一番上の名前と合理的な言い訳
「というわけで、生徒会の学校祭実行委員のお仕事はこんな感じでした。
質問とか、何かあるかな?」
一ノ瀬の声が、遠くで聞こえていた。
水の中で誰かが話しているような、くぐもった響き。
理はその声を聞きながら、自分が現在進行形で立っていることだけは把握していた。
足の裏に床の感触がある。
隣には夜野がいる。
それだけがやけに鮮明で、他のすべての情報がぼんやりとした膜の向こう側にある。
——……戻れ
理は思考のスイッチを探した。
どこかにあるはずだ。
さっきまで確かに動いていた。
ところがそのスイッチは、夜野の笑顔という名の砂の中に埋まってしまったらしい。
一ノ瀬の説明が、ようやく意味を持った音として耳に届き始める。
「あ、それと当日の本部待機もお願いするかも。でもそれはシフト次第だから、今は考えなくて大丈夫」
一ノ瀬曰く、学校祭実行委員会の仕事は、
各クラスの出し物の申請受付、出納帳の作成、当日の見回りシフトの作成等々があるらしい。
理はゆっくりと瞬きをした。
——……出し物の申請受付
——出納帳の作成
——見回りシフトの作成
頭の中で、その三つの作業を並べる。
単純だ。
誰が何を申請したかをリスト化して、金銭の出入りを記録して時間割を組む。
どれもこれも、人間関係の摩擦とは無縁の純度の高い事務作業。
——……悪くない
理は内心で計算をやり直そうとした。
これなら許容範囲だ。
いや、むしろ好都合だ。
クラスの出し物の押し付け合いに巻き込まれるより、よほど効率的。
だが。
「わかりやすーい!」
隣から、眩しいくらいの声が飛んできた。
「早瀬先輩、心強いですね!」
夜野が、キラキラした目をこちらに向けている。
その瞳の輝きは、理の精神の残量を正確に削り取っていく。
計算式に換算するなら、一分間でおよそ――
——いや、計算するな
理は視線を前方に戻した。
——計算するから疲れるんだ
これは一種の防御だった。
理は自分の思考パターンを自覚していた。
計算しなければ、傷つかない。
だがそれは理にとって呼吸を止めるのと同じくらい不自然なことでもあった。
「それじゃあ、初日のあいさつはここまで! お疲れ様でした」
一ノ瀬が手帳を閉じ、にこやかに締めくくる。
理は小さく一礼した。
——これで今日の分の精神的コストは支払い終えた
あとは帰るだけだ。
家に帰って風呂に入って、寝る。
明日になればこの疲労も多少は回復しているはず。
そう思い、理は踵を返した。
その瞬間だった。
服の裾が、くい、と引っ張られた。
振り返ると、夜野がそこにいた。
右手で理の制服の裾を軽くつまみ、左手にはスマートフォンを持っている。
画面はすでにQRコード表示になっていた。
「あの」
夜野は、少しだけ声を落とした。
「連絡網とか、引き継ぎ用で一応、何かあったときようのために……交換してもいいですか?」
理の頭は、まだ半分ほど白んでいた。
——連絡網
——引き継ぎ用
その二つの単語が、理の中で正当化の材料として瞬時に採用される。
そうだ。
実行委員の仕事をするなら連絡手段は必要だ。
生徒会からも何かあったら連絡するように言われている
これは業務上必要な措置だ。
理は、スマートフォンを取り出した。
「ああ……」
言われるがままに、QRコードを読み取る。
ピ、という電子音。
画面に「夜野 紬」の文字が表示され、自動的に連絡先に登録される。
理はその画面を一瞥し、すぐにスマートフォンをポケットにしまった。
「ありがとうございます!」
夜野は嬉しそうに頭を下げた。
「それでは先輩、また明日!」
彼女は軽やかに踵を返し生徒会室を出ていった。
扉が閉まる音がして、ようやく部屋の中の空気が元に戻った気がした。
理はしばらくその場に立ち尽くしていた。
——……何が起きた?
帰り道、理は自問した。
——俺は今、何をした?
答えは明確だった。
連絡先を交換した。
後輩と。
業務上の必要性を理由に。
——業務上だ
理は心の中で繰り返した。
——業務上の連絡手段だ。ただのツールだ。それ以上でも以下でもない
その言葉に、どこか説得力が欠けていることは理自身が一番よく分かっていた。
翌日。
昼休みの教室。
理が文庫本を開いていると、いつもの二人が席の前に立った。
「お前、生徒会の学校祭実行委員に入ったってマジ?」
小野が、からかうような笑みを浮かべて言った。
蓮見はその隣で、カフェオレを片手に理を見ている。
「人手不足の補填だ」
理は顔も上げずに答えた。
「ふーん、補填ねえ」
「クラスの出し物よりは、人間関係の摩擦が少なくて効率がいい」
「効率」
小野は笑った。
「お前らしいな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないけどな」
小野はまた笑った。
蓮見はその隣で、珍しく興味津々といった様子で理を見ている。
「……1年生の学校祭実行委員もいると聞いた……それって前のあの1年?」
理は本のページをめくる手を止めた。
「……なぜそれを」
「いや、なんとなく」
理は本のページをめくる。
だが、文字が頭に入ってこない。
仕方なく、理はスマートフォンを取り出した。
特に意味はなかった。
ただ通知が来ていないか確認しようとしただけだ。
画面を開き、連絡先リストを何気なくスクロールする。
そこに彼女の名前があった。
「夜野 紬」
昨日登録したばかりの名前がそこにぽつんと鎮座している。
理はその三文字を、しばらく眺めていた。
——しまった
連絡先を交換したということは、だ。
これから先、いつでも、どんな時でもあの後輩からのダイレクトな通信が、
この端末に飛び込んでくる可能性があるということだ。
朝、昼、放課後。
もしかしたら夜中にだって。
理の計算ではその確率は決して低くない。
夜野紬という人間は、そういう人間だ。理はもうそれを知っている。
理はスマートフォンを伏せ、こめかみを押さえた。
——……まあ、ただの業務連絡用のツールだ
自分に言い聞かせる。
——業務連絡。それ以外の何物でもない
その言葉に、昨日と同じ説得力のなさを感じながら。
『無駄な連絡先交換はデジタルデトックスの敵』
姉の掟を思い出す。
理は、画面を閉じようとした。
閉じる直前、スマートフォンに通知が入る。
メッセージ一覧を開くと一番上には「夜野 紬」との表示がされている。
「早瀬先輩、遅くなりましたが、よろしくお願いします!」
指が止まった。
もう一度、目で追っている自分に気づく。
「夜野 紬」
その三文字を。
理は眉をひそめた。
——非効率だ
何が、とは言わなかった。
ただ、スマートフォンをポケットにしまい開いていた文庫本を閉じた。
そして、音にならない程度に深く息を吐いた。
これから始まるであろう予測不能な日々を、想像するだけで。
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