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第11話 桜魅舞鼓

湖から吹く風が、庭の草を撫でていた。

ルイボスの手を離れた鞠が、石畳の縁で跳ねる。

追いかけた小さな足が裾に絡み、娘は両手をついて転んだ。

一拍遅れて、泣き声が上がる。

「母上……」

オーイオチャは裾が汚れるのも構わず膝をつき、娘を抱き起こした。

手の土を払い、擦りむいた膝へ掌を添える。

「痛いの、痛いの、飛んで行けぇ」

優しい声と共に、桜色の炎が指の間に灯った。熱くはない。

頬を寄せた時の母の温もりが、膝まで届いたようだった。

ルイボスは涙の溜まった目で、その光を見つめた。

赤く滲んでいた傷が塞がり、強張っていた足から力が抜ける。

「母上、痛くありません」

「よかった。では、こちらの手も見せてくださいな」

娘が差し出した掌には、小さな砂粒が残っていた。オーイオチャは水で洗い、手巾でそっと拭った。

「光を当てれば、おしまいではないのですか?」

「汚れたままでは、後でまた痛くなるかもしれませんから」

ルイボスは自分の掌を裏返した。母の手は、指の間まで丁寧に確かめてくれた。

鞠を拾って戻ったナガマールが、二人の前へしゃがむ。

娘は泣いていたことを隠すように、口元を結んだ。

「もう走れます。父上」

「ええ。でも、今は少し休みましょう」

父の膝へ乗せられると、娘は素直に背を預けた。

ナガマールは妻へ手巾を渡し、土の付いたその指も拭う。

「では私も。ほら、ルイボス」

広げた手の上に、湖色に煌く魂気が集まった。澄んだ水が丸くまとまり、鞠ほどの大きさで宙に浮く。

向こうの木々が、丸い水の中では逆さまになっていた。

「父上もできるのですか」

娘の目が輝いた。ナガマールは水の鞠をゆっくり下げる。

「父は、水の魂術を使うのです。触れてごらんなさい」

小さな指が水面へ沈んだ。ひやりとした感触に肩をすくめ、すぐにもう一本の指も入れる。

「冷たい。お魚も入れられますか?」

「お魚は難しいかもしれませんね。お魚には湖にいてもらおうね」

「では、お魚はあきらめます」

真剣な返事に、父母の目が合った。

笑われたと思った娘が頬を膨らませると、オーイオチャがその頬へ口づけた。

娘はもう一度、水へ指を入れた。水面の波が収まるまで、今度はじっと待っていた。

やがてナガマールが手を傾けると、水は細い流れになって庭木の根元へ落ちた。

ルイボスは名残惜しそうに空の掌を見る。

「母上のお花も、もう一度見たいです」

オーイオチャは掌へ桜色の魂気を灯した。小さな炎が、花びらを開くように揺れる。

「母は傷を癒やすこと、体を支えることができます。けれど、同じ光でも、力の使い方が違うのですよ」

「体を支える?」

「疲れた足で、もう少し歩くお手伝いをしたりします」

差し出された手へ、ルイボスが自分の手を重ねた。

淡い光が腕に沿って流れ、転んでから強張っていた肩が緩む。

「お傷がなくなっても、怖かった気持ちはすぐには消えません。

だから、急いで走らなくてよいのです」

娘は母の顔を見てから、小さくうなずいた。

「そのお花に、お名前はありますか?」

「桜魅舞鼓、といいます」

ルイボスは唇を動かし、聞いた名をゆっくり繰り返した。

オーイオチャは急かさず、娘の声に耳を傾ける。

「母上みたいに、私にもできますか」

「いつか、一緒にお稽古しましょうね。今は、転んだ人がいたら手を貸してあげてください」

娘は自分の掌を見つめた。光は出なかったが、すぐそばにある母の手を、両手で包んだ。

「母上も、疲れましたか?」

小さく息を整えたところを、見られていたらしい。オーイオチャの目元が和らぐ。

「少しだけ。こうして握っていてくれると、嬉しいです」

ナガマールが立ち上がり、木陰の敷物を直した。妻が無理をせず腰を下ろすまで、娘を抱いて待つ。

ルイボスは父の襟へ指を掛け、耳元へ顔を寄せた。

「母上は、すごいですね」

「ええ。父も、そう思います」

「聞こえていますよ、お二人とも」

オーイオチャが笑うと、娘も父の胸で笑った。

木陰へ移る前に、ルイボスは落ちた鞠を自分で拾いに行った。

父が立ち上がりかけると、母がそっと袖へ触れる。

娘は石畳の縁で足を止め、今度は裾を持ち上げて越えた。

鞠を抱えて戻る足取りを、二人とも黙って見守った。

「転びませんでした」

「ええ。よく足元を見ていましたね」

オーイオチャが両腕を広げると、ルイボスは最後の数歩だけ駆け、胸へ飛び込んだ。

母がよろけたところを、ナガマールの腕が支える。

「二人とも、こちらへ」

父の腕の中で、娘が笑った。オーイオチャも夫の袖を握り、肩へ額を寄せる。

「もう少し、こうしていてください」

「もちろん。呼ばれるまでは、ここにおります」

三人で腰を下ろし、切った果物を分けた。

娘が一番大きな一切れを母へ差し出すと、母はそれを半分にして返した。

湖には小舟が行き交い、庭を囲む回廊からは控えめな足音が聞こえる。

誰かが呼びに来るまで、ナガマールは娘の話を聞き、妻の隣に座っていた。

ルイボスが眠ってしまうと、オーイオチャはその膝へ、もう一度そっと手を添えた。

その手が今、太い縄で磔柱へ縛られていた。

丘の上を、土煙を含んだ風が吹き抜ける。

裂けた衣の下で傷が痛み、柱へ預けた背を動かすことさえ苦しかった。

ルイボスはいない。あの小さな手は、マサムネルへ託した。

オーイオチャは目を開いた。

丘の下では、ジパングの殿軍が柵を捨てて退き、湖国の旗がその後を追っていた。

「追撃を止めるな。ノレイオンの本陣まで追い詰めよ」

ヒサマールの声を、家臣が丘の麓へ伝える。騎馬で駆け戻ったナガマールは、柱の妻を見上げた。

救出の合図は見た。娘は逃れたはずだった。

だが妻は、城から連れ出され、父の軍と共にここへ運ばれていた。

「父上。もう、おやめください。オーイオチャを下ろしてください」

「ならばさっさと追え。ノレイオンの首を持ってこい」

ヒサマールの家臣が、王妃の喉元へ刃を寄せた。

ナガマールの手綱を握る指が強張る。反転を命じれば、その一言で妻が殺される。

従えば、自分を信じて待った義兄と戦友を討つことになる。

妻が首を横へ振った。何を望んでいるか、分かっていた。分かっていても、口が動かなかった。

湖国の兵がまた一人、柵の前で倒れた。

すぐそばには、ジパングの兵が横たわっている。

腹を押さえた手が土を掻き、助けを求める口から声が出ない。

オーイオチャの指が、縄の下で動いた。

庭で娘へ添えた手は、あの兵へ届かない。その向こうにも、動かなくなりかけた人がいる。

誰かの名を呼ぶ声が、丘まで聞こえてきた。

「……どうか」

掌から全身に向けて、桜色の炎が灯る。

ナガマールが顔を上げた。妻の肩から腕へ、傷ついた体の内側から、光が溢れ出す。

「オーイオチャ?」

自分の傷を治癒する力さえも、彼女は残さなかった。

助けを求める兵を見つめ、残された魂力のすべてを術へ注いだ。

「桜魅舞鼓」

桜色の光が、柱の上へ打ち上がった。一玉が空で開き、次の玉がそれを追う。

幾つもの花火が昼の空へ咲き、細かな光を戦場へ散らした。

舞い降りた光は、倒れた兵の傷口へ柔らかくほどけた。

止まらなかった血が収まり、浅く途切れていた呼吸がつながる。

致命傷に体を冷たくしていた兵が、震える腕で上体を起こした。

折り重なっていた別の兵は、まだ痛む足を引きずり、馬の通る道から這い出す。

湖国の兵にも、ジパングの兵にも、エゾリアの兵にも、同じ桜色の光が降った。

全快したのではない。剣を握れず、立てず、隣の者の肩を借りてようやく動ける者もいた。

それでも、次の息を吸い、踏みつけられる場所から逃れる力を取り戻した。

「やめろ……オーイオチャ、もうやめてください!」

ナガマールが馬を進めた。丘の兵が槍を交差させ、王の前を塞ぐ。

妻の術を、夫は知っていた。

一人を癒やす時にどれだけ息を整えるかも、無理をした夜に指先が冷えることも。

この広さ、この人数。妻が放てる限界を、優に超えていた。

「それ以上は、あなたが……!」

オーイオチャは夫を見た。唇を動かしたが、声は風に消えた。

殿軍の後方で、ヒデヨシも桜色の空を振り仰いでいた。

退く兵が足を止めかけ、負傷者の車から驚いた声が上がる。

その向こうの丘から、黒い邪気が膨れ上がった。

『あそこじゃ。あの光の下で、何か起きておる』

「ヒデナガ、殿の指揮を頼む! 俺はナガマール殿のところへ行く!」

弟は丘を見て、兄の顔を見た。すぐに軍配を受け取り、次の隊へ撤退の合図を送る。

「分かった。俺が皆を退かせる。兄上も、生きて戻れ」

「頼む!」

馬へ向き直ったヒデヨシへ、ハンベータが一歩出た。

「ヒデヨシ殿、あの邪気に対しては――」

「お待ちください。私たちにも――」

カンベロンの声も重なる。ヒデヨシは鞍へ手を掛けた。

「話は戻ってから聞く! 今は皆を頼む!」

二人が次の言葉を継ぐ前に、馬首を返した。その横へ、肩に布を巻いたマサムネルが馬を寄せる。

「私が御案内します。我が王のもとへ」

傷を押さえる手を見て、ヒデヨシは一瞬だけ眉を寄せた。騎士は手綱を取り直す。

「道を知る者が必要です。どうか、参りましょう」

二騎が列を離れた。背後ではヒデナガの声に従い、殿軍が次の柵へ移っていく。

『あの光は、王妃の術であろうか』

〖半兵衛… 丘を中心に広がっています。御館様、右の窪地を。正面は退く兵で詰まっています〗

【官兵衛… 桜色の魂気が急速に弱まっています。その傍らの邪気は、なお膨れ続けております】

『城で見たヒサマールの邪気か。間に合え……!』

〚金兵衛… 御館様、手綱を! 前の兵が倒れます!〛

よろめいた兵が馬の前へ膝をついた。ヒデヨシは手綱を引き、槍を避けて脇を抜ける。

兵は光の残る腕で地を押し、近くの者に支えられた。

『分かっておる。余が転んでいては、誰も救えぬ』

【官兵衛… マサムネル殿も肩を傷めておられます。御館様、お二人で道を確かめてお進みください】

ヒデヨシは騎士へ声を掛け、倒れた荷車を迂回した。丘へ続く坂道が、土煙の向こうに現れる。

丘の上では、ヒサマールが足元の兵を蹴り退けていた。

傷を癒やされた家臣が、柱の王妃を見上げている。

「わしの敵を救いおって……!」

胸の奥へ、あの声が滑り込んだ。

『見よ。兵まで、あの女に心を向ける』

「黙れ。わしの兵だ」

『息子はお前より妻を求める。家臣はお前より、あの女を仰ぐ。ここでも、お前は奪われる』

麓ではナガマールが、なお妻の名を呼んでいた。オーイオチャの目も、夫だけを見ている。

ヒサマールの頬が引きつった。

「わしを、見下すな」

『ならば、思い知らせよ』

拒むはずの心まで、黒いものに覆われた。息子の幸福を憎むほどに、魂の内側へ邪気が食い込む。

甲冑が軋んだ。膨れた肩から黒い筋が走り、右腕が人の形を失っていく。

指先までが長い刃へ変わり、こぼれた邪気が丘の草を伏せた。

家臣が槍を落とし、後ずさる。前王は人の境を越え、邪魂将へと変貌していた。

「何を勝手なことをしておる! 貴様は誰の許しを得て、そのような真似をしておる!」

オーイオチャが顔を向ける。最後の桜色が、掌からほどけた。

刃となった右腕が、その胸元を貫いた。

坂の入口へ飛び出したヒデヨシの目に、丘の上の姿が映った。

黒い化け物。その右腕に貫かれ、柱の前へ吊られたように浮くオーイオチャ。

崖際の土へ、彼女の足先は届いていない。

「オーイオチャ殿!」

ヒデヨシは馬腹を蹴った。マサムネルも、槍の前へ立つナガマールを見つける。

「俺は王妃様のところへ! ナガマール殿を頼む!」

「承知しました!」

騎士は王へ、ヒデヨシは丘へ。一瞬で二騎の進む道が分かれた。

ヒサマールが腕を振った。胸から刃を引き抜く勢いで、王妃の体を柱から引き剥がす。

縄が裂け、白い腕が空へ投げ出された。

ヒデヨシは坂を駆け上がる。伸ばした手は、まだ遠かった。

桜色の光が消えゆく空を、オーイオチャの体が舞っていた。

その先に、崖下の地面は見えない。

「オーイオチャァァァ!」

空しき湖王の咆哮が、戦場に響き渡った。

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