↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/24

第12話 魂術瞬雷

「奥方殿、ご無事ですか! 奥方殿!」

ヒデヨシはオーイオチャを抱きかかえ、丘の端に立っていた。

背後の崖へ、蹴り崩した小石が落ちていく。足を踏み直すと、白銀の魂気が脛に沿ってほどけた。

どうやって坂を駆け上がったのか、自分でも分からない。

投げ出された彼女を見た時、胸の奥に言葉が響いた。考えるより先に、口が動いていた。

「瞬雷」

鞍から飛び下りた足元が、白銀に光った。その一歩を踏んだ後には、見上げていた丘にいた。

宙へ伸ばした腕が王妃の背を受け、落下する体を胸へ引き寄せていた。

今も、足の裏に地面を蹴った感触だけが残る。

だが、その腕の中にある命は、あまりに軽かった。

ヒデヨシは膝をつき、王妃を風の当たらぬ岩陰へ抱き寄せた。

胸元へ布を押し当てても、血は指の隙間へ滲み出してくる。

「俺です。ヒデヨシです。分かりますか」

瞼がかすかに開いた。焦点の合わない目が、青年の顔を探す。

「……兄上」

冷え始めた指が、ヒデヨシの手首へ触れた。

「猿様が、まいられましたわ……」

かつてジパングへ里帰りした折にも、兄はその名を口にしていた。

王城の部屋に、庭を渡る風が入っていた。

オーイオチャが旅の無事を報告し終えると、ノレイオンは待ちかねたように身を乗り出した。

「面白い猿顔の男がおっての。お前も気に入ると思う」

「猿、でございますか?」

「ヒデヨシという。橋のない川で困っておれば、木と綱で渡れるようにしよる。

身なりは粗末でも、よう人を見ておる男だ」

兄は杯を置いたまま、あの時は、と手を広げた。青年の失敗を話す時まで、目元が楽しそうだった。

「兵の数を聞けば、その数でどう戦うかを考える。だが、それだけではない。

負けた時に、民をどこへ逃がすかまで聞いてきよった」

「兄上が、これほど嬉しそうに人をお褒めになるのは、初めてお聞きしました」

ノレイオンは一瞬、妹を見た。それから照れを隠すように杯を取る。

「働く者を褒めて、何が悪い」

「悪いなどと、申しておりません」

オーイオチャは口元へ袖を添えた。王として命じる兄の姿を、幾度も見てきた。

その兄が、誰かの次の働きを楽しみにしている。

「その猿様に、一度お会いしてみたいですね」

「ああ。ナガマールとも、気が合うかもしれないな」

その言葉を思い出したのは、湖の城へヒデヨシが訪れた晩だった。

客人が寝所へ退いた後も、ナガマールは回廊に立っていた。

欄干へ置いた手を見つめ、何かを確かめるように指を握っている。

「良いお話が、できたのですね」

妻が隣へ立つと、夫は少し照れたように笑った。

「ええ。戦友ができました」

「戦友。あの方が?」

「義兄上の夢の先陣を務めると、仰ってくださいました。私は傍らで支える。

守る場所は違っても、共に同じ夢を追える方です」

オーイオチャは夫の掌へ、自分の手を重ねた。

人を得た喜びを語る顔が、ジパングで見た兄とよく似ていた。

「兄上も、猿様のことを嬉しそうにお話しされていました」

「お二人で、私の話までなさっていたのですか」

「気が合うかもしれない、と」

ナガマールが声を立てて笑った。公の席では慎む声が、湖へ向いた回廊にほどける。

「義兄上には、見抜かれていたのですね」

「では、これからはお二人で兄上をお支えになるのですね」

「はい。この先は、猿殿と共に」

夫が握り返した手は温かかった。妻は肩を寄せ、しばらく同じ湖を眺めていた。

その温もりを探すように、オーイオチャの指が動いた。

ヒデヨシは血の付いていない方の手で、その手を包んだ。

「ここにいます。奥方殿、俺はここにいます」

彼女の目が、ようやく青年を捉えた。薄い微笑みが浮かぶ。

「猿様。またお会いできて……本当によかった」

「まだ、話せます。ナガマール殿も、すぐそこに」

言葉を続ければ、呼び止められる気がした。彼女は小さく首を動かし、残る息を整えた。

「兄上を……夫を……娘を、末永く……お願……いたし……ます……」

握り返そうとした指が、止まった。掌から、温もりがこぼれ落ちていく。

「奥方殿」

返事はなかった。ヒデヨシはその手を離せず、顔を覗き込んだ。

少し前まで声を作っていた唇も、もう動かない。

『……まだ、救えるであろう』

三兵衛は答えなかった。

ヒデヨシは待った。布を押さえる力を緩めず、手の中の指をそっと包み直した。

遠くで、誰かが王妃の名を呼んでいる。

『官兵衛』

【官兵衛… 御館様。……お手を、離して差し上げてください】

涙が一つ、王妃の手へ落ちた。

ヒデヨシは額を伏せた。声は出なかった。震える息を吐き、もう一度だけ彼女の指を撫でた。

やがて腕を動かし、岩陰へ静かに横たえる。乱れた衣を整え、顔へ掛かったピンクと銀の髪を払った。

湖の回廊で笑っていた人だった。娘の背へ手を添え、自分たちの無事を願ってくれた人だった。

その顔を見て、玉鋼刀の柄を握った。

怒りに任せて叫ぶことさえ、できなかった。呼吸だけが妙にはっきり聞こえる。

涙は止まらず、刀を抜く手は静かだった。

立ち上がった足元へ、白銀の光が一筋走った。

丘の反対側で、ナガマールは妻へ近づこうとしていた。

マサムネルが王のもとへ着くより先に、ヒサマールが坂を塞いでいた。

刃となった右腕が、息子の槍を弾く。

「父上! そこを退いてください!」

返るのは、嫉妬に歪んだ雄叫びだけだった。口から黒い息を吐き、妻を呼ぶ息子へ刃を振り下ろす。

ナガマールが馬から飛び下りた。背後で鞍が裂け、馬が坂を駆け下っていく。

王は転がる勢いで刃を避け、立ち上がった。

「陛下!」

マサムネルの矛が、王を追う刃へ打ち合わされた。

「ルイボスは」

「セリーン殿の護衛で、ノレイオン陛下の本陣へ! 御無事です!」

ナガマールの肩が一瞬、下がった。礼を口にする前に、次の刃が二人へ迫る。

騎士は王を背へ庇い、矛を引いた。

「魂術・幻如撃!」

魂気を纏った矛先が、幾重にも残像を引いて突き出される。狙いは刃の内側、甲冑の継ぎ目だった。

だが、切っ先は黒い邪気の層へ阻まれた。腕へ重い衝撃が戻り、手当てをした肩の布へ血が滲む。

「下がってください!」

ナガマールの掌へ、湖色の魂気が集まった。

「水破衝!」

水を伴う衝撃が坂を駆けた。黒い胸元へぶつかり、砕けた水が二人の顔へ降り掛かる。

邪気は揺らいでも、刃は止まらなかった。もう一方の腕まで、長い刃へ変わっていた。

左右の刃が交互に走る。王は槍で受け、騎士は矛で逸らした。

一歩退くたび、王妃のいる岩陰から遠ざかる。

「俺のものだぁぁ!奪うなぁぁ!」

ヒサマールの叫びに言葉の続きを探しても、もはや呼びかける相手はいなかった。

その戦いへ、ヒデヨシが歩いていた。

白銀の魂気が肩を包み、消える。数歩進むと、今度は腕に沿って光った。

王妃の血で濡れた籠手に、膨れた光が映る。

〖半兵衛… 御館様、お止まりください。正面には刃が二本あります。

今入れば、お二人の退く道まで塞ぎます〗

『で、あるか』

歩みは止まらない。

【官兵衛… 先ほどの術を、まだ制御できておられません。

某には、次も同じように踏みとどまれるとは申し上げられません】

『で、あるか』

〚金兵衛… 御館様、柄を握り過ぎておられます。刃先が震えております。

どうか一度、息を吐いてください〛

『で、あるか』

ヒデヨシは息を吐いた。それでも、前を見たまま進む。

三兵衛が呼びかける声だけは、胸の奥へ届いていた。

ナガマールが刃を受け損ね、膝をついた。マサムネルが矛を差し込み、追撃を止める。

騎士の腕が押し下げられた。王はその横から立ち上がり、残る力を掌へ集めた。

「水破衝!」

先ほどより太い水の奔流が、ヒサマールの右腕を跳ね上げる。黒い邪気の隙間が、胸元に開いた。

「今です!」

マサムネルは踏み込んだ。傷の痛みを押し込み、全身を矛の一突きへ乗せる。

「幻如撃!」

届く。そのはずだった。

ヒサマールの体が横へ捻れた。矛先が甲冑を掠め、空を切る。

伸ばし切った騎士の脇腹へ、左の刃が回り込んだ。

ナガマールが、騎士を突き飛ばした。

マサムネルの目の前で、王の胸を刃が貫いた。

「……陛下?」

転がった騎士は、立ち上がれなかった。息を吸う音が、自分のものか王のものかも分からない。

ナガマールは刃を抜かせなかった。

胸から突き出た腕の根元を両手で抱え、前へ進もうとする父へ体重を掛ける。

湖色の魂気が両腕を覆った。血の滑る掌で、なお押さえる。

「マサムネル……もう一度、幻如撃を」

騎士の口が開いた。声が出ない。

自分が踏み込み過ぎた。王が庇った。あの胸へ、もう一度、矛を向けるのか。

矛を握る指が動かなくなった。膝が崩れ、土へ落ちる。

「私のことは、構いません。今なら……!」

ヒサマールが右の刃を振り上げた。ナガマールは残る魂力を絞り、父の体を半歩、自分へ引きつける。

刃が岩を削り、騎士の頬へ破片が当たった。湖色の光は、もう指先にしか残っていなかった。

マサムネルの肩へ、手が置かれた。

軽く、一度だけ叩かれる。騎士は顔を上げた。

気づかないまま流していた涙の向こうに、ヒデヨシがいた。

「後は任せろ」

その声で、ようやく息が戻った。

ヒデヨシは王を見た。胸を貫く刃と、父を抱え込んだ両腕。

ナガマールは戦友を見つけ、安堵しかけてから首を横へ振った。

「ヒデヨシ殿……後はお願いします」

刀を握る指が止まる。

『……余に、それをさせるのか』

声には出せなかった。ナガマールは、ヒデヨシが自分を助ける隙を探していると分かった。

抱えた腕を、さらに引き寄せる。

「私が手を離せば、この刃は、また誰かを……」

黒い右腕が持ち上がる。ヒデヨシの背後には、まだ膝をついた騎士がいた。

「戦友殿……永久の別れが最初で最後の願いとは……どうにも苦しいな……」

ヒデヨシの頬を、涙が伝った。ナガマールは逸らさず、その目を見ていた。

〖半兵衛… 御館様。ナガマール王が、刃の通る道を作ってくださっています〗

【官兵衛… 某も、共に参ります】

〚金兵衛… その柄を、両の手で。最後まで、儂がお支えします〛

ヒデヨシは左手を柄へ添えた。息を吸い、戦友へうなずく。

「……愛別離苦……」

全身を白銀の魂気が纏った。足元へ光が集まる。ヒデヨシは二人の胸が重なる位置へ、切っ先を向けた。

「瞬雷」

白銀の光が走った。

ナガマールは父を離さなかった。

玉鋼刀はその体を貫き、背後へ重なったヒサマールの胸を、邪気の奥まで突き通した。

ヒデヨシは泣いたまま、両手で柄を握り切っていた。

《システム… 邪魂将ヒサマールの撃破を確認しました》

黒い体に亀裂が走った。響きかけた叫びが途切れ、刃も甲冑も、霧となって崩れていく。

ナガマールを貫いていた左腕が消えた。王の体が傾く。

ヒデヨシは刀を引き、今度こそ、その体を地へ落とさず抱き留めた。

「ナガマール殿」

王の口元から血が零れた。ヒデヨシの腕へ背を預け、霞む目で顔を見上げる。

「妻は……大丈夫ですか?」

ヒデヨシの唇が震えた。

「……大丈夫です」

言い終える前に、涙が王の頬へ落ちた。ナガマールが、かすかに微笑む。

「戦友殿は、嘘がお下手ですね」

ヒデヨシは涙を拭わなかった。微笑もうとして、息を詰まらせた。

「もうすぐ、奥方殿に会えます」

「そうですか。では、妻に……謝らねば」

王の目が、岩陰の方へ動いた。ヒデヨシはその肩を支え直し、妻の眠る場所が見えるようにした。

ナガマールはしばらくそちらを見ていた。やがて残る力で、戦友の腕を握る。

「ルイボスを……娘を、よろしくお願いします」

「ルイボス殿は、俺が命を懸けて、末永くお守りします」

腕を掴んだ指へ、自分の手を重ねた。

「約束します。ナガマール殿」

王はうなずいた。声にならぬ息を吐き、目元を緩める。

「……夢の続き……頼みましたよ……戦友殿」

ヒデヨシは答えようとした。何を返せばよいのか、分からなかった。ただ、その手を握っていた。

ナガマールの視線が、ふと彼の肩の向こうへ移った。

「妻が、迎えに……来ております」

湖の回廊で笑った時と、同じ顔だった。

「では、妻と……少し、休んでまいります」

腕を握る指が、ほどけた。

ヒデヨシは王を抱いたまま、動かなかった。マサムネルが傍らへ膝をつき、主の名を呼んだ。

返事はなかった。

湖色の魂気も、桜色の光も、もう見えない。

ヒデヨシは額を伏せた。震える息が喉で潰れ、握っていた手を胸へ抱き寄せる。

「ナガマール殿……!」

堪えていた声が、ついに裂けた。

戦友を抱くヒデヨシの悲しき咆哮が、戦場に響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。