゆっくり馬を進めた。
背後には夫妻の柩が続いた。ヒデナガ、ハンベータ、カンベロン、ケンシロンがそれぞれ隊を見守り、
セリーンとマサムネルは王女の近くを離れなかった。
しばらく、ルイボスは何も話さなかった。
馬の鬣を見つめ、時折、背後の車を振り向いた。ヒデヨシは娘が振り向くたび、馬の歩みを緩めた。
「あのね、猿様」
「うん」
「ルイボスね、一生懸命、練習するの」
小さな掌が開かれた。そこには、何の光もなかった。
「母上と同じ、桜色のお花を咲かすんだ。そしたら、母上、ほめてくれるかな」
ヒデヨシはその手を見た。
「ほめてくれるよ。きっと」
「父上はね、お水でできたお鞠を見せてくれたんだぁ。触ったら、冷たかったの」
娘の声が、少しだけ弾んだ。思い出の中の父は、まだ目の前で水の鞠を浮かべていた。
「ルイボスも、お水のお鞠、作れるかなぁ」
「きっと作れるよ。少しずつ、練習しよう。作れたら父上も、喜んでくれるさ」
ルイボスは、掌を丸く合わせた。見えない鞠を包むように、その間を覗く。
「じゃあ、お水でお鞠を作って、桜のお花を咲かせる。その時は、猿様もほめてくれる?」
「もちろん。父上と母上にも見えるように、一緒に咲かせよう」
娘はうなずいた。けれど、すぐには手を下ろさなかった。
「……猿様」
「何だい」
「ルイボスが大きくなっても、父上と母上のお話、してくれる?」
喉が詰まった。ヒデヨシは娘の背を支える腕へ、少し力を込めた。
「うん。何度でも、話すよ」
「母上が、どんなふうに笑ったかも?」
湖へ向いた回廊が浮かんだ。夫を見守り、娘へ手を添え、自分たちを迎えてくれた人。
その顔を思い出すと、息を吸うだけで胸が痛んだ。
「……忘れない。俺が、ちゃんと覚えてる」
ルイボスの肩が震えた。
「ルイボスも、忘れない……!」
振り向いた娘が、ヒデヨシへ抱きついた。胸へ顔を押しつけ、しがみつく。
彼は馬を止めた。手綱を緩め、両腕で娘を包む。小さな背が、掌の下で幾度も震えた。
顔を上げ、空を仰いだ。
涙が頬を伝った。娘へ落ちぬよう上を向いても、止められなかった。
傍らでセリーンが目元を押さえていた。ケンシロンは顔を背けたが、漏れる嗚咽を隠せない。
ヒデナガは口を結び、兄の馬のそばへ寄った。
ハンベータは軍配を膝へ伏せ、カンベロンは目を閉じて息を整えた。
誰も、出発を急かさなかった。
マサムネルが手綱を握り直した。王女を見つめる隻眼に、涙が溜まっていた。
「私も、覚えております」
その声は、娘を驚かせないほど静かだった。
ルイボスは顔を上げ、騎士へ手を伸ばした。マサムネルは馬を寄せ、その指へそっと触れた。
やがて娘の呼吸が落ち着くと、ヒデヨシは手拭いで頬を拭い、手綱を取り直した。
皆がゆっくりと馬を進めた。二つの柩も、その後に続いた。
ビワコネーゼへの帰路に、温かい風が吹いていた。




