学校祭実行委員と計算された逃避
一ノ瀬の問題が解決した翌日。
朝の昇降口はいつも通りの喧騒に満ちていた。
生徒たちが次々と下駄箱を通り過ぎ階段を上がっていく。
談笑、欠伸、眠そうな足取り。
六月の中頃、空気は湿気を含みじっとりとしていた。
この時期の雨は降るか降らないかぎりぎりのところで空にとどまっている。
降りそうで降らない。だが湿度だけは確実に上がっていく。
昇降口のコンクリートは汗をかいたように黒ずみ、上履きの底がいつもよりわずかに重い。
理はその流れから少し外れた位置で、掲示板の前に立っていた。
白い紙に黒い活字。
「学校祭実行委員募集
応募は生徒会室まで」
紙の四隅は少しだけ反り返っていた。
誰かがめくった跡だろう。風が吹くたびに、チラシの端がぱたぱたと鳴る。
掲示板の他のチラシ「購買部の新商品」「図書委員の貸出延長」「吹奏楽部の定期演奏会」も、
どれも同じように端が浮いている。
理は腕を組んだままそのチラシを眺めていた。
——頼まれたし、仕方ない
心の中でそう呟く。
そう思いながら指先でチラシの角を軽く押さえた。
指の腹に、乾いた紙の感触が残る。
風に晒されているからだろう。掲示板の紙はいつも乾いている。
正確には、断りきれなかった。
一ノ瀬のあの笑顔と流れに押し切られた。
あれは反則だ。
悪意がないから防御できない。
だが、と理は思考を切り替える。
引き受けた以上、これを最大限に活用する方法を考えるのが合理的だ。
実行委員は、生徒会が管轄する公的な役職だ。
クラスの出し物や模擬店の準備とは違い、責任の所在が明確で作業内容も書類仕事が中心になる。
つまり、人間関係の摩擦が最小限で済む。
さらに言えば生徒会室という「教室の外」に合法的に移動できる。
休み時間や放課後にクラスに残らなくてもいい理由が手に入る。
誰かに「どこ行くの」と聞かれても「実行委員会」と答えれば、それ以上の説明は不要だ。
学校という社会は「公的な理由」に弱い。
学級委員、委員会、部活の大会、共同体に貢献している体裁さえ整っていれば、個人の事情は問われない。
これが社会の暗黙のルールだ。
そして理は、そのルールを使うことに一切の罪悪感を抱かなかった。
ルールは使うためにある。
理は小さく頷いた。
——これでいい。これが最適解だ
教室に着くと、いつも通りの風景が広がっていた。
窓際の席では女子三人が固まってスマホを覗き込んでいる。
教壇の横では男子が二人、消しゴムを投げ合っていた。
黒板には誰かが書いたであろう落書きが消されずに残っている。
チョークの粉が床に落ちていた。
黒板消しは教壇の上に置かれている。
誰かが叩きつけたのか、白い粉が教壇の縁に薄く積もっていた。
理はそれを目で追うだけで、手を伸ばそうとはしなかった。
窓の外では砂埃が風に舞っている。
乾いた音がかすかに聞こえる。
雨が降りそうで降らない日は、砂埃だけがやけに元気だ。
いつもと変わらない風景。
まだ学校祭の話し合いは始まっていない。
実行委員が決まってからクラスの出し物も決まる。
つまり今は嵐の前の静けさだ。
だが教室の中にいる誰も、その静けさを静けさとして意識していない。
意識しているのは理だけだ。それが理を、わずかに孤立させる。
理は自分の席に着き鞄から文庫本を取り出す前に、少しだけ想像した。
実行委員を引き受けなかった場合の未来を。
クラスで「出し物どうする?」と聞かれ、誰も手を挙げず空気が重くなる。
しびれを切らした誰かが「じゃあ、お前適当にやってくれよ」と言う。
買い出しやそのほか諸々の模擬店の準備で一日が潰れる。
その間、人間関係の摩擦に巻き込まれ気疲れし自分の時間も削られる。
——想像するだけで疲れる。
実際に疲れるより、想像で疲れる方がマシだ。
想像は自分で止められる。現実は止まらない。
中学の頃、文化祭の準備で三日間連続で居残りをさせられた。
誰も指示を出さず、誰も責任を取らずただ時間だけが過ぎていった。
あの時の疲労は、肉体的なものではなかった。
意味のない時間に参加させられているという、静かな消耗だった。
惰性は敵だ。
理はあの三日間を、今でも時々思い出す。
教室の隅で誰も見ていない作業を延々と続ける感覚。
誰も褒めない。誰も気づかない。
それでもやらなければならない。
なぜなら、そこにいる全員が同じようにやらされているから。連帯感ではない。諦念だ。
理はあの空気が嫌いだった。
あの、誰も本気ではないのに誰もやめない空気。
全員が同じ方向を向いているようで、誰も前を見ていない。
だからこそ、同じ状況を繰り返さないために理は考える。
どうすれば最小の労力で最大の平穏を得られるか。
あの時、理は決めた。
次からは、もっと賢く立ち回ろうと。
だが実行委員ならどうだ。
別室で書類仕事。
作業は単純。
人間関係は最小限。
公的な免罪符つき。
圧倒的に効率がいい。
理は小さく頷いた。
——違う
だが、これが最適解だ。
最適解でなければならない。
放課後。
理は一ノ瀬に回収され、生徒会室へと向かっていた。
「今日は役員の皆さんに挨拶だけしておきましょう。名簿の確認もありますし」
「ああ」
「早瀬くん、返事が適当ですよ」
「適当ではない。必要最小限だ」
「それ、同じ意味です」
一ノ瀬はそう言ってくすくす笑った。
生徒会室は三階、普段は使われない特別教室の並びの一番奥にあった。
ドアをノックし一ノ瀬が先に入る。
理は少し遅れて続いた。
室内は、想像よりも狭かった。
右手に黒板、その下に長机が二つ、
左手の壁沿いに本棚とロッカー、そしてプリンターとパソコン。
黒板には学校祭の工程表らしきものが貼られ、赤や青のマグネットで区切られている。
正面奥側には窓とオイルヒーターがあった。
窓の外にはジェスコと森が見える。
帰りに小野と蓮見と一緒に寄る商業施設だ。
葉が風に揺れていた。
空気は教室よりも静かで、紙とインクの匂いがした。
「お、一ノ瀬。その方はもしかして?」
長机の中央に座っていた女子生徒が顔を上げた。
三年生だろう。
長髪で目つきは鋭いが、笑みの形に緩んでいる。
「生徒会長の久保田です」
一ノ瀬が紹介する。
「早瀬理です。二年三組。不本意ながら戦力として提供されました」
「不本意ながら、ね」
生徒会長は面白そうに笑った。
「一ノ瀬が連れてくる子だから、きっと信頼できる人なんだろうけれど……
あまり乗り気ではないみたいね」
会長はペンを置き、まっすぐに理を見た。
「早瀬くん、率直な気持ちとしては実行委員会に参加したくないの?」
「はい、本音を言うとそうなりますね。
一ノ瀬先輩からのお願いはどうにも断りにくくて……。
ただ、最初は本意ではなかったのですが、
いろいろと考えた結果として、実行委員会に参加するメリットを見出したのでここに来ました。」
「なるほど、正直でいいわ。嫌いじゃない。
他の人も紹介したいけれど、お仕事や部活や私用で基本は出払ってるのよね。
副生徒会長、書記、会計、会計監査、その他各委員長で生徒会が成り立っているわ。
そこに加えて生徒会へ任意の学祭実行委員が参加してくれて、学祭実行委員会が成り立つの」
「結構な大所帯ですね」
「ええ、学校祭という大きなイベントですもの。
それを成功するには必須な人員です。
そして、学校祭実行委員のお仕事は各クラスや部長連中との調整、彼らとの折衝から始まる。
覚悟しておいて」
「……折衝」
「そう。人間関係の摩擦、ってやつ」
会長は笑った。理の内心を見透かすように。
「早瀬くん、ひとつ聞いていい?」
「何でしょう」
「君、人と話すのは嫌い?」
「嫌いではありません。必要なら話します」
「必要なら、ね」
会長はペンを軽く回した。
「それって、話すのが嫌いなのとほとんど同じよ」
「……否定はしません」
「でしょうね」
会長は回していたペンを置いた。
「でもね、実行委員は、話さないと進まない仕事よ。
嫌いでも、必要でもとにかく話す。
話して、話してやっと前に進む。書類仕事だけじゃ終わらないの」
「……覚悟しておきます」
「覚悟だけじゃ足りないと思うけどね」
会長はそう言って、また笑った。
「……わかりました。
いろいろと大変そうではありますが、よろしくお願いいたします。」
表面上は淡々と会釈をした。
——これでクラスの摩擦からは完全に逃げ切った
——完璧なリスクヘッジだ
その確信が、あと三十秒で崩れることをこの時の理はまだ知らない。
挨拶が終わると、一ノ瀬が手帳を開いた。
「じゃあ、さっそく今年の実行委員名簿の——」
そのとき、ガチャリ、と。
ノックもなく、生徒会室のドアが無造作に開いた。
その音に理は一瞬だけ眉をひそめた。
ノックをしない人間が苦手だ。
廊下を走る人間も、ドアを乱暴に開ける人間も理の基準では「非効率」の一言に尽きる。
「あの、学校祭実行委員に参加したいんですけどー」
明るい、間延びした声。
その声を聞いた瞬間、理の眉間から力が抜けた。
理はその声に聞き覚えがあった。
いや、ありすぎた。
声だけでわかる。この声を、理は知っている。
教室で廊下で、屋上で。
聞きたくなくても聞こえてくる声。
聞こえてくるたびに、理の計算が狂う声。
「そういえば、もう一人希望者がいたんでした」
一ノ瀬が手帳を閉じ、ドアの方へ顔を向ける。
理は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは見慣れた、しかしこの空間には最も似つかわしくない人物。
夜野紬。
理の脳内で先ほどまで完璧に組み上げられていた論理の塔が、音もなく傾いていく。
彼女はきょろりと部屋を見渡し、それから一ノ瀬に向かって明るく言い放とうとして——
その視線が、途中で止まった。
理を捉えた。
一瞬、部屋の空気が止まる。
「……あれ?」
理の脳内計算システムが派手にショートした。
——は?
思考が、言葉にならない。言葉が思考に追いつかない。
ただ、目の前にいる人物の存在だけが、現実として処理されていく。
夜野は目をぱちぱちと瞬かせ、それからにっこりと笑った。
「早瀬先輩!」
——なんで
「偶然ですね!」
——なんでここに
「先輩も実行委員やるんですか?!」
——なんで
理の思考は、そこで完全に停止した。
クラスの摩擦から逃れるための完璧な隠れ家。
人間関係の最小化。
計算された平穏。
そのすべてが、たった一言の「あれ?」で崩壊した。
夕暮れの屋上の踊り場で見た顔とは違う。もっと無防備で、もっとまっすぐな再会の笑顔。
その笑顔が、理の計算を一片残らず薙ぎ倒していく。
理は知らずに一歩後ずさっていた。
その一歩を、夜野は見逃さなかった。
「先輩、逃げないでくださいよ」
「逃げてない」
「今、逃げようとしました」
「……違う」
「じゃあ、なんで後ろに下がったんですか」
答えられなかった。
夜野は嬉しそうに理の隣まで歩いてきて、にこにこと笑っている。
その笑顔に一切の悪意はない。
純粋な、再会の喜びだ。
だからこそ逃げ場がない。
一ノ瀬が、不思議そうに二人を交互に見た。
「お知り合い、だったんですか?」
「はい! 早瀬先輩には、すごくお世話になってて!」
夜野が元気よく答える。
「お世話」という言葉に、理はわずかに反応した。
夜野の手紙騒ぎの一件、屋上の踊り場での一件、それらが夜野の中では「お世話」として処理されているらしい。
断った側の理としては、その処理の仕方にわずかな違和感と、そして救われたような気持ちがあった。
夜野が理を「断った相手」として扱っていないこと。
それが、今の理にはありがたかった。
理は、何も言えなかった。
——非効率だ
そう呟こうとして、声にならなかった。
その日、理は知った。
計算は計算できないものの前では、何の意味も持たないということを。
そして計算できないものは、往々にして計算しようとする者のすぐ隣に立っているということを。
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