第9話 斜陽の境界線
いつも『夢見るひずみ』をお読みいただきありがとうございます!
前回のサークル内での最悪な事件から数日。
傷ついた夢が姿を消す中、居残ってラリーを続ける慶太と夢果の前に、あの「優しい先輩」が姿を現します。
どこか様子のおかしい彼女の口から漏れたのは、信じられない言葉で――。
真夢先輩の異変に怯える慶太と夢果。
そんな2人のスマホに、音信不通だった夢から、あまりにも悲痛なメッセージが届き――。
オレンジ色の夕日を浴びたテニスコートに、乾いた打球音が響く。
サークルの全体練習が終わり、他の部員たちが腫れ物に触れるような目で俺たちを避けて部室へと引き上げる中、俺――慶太と夢果の2人だけがコートに居残ってラリーを続けていた。
「よっと……! ほら慶太、まだまだ行くよー!」
夢果が声を張り上げてラケットを振る。だけど、その声にはいつもの天真爛漫な明るさはなく、どこか張り詰めた、悲壮な響きが混じっていた。
あの写真がサークル内で晒されてしまった最悪な結末から数日。
夢はそれ以来、一度もサークルに顔を出していない。夢果は「また3人でテニスをする」という自分の約束を守るため、そして壊れそうな自分を支えるために、狂ったようにボールを追いかけ続けている。
西に傾いた太陽が、俺たちの影をクレーコートの地面に長く、歪に引き伸ばしていく。その時だった。
「……あれ?」
夢果のラケットが、ふっと止まった。
打ち返されるはずのボールが、誰もいないコートの隅へと力なく転がっていく。
「どうした、夢果?」
息を切らせながら俺が声をかけると、夢果はラケットを握ったまま、金網のフェンス越しにある「外の歩道」をじっと見つめていた。その顔から、無理に作っていた笑顔が綺麗に消え去っていく。
「……真夢、先輩?」
夢果がぽつりと呟いた。
その視線を追って、俺もフェンスの向こうを見る。
そこに、立っていた。
夕暮れの影に溶け込むようにして、真夢先輩が一人、静かに佇んでいた。その手には、いつも夢を執拗に追いかけていた一眼レフカメラが握られている。
いつもなら、俺たちと目が合えば「お疲れサマ〜!」と大きく手を振って、サークルを盛り上げる『優しい真夢先輩』だ。だけど、今の彼女は違った。
(なんだ……? あの雰囲気……)
俺の背筋に、ゾクりとした冷たいものが走る。真夢先輩は、微動だにせずコートを見つめていた。その目は、いつも誰にでも優しく笑いかける彼女のそれではなかった。光の消えた、酷く冷徹で、獲物を観察するような鋭い視線。
「ねえ、慶太……」
夢果が、小さく震える声で俺の名前を呼んだ。彼女の視線は、真夢先輩の「顔」ではなく、その「手元」に注がれている。
「あのお姉さん……なんか、変。いつもと、違う……」
俺は生唾を飲み込みながら、ゆっくりと真夢先輩の方へ一歩を踏み出す。
フェンス越しに近づくにつれ、彼女の様子がより鮮明に見えてきた。
真夢先輩は、自分の右手で、左の手首をギチギチと強い力で締め上げていた。爪が皮膚に食い込むほどに。まるで、内側から溢れ出そうとする「別の何か」を、必死に堪えているかのように。
「真夢先輩……?」
俺がフェンス越しに声をかけると、彼女の肩がピクリと跳ねた。
ゆっくりと、彼女の顔がこちらを向く。
夕日の逆光のせいで、その表情はよく見えない。しかし、影の中から覗く彼女の瞳は、サークルの優しい先輩のものではなかった。冷酷で、底知れない悪意を含んだ、全くの別人の目。
真夢先輩の唇が動いた。今度は、はっきりと声が聞こえた。
「――邪魔を、しないで」
低く、押し殺したような声。それは、真夢先輩の細い体躯からは想像もつかないほどドスの利いた、明らかに『男』のものだった。
「ひっ……」
後ろで、夢果が小さく悲鳴をあげる声を耳が拾う。
「先輩、それ、どういう――」
俺がフェンスを掴んで問いかけた瞬間、真夢先輩の身体がガクンと大きく揺れた。彼女は頭を激しく振ると、まるで今起きたかのように自分の両手を見つめ、それから弾かれたように俺と夢果を見た。
「あ……れ? 慶太くん……? 夢果ちゃんも……」
次の瞬間、彼女の瞳にいつもの「光」が無理やり戻された。
あいつはいつもの、困ったような、優しい真夢先輩の笑顔を貼り付けてみせる。
「ごめんね、なんかぼーっとしちゃって! 夢から『話がある』って連絡が来たから、私の部屋に行くところなの。先に行ってるね!」
それだけを早口でまくし立てると、真夢先輩は背を向け、逃げるように去っていった。その足取りはどこかおぼつかない。
コートに取り残された俺と夢果の間に、重苦しい沈滅が降りる。
「声が、違った……」
夢果は首を激しく横に振った。
「それにあの人、さっき……一瞬だけ、ウチらのことじゃなくて、誰もいないコートの『夢ちゃんの残像』を、ゾッとするような愛おしそうな目で見てた……!」
夢果のその言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。あの写真がサークル中にバレて以来、夢は傷つき、自分の家に引きこもっているはずだった。それなのに、真夢先輩は今、「夢から連絡が来た」と言わなかったか?
その時、俺のポケットの中でスマホが短く震えた。
同時に、夢果のバッグの中でも、通知音が小さく鳴り響く。
俺たちは弾かれたようにそれぞれの画面を見た。
メッセージの送り主は――あの日以来完全に音信不通だった、夢からだった。
【慶太、夢果ちゃん。ごめんなさい。私が全部終わらせるから、2人はもう関わらないで。今、真夢先輩の部屋に向かってる。先輩を止めなきゃ、2人が壊されちゃう――】
「夢からだ……! あいつ、自分を犠牲にして真夢先輩を止めに行く気か!?」
「嘘……っ! 夢ちゃん、正気じゃないよ……! 1人であんな部屋に行ったら、本当に壊されちゃう……!」
夢果の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「真夢先輩、さっき『自分の部屋に行く』って言ってたよな……。マズい、夢が追いつめられてるんだ!」
俺たちの頭から、冷静な思考が吹き飛んだ。俺たちを守るために、正気を失いかけながらも、たった一人で狂気へ立ち向かおうとしている夢。あまりにもリアルで、あまりにも悲痛な、命がけのメッセージ。
だが、これこそが真夢の中に目覚めた『あの男』が、夢の決死の行動すらも利用して仕組んだ自作自演のメッセージであり、俺たちのすべてを内側から崩壊させるための『最高のショー』の罠であることなど、この時の俺たちは知る由もなかった。
「行くぞ、夢果! 真夢先輩の家だ!」
俺たちはラケットをコートに放り出すと、急速に夕闇に沈んでいく街へと、夢を今度こそ救い出すために全力で走り出した。
第9話、最後までお読みいただきありがとうございました!
夢を救うため、夕闇の街へと走り出した慶太と夢果。
しかし、それが『あの男』の仕組んだ最悪の罠だとは、まだ知る由もなく……。
2人は夢を救い出すことができるのか、そして真夢の部屋で待ち受ける「最高のショー」とは!?
次回、いよいよ物語が大きく動き出します!
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