↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/24

第10話 猿の殿

湖を離れてからも、セリーンはヒデヨシの隣を走った。

昼は道を見張り、夜は宿の戸を閉めて彼の手を取る。

本陣へ向かう帰路でも毎晩二人は互いを求め、肌を重ね温もりを感じていた。

朝になれば彼女はまた双剣を帯びる。

それでも、目が合った時の笑みは、湖へ向かった頃とは違っていた。

「主様。戻られましたら、まず御報告を」

「分かっている。二人で旅を楽しんでいたわけじゃないからな」

「でしたら、その緩んだお顔もお直しください」

そうたしなめる彼女の頬も、少し赤かった。

ジパング本陣へ着くと、ヒデヨシはナガマールの書付をノレイオンへ差し出した。

二万の出陣日、進軍路、合流地点。協議した内容を順に報告する。

「猿、よう務めた。ナガマールが来れば、シンゲルも軽々しくは動けまい」

王は書付の印を確かめ、満足げにうなずいた。ヒデヨシはセリーンと共に自軍の陣へ戻った。

ヒメノワール軍の陣では、ヒデナガが兄を迎えた。

ハンベータ、カンベロン、ケンシロンも地図の周囲へ集まる。

ヒデヨシはビワコネーゼの進軍路へ指を置いた。

ジパング二万三千と、湖国二万。合流できれば四万三千となる。

しかし敵の二万は、山裾と街道を知る騎馬軍団だった。

ハンベータの軍配が地図の尾根をなぞる。

「広い場所で包囲しようとすれば、こちらの列が延びます。騎馬に継ぎ目を突かれましょう」

「合流前に糧を使い切っても困ります。

荷車は兵の間へ混ぜず、退路へ出せるよう後方に置きたいところです」

カンベロンが荷の集積地を書き込む。ケンシロンは川沿いの狭い道を示した。

「ここなら騎馬も横へ広がれません。守る時は使えます。

ただし、味方の通過を先に済ませる必要があります」

ヒデナガが近隣の村へ目を移す。

「退く時に、村へ敵を引き込まない策も決めておこう」

ヒデヨシは城の窓辺にいたヒサマールを思い返した。魂気の縁の黒ずみと歪み。

暖かな風の中で感じた悪寒が、まだ胸に残る。

『官兵衛。あの魂気の歪みは、何であったのじゃ』

【官兵衛… 御館様。某が見極めた限り、あれは邪気にございます。

ただし、何に由来し、前王をどこまで侵していたかは分かりません】

『ヨシモーンの刃に感じた冷たさと、同じものか』

〖半兵衛… 似た気配はありました。ですが、それだけで前王の企みまでは分かりません。

ナガマール王が留守にする城には、妻子が残られます〗

〚金兵衛… 御館様、確かめに城へ戻れば合流に間に合いません。

今は、荷をどけた細道に柵を据える支度ならできます〛

『うむ。何も起きねばよい。じゃが、起きてから道を探すのでは遅いのう』

ヒデヨシは地図へ手を伸ばした。内心の声を聞けない仲間へ、自分の言葉で備えを提案する。

「万が一、ビワコネーゼ軍が敵へ回った時も考えておきたい」

四人の視線が集まった。

「ナガマール殿を疑っている訳ではない。戦場では万が一にも備えておきたい」

ハンベータは二方向の敵を地図へ置いた。

「両軍が見えた段階で荷を下げて、退路を空けます」

ケンシロンが兵を割り振り、ヒデナガは負傷者の車と護衛を確保した。誰も備えすぎとは笑わなかった。

その頃、ナガマールは約束の期日にビワコネーゼを出発していた。

二万の列が湖畔を離れ、定めた道を進む。二日後、息も絶え絶えの使者が王の前へ倒れ込んだ。

ヒサマールが旧臣と現王に反する者を集め、城を奪った。

王妃オーイオチャと王女ルイボスは、囚われの身となった。

差し出された命令書の末尾には、二人の命を惜しむならエゾリアと共にジパング軍を挟撃しろとあった。

ナガマールの指から紙が滑った。義兄上を裏切るのか。妻と娘を見殺しにするのか。

どちらを選べというのだ。

「マサムネル」

呼び声へ進み出たのは、片目を覆う隻眼の若武者だった。矛を自在に操り、軍略にも通じる近衛騎士。

ナガマール直属の八人、オウミ八卍の筆頭である。

「オーイオチャとルイボスを父上の手から救い出してくれ。二人を頼む」

ナガマールは騎士の腕を握った。

「オーイオチャ、ルイボスと必ず二人を救ってくれ。その後はヒデヨシ殿の陣へ連れていけ。

安全を確保したら、空へ合図を上げよ」

「必ず、お二人とも無事にお連れ致します」

マサムネルは膝を折った。立ち上がる時、その目に迷いはなかった。

八人は軍の列を離れ、湖の城へ引き返した。地下の牢では、ルイボスが母の膝へ顔を埋めていた。

別室へ連れ出されるたび、オーイオチャは傷を増して戻った。

ヒサマールの暴力と辱めを受け、歩くことさえ苦しい。

それでも娘が顔を上げると、乱れた衣を整えて微笑んだ。

「お父様は、必ず来てくださいます」

ルイボスの小さな手が、母の袖を離さなかった。

夜、牢の外で短い物音がした。倒れた番兵の向こうから、マサムネルが現れる。

八人は旧来の通用口から忍び込み、巡回の隙を縫って地下へ下りた。

避けられない近衛兵は、声を上げる前に倒す。

だが地下へ下りる途中で見張りに発見され、鐘が鳴った。

狭い階段へ追手が押し寄せる。騎士の一人が扉を支え、もう一人がその肩越しに槍を突いた。

牢へ進む間にも、背後の味方の声が途切れていく。

最後の扉を開いた時、共に来た七人は全て命を落としていた。

マサムネルはルイボスを抱え、王妃へ手を差し出した。痣の残る頬、傷ついた唇。

立とうとしたオーイオチャが膝を折る。

「ヒサマール様が、これを……」

王妃は娘の耳を覆った。騎士は、その仕草から繰り返された暴行と辱めを悟った。

「己の息子の妻に、何ということを!」

矛を握る手が震えた。今すぐ前王を討ちたい。その腕を王妃が押さえる。

「今は、この子を。どうか、ルイボスを」

オーイオチャはその手を見てから、首を横へ振った。

負傷した体で、走る騎士についていけない。

自分の姿が消えれば、ヒサマールは城外へ全力の追手を出すだろう。

「私はここに残ります。娘は奥で眠っていると、あの人を引き留めます。

その間に、この子を少しでも安全な場所へ」

「王妃様、それでは」

「この子だけは…ルイボスだけは失うわけにはいきません」

娘の髪を撫で、額へ唇を寄せた。

「ルイボス。ヒデヨシ殿のおそばへ。後から母も父と一緒にまいります」

「いやです。お母様もごいっしょに」

オーイオチャは娘を抱き締めた。離す腕が震えた。それでも、マサムネルへ託した。

「ルイボスを…娘をどうかお願いします」

オーイオチャは倒れた燭台を引きずり、近づく追手の目を自分へ向けた。

マサムネルは歯を食いしばり、娘を胸へ抱いて走った。

矛で塞がれた道を払い、肩を斬られても止まらない。

城を抜けた時、そばを走る仲間は、もういなかった。

ナガマールの軍は、合流地点へ進み続けていた。

足を止めれば妻と娘が殺される。父へ送る返書には命令に従うと記しながら、王は救出の合図を待った。

一方、ジパングの斥候からは、エゾリア軍の出陣が報じられた。

籠城の備えをしていたはずの二万が、騎馬を先頭に南下している。

ヒデヨシは尾根から上がる土煙を見た。

『湖の軍を迎える時に、敵も出る。偶然であろうか』

〖半兵衛… こちらの合流地点へ、別々の方角から近づいております。退路側へ回る騎馬もいます〗

【官兵衛… 御館様、別の方角から敵が来ています。先に荷を下げ、備えていた退路を確保しましょう】

ヒデヨシは本陣へ走った。ヒサマールの邪気については伏せる。

反乱を企んでいる確信も、ナガマールが従うと決まった証拠もない。備えの必要だけを訴えた。

「上様、今の位置では万が一の場合挟まれます。荷を下げ、合流を一度お止めください」

ノレイオンの眉が動いた。

「ナガマールが来る。敵はその前にこちらを崩したいのだ」

「ナガマール殿に、何か起きたのかもしれません」

「調子に乗るな!猿!我が義弟を疑うのか!」

怒声に、周囲の重臣が口を閉ざした。ヒデヨシも喉が乾いた。それでも地図から手を離さなかった。

「疑うのではありません、あくまでも万が一に備えての事です。先に退路を確保させてください」

その時、ヒメノワール軍の陣へ血まみれの騎士が駆け込んだ。マサムネルだった。

抱えたルイボスを、セリーンが受け止める。

「前王が反乱を……陛下は妻子の命を盾に、ジパングを討てと迫られております。

王妃殿下は、なお城に……」

ヒデナガは傷の手当てを命じ、即座に伝令を本陣へ走らせた。

別の兵が、ナガマールとの約束の合図を空へ上げる。

「マサムネル殿が王女ルイボス様を伴い、我が陣へ到着! ビワコネーゼで反乱。

王妃様は人質としてヒサマールの手にとの事です!」

ノレイオンの顔から怒りが消えた。

伝令は、ナガマールが妻と娘を盾に裏切りを迫られていることまで告げた。

王は一度、強く目を閉じた。

「全軍、退け。国境まで下がる。急げ!」

ヒデヨシはノレイオンの前に膝をついた。

「殿は、この猿にお任せください」

「三千で、あれを受けきれるのか」

「心配ご無用です、この猿が上様の退く時間を稼ぎます」

王はヒデヨシを見据えた。

「猿、ここで死ぬ事は許さない。必ず生きて戻れ」

ヒデヨシは深く頭を下げ、自軍へ駆け戻った。マサムネルは血に濡れた腕で矛を支えていた。

セリーンがルイボスの背を支えている。ヒデヨシは膝を折り、幼い娘と目を合わせた。

「よく来てくれたね。もう大丈夫だよ。ここからは俺たちが守るからね」

「セリーン。幾人か供を連れて、この子を上様の本陣へ。そこで護衛についてほしい」

彼女は一度ヒデヨシを見つめ、すぐにうなずいた。

「承知しました。本陣へお送りし、そのまま私が必ずやお守りいたします」

ヒデナガが用意した馬車へ、セリーンがルイボスと乗った。数人の護衛が馬を寄せる。

負傷したマサムネルは陣に残り、肩の手当てを受けた。

「主様。どうか、御無事で」

「ああ。俺も必ずや帰る。二人とも、待っていてくれ」

セリーンはルイボスの体を布で包み、手を握った。馬車はノレイオン本陣へ向かう。

到着するとセリーンは王女に付き添い、護衛として退却する本隊に加わった。

「兄上、殿は交代で受けよう。最後の隊だけに敵を背負わせないように」

「頼む。ケンシロン、敵を広げさせるな。ハンベータ、交代の合図を。

カンベロン、退路の荷を詰まらせないでくれ!」

二年の訓練の成果が、号令一つでつながった。細道へ柵を据え、銃剣隊が二列に並ぶ。

先頭のエゾリア騎兵が距離を詰めた。

「まだ撃つな! 十分に引きつけろ!」

ケンシロンの双撃棍が上がる。射撃が道へ重なり、敵の先頭が崩れた。後続は狭い道で勢いを失う。

撃ち終えた列が下がり、次の列が前へ出た。再装填の間を、銃剣を構える兵が守る。

側面から回る敵には、斜面へ伏せた隊が矢を浴びせた。

〖半兵衛… 深追いは不要です。敵が立て直す間に、次の場所へお移りください〗

「下がれ! 柵は捨てていい!」

ハンベータの軍配に従い、兵が退いた。退いた先には、次の隊が待っている。

ビワコネーゼ軍も追撃へ加わった。味方の旗が迫る光景に動揺した兵へ、ヒデナガが声を張る。

「旗を見るな、動きを見ろ! 目の前の敵を討て!」

ヒデヨシは玉鋼刀を抜き、列へ割り込んだ敵の刃を受けた。ケンシロンの棍がその横から走る。

訓練場で何度も繰り返した受け渡しが、死地でも崩れなかった。

ジパング本隊の後尾が丘を越える。使者が戻るたび、退いた距離が伸びた。

ついに王と本隊が国境を越えたとの報告が届いた時も、

三千の殿軍はまだ敵を引き付け、その攻撃を受け続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。