最初の業務連絡と脳内会議
夜野からのメッセージを受け取ったのは、昼休みが終わる五分前だった。
「早瀬先輩、遅くなりましたが、よろしくお願いします!」
理はその一文を、三度読んだ。
一度目は内容の確認。
二度目は送信時刻の確認。
三度目は特に意味はなかった。
昼休み終了の予鈴が鳴る。
理はスマートフォンをポケットにしまい、五時間目の教科書を机の上に出す。
現代文。夏目漱石。『こころ』。
先生が黒板に「K」と書いた瞬間、理の思考は完全に別の場所へ飛んでいた。
——返信
しなければならないのか。
理はペンを握ったまま、目の前のノートに小さく丸を書いた。
それから消しゴムで消した。
また書いた。
また消した。
——落ち着け
これは単純な問題だ。
夜野からメッセージが来た。
内容は「よろしくお願いします」という業務上の挨拶。
返信の要否を判断すればいい。
それだけのことだ。
理はノートの端に、小さく選択肢を書き始めた。
『選択肢A:既読スルー』
心理的負荷はゼロ。返信の手間もゼロ。究極の省エネ。
だが。
翌日、生徒会室で会う確率は極めて高い。
その時、夜野が「先輩、メッセージ見てくれなかったんですか?」と首を傾げる姿が容易に想像できる。
しかも夜野は直球で聞いてくる。
理の計算では、その確率は八十五パーセント。
さらに、業務上も不都合だ。
連絡手段として交換した以上、返信しないのは非効率。
次に夜野から連絡が来る時、理が既読スルーした人間だという認識が相手に生まれれば、情報の非対称性が発生する。
——却下
『選択肢B:スタンプ付きでフレンドリーに返信』
論外。
理の行動原理は「省エネ・非干渉」。
スタンプを送るという行為は、人間関係の領域に踏み込みすぎる。
しかもスタンプの選択という無駄な意思決定が発生する。
どのスタンプが適切か。
夜野のスタンプの傾向は。
考えるだけでコストがかかる。
——却下
『選択肢C:「よろしくお願いします」のみ』
最も無難。
業務連絡としての実用性は高い。
感情の起伏はゼロ。だが短すぎる。
理の経験則では、短文の返信は冷たい印象を与えるリスクがある。
特に相手が夜野紬という温度の高い人間の場合、その受け止め方に誤解を生む可能性がある。
確率、四〇パーセント。
——保留
折衷案の素材として、一応記憶しておく。
『選択肢D:夜野のメッセージを無視して業務連絡を新規送信』
「何かある時は放課後生徒会室で間違いないか」
最も効率的。
挨拶というやり取りを省略し、実務に直行する。
理の理想に最も近い。
だが、これは『人間関係の摩擦コスト』が高い。
夜野の「よろしくお願いします」に対する返信が待ち合わせについてでは、文脈の断裂が発生する。
相手に違和感を与える。確率、六〇パーセント。
——却下
『選択肢E:「よろしく」のみ』
短い。
短すぎる。
もはや冷たいというより無機質。
夜野がどう受け取るか、理の計算では予測不能。
——却下
『選択肢F:絵文字を一つだけ送る』
カオス。
理の脳内では処理不能。
絵文字の選択基準が存在しない。
なぜ絵文字を送るのか。
何の絵文字を送るのか。
送った後、相手はどう反応するのか。
すべてが未知。
——却下
理はペンを置いた。
黒板にはいつの間にか「先生とKの関係性」と書かれている。
理はその文字を三秒ほど眺め、再びノートに視線を落とした。
——姉の掟
理の脳内に、言葉が浮かぶ。
『返信は二十四時間以内に。ただし長文は禁止。さらに短すぎるのも禁止。ほど良く丁寧に』
理が中学の時、姉から伝えられた暗黙のルール集。
そこには人間関係を破綻させないための知恵が詰まっていた。
当時の理は、なぜ姉がここまで細かいことまで知っているのか、考えたことがなかった。
姉がそう言うのだから、そうなのだと思っていた。
だが。
この状況に適用できる掟は、姉の掟には載っていなかった。
「二十四時間以内」は満たせる。
「長文は禁止」も満たせる。
だが何を送るかは書かれていない。
姉の掟は、理が人間関係の破綻を回避するためのものだった。
夜野紬という存在は、その掟の想定外にある。
——結論
理はノートの端に、最終案を書いた。
『折衷案:「こちらこそ。では失礼する」』
感情の起伏を一切排した超事務的なテキスト。
挨拶としての最低限の礼儀を満たしつつ、会話を即座に終了させる。
これ以上のやり取りを不要だと明示する。
理の計算では、これが最も摩擦が少ない。
理はスマートフォンを取り出した。
授業中だという自覚はあった。
だがこの問題を先延ばしにすればするほど、思考リソースが継続的に消費される。
ここで送信して終わらせるのが最も効率的。
「こちらこそ。では失礼する」
送信ボタンを押す。
——終わった
理は小さく息を吐き、スマートフォンを机の引き出しにしまおうとした。
その瞬間だった。
画面が光った。
通知が来た。
あまりに速い。
理が送信してから、三秒。
——何?
理は再びスマートフォンを取り出した。
「了解です!」
文面には絵文字が二つ。その下には、ひよこのスタンプ。
両手を上げて喜んでいるひよこ。
理はその画面を、しばらく眺めた。
——情報量が多い
まず、返信速度。
理の計算では人間がメッセージを受け取り、内容を理解し返信内容を決定し、
入力し送信するまでの平均時間は十五秒から三十秒。
夜野はその五分の一で完了した。
次に、文面。
絵文字が二つ。
しかも異なる種類。
親指を立てたサムズアップと、キラキラ。
そして、スタンプ。
ひよこ。
なぜひよこなのか。
理の記憶では、夜野はひよこに言及したことが一度もない。
文脈との関連性が見出せない。
理はスマートフォンを伏せた。
——この後輩
理はこめかみを押さえた。
——思考と対応がバグっている。
——遅れて送るくせに、返信は秒速だ。
夜野紬という人間は「遅くなりましたが」と送ってきた。
あの一文には、送信をためらった時間が含まれているだろう。
だが、理の返信に対してはそれだけの時間で反応した。
この矛盾。この非合理性。この計算不能。
理の脳内会議は、敗北した。
理はスマートフォンを伏せた。
ただ、伏せずにはいられなかった。
——削除
理は指を画面の上に戻した。
長押し。
削除ボタンが表示される。
——削除すべきだ
業務連絡は終わった。
このメッセージに用はない。
夜野からの「了解です!」はもはや情報ですらない。
単なる反応だ。
削除して問題ない。
理は指を止めた。
削除ボタンの上で。
——なぜ
理由は、理にも分からなかった。
ただ、画面を閉じた。
削除はしなかった。
授業が終わるチャイムが鳴った。
理はスマートフォンをポケットにしまい、教科書を閉じた。
小野が近づいてきた。
「授業中なんか変な顔してたぞ」
と小野はけらけら笑った。
理は答えなかった。
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